第三十七話
そこは店舗と店舗の間の通路だった。
メインの通りの何メートルおきにその通路はあった。目には入っていたが、その通路を歩いたことはない。トイレと矢印が頭上の表示には記されており、私には無関係の場所だから気にも留めていなかった。
私はトムのことも忘れ、ちらりと見えた赤いスカートに吸い寄せされるようにして通路へ向かった。
「おいおい、まだ話の途中だぜ」
トムが肩を掴んできたが私は反射的にそれを振り払った。
白い壁の通路を曲がると、自動販売機が二基立っていてその間にはベンチが置かれていた。その奥に青い表示と赤い表示が間隔をおいて貼り付けられていた。
人気はない。
赤いスカートの少女も見当たらない。
「教えてやったんだよ」
トムはまだついて来ていた。
「いいか、有馬。一体化して感じるのはなにも飯を食ったときだけじゃない」
私は男用トイレに入って少女を捜す。
「一体化したヒトが感じてることを俺たちも感じることができるんだよ。直接じゃないが、ヒトが感じているであろう感覚を疑似体験できるわけだ。例えばここで小便する奴に入り込めば、小便してる感覚を体験できる」
「それがどうしたんだ」
聞いてもいないことをぺらぺらとしゃべる奴だ。
いい加減私もうんざりしてきた。どれだけ私が拒んでもこいつは私に付き纏ってくる。
「だから言ってるだろ。教えてやったんだよあの女に。セックスしてる奴に入り込めば、どんなもんか体験できるってな」
「だからそれがどうしたんだ?」
私はトムと向き合った。
「それが私となにが関係あるんだ? 確かにルイは私を誘ってきたが断わったよ。こっちはそんなものに興味ないからな」
気が立っている私を気に留めるでなく、トムは笑った。
「もったいねぇなあ」
「じゃあ君がやればいい」
「俺にはもっと楽しいもんがあるんでな。ルイが女、お前が男と一体化すれば面白いことができるんだよ」
「できるって――なにを」
トムの術中に嵌まった瞬間だ。この男は巧みに私の興味をコントロールしてくる。私がなにに食指を動かすか、この男は見透かしているのだ。
「俺も最近見つけたのさ。一体化しているヒトならば、触れるんだよ。俺たちは」
「触れるってどういうことだ」
「言葉の通りさ。白いコートを着た奴が入り込んだヒトには触れるんだよ。俺たちはね」
――ヒトに触れる。
その言葉は私にとって衝撃だった。
一体化はあくまでヒトとの同化であり、ヒトに直接触れられるわけではない。ヒトの感覚を――ヒトの感覚に似たものを感じることができるにすぎない。ヒトに触れるというより、ヒトの触れたものに触れたような気がするというだけのことなのだ。トムの言うことが本当ならば、能動的にヒトに触れることができるということだ。
「それ男女の営みの中で一体化すれば、お互い自由に動かすことができるということか」
三秒だけだがな、とトムは言った。
「三秒という短い時間だが、繰り返すことはできる。面白いだろ?」
「それをルイに教えてやったのか」
「面白そうだと目を輝かせてたぜ」
私はトムに詰め寄った。身長差で私の胸元にいるトムの頭頂部を見下ろすような形だ。
「それでけしかけたんだな。私に」
見下ろされたトムが無言で白い歯を見せた。
「なぜ私なんだ? あんたはやけに私に拘るようだが理由はなんだ」
「別に拘っちゃいないさ。あんたのようになんでも興味を持つ男なら喜んで協力してくれるさと言っただけだ」
嘘だ。
この男は私に付き纏っている。
有馬医院の件もそうだ。私の行く先々でこの男は姿を見せる。なにかと私を付け回しているのは明らかだ。
「もう私を放っておいてくれないか。いろいろとこの世界のことを教えてくれたことには感謝している。だが、ここから先は私自身でこの世界のことを見て回りたいんだ」
私は再び辺りに目をやった。
通路はどん詰まりで、その先は関係者以外立ち入り禁止のプレートが貼られた銀の扉があるだけだ。あの少女はトイレにでも行ったのだろうか。それならばここにいればきっと会えるはずだ――そんなことを考えていた。
「――だろ?」
トムがなにか言っている。私の意識はすでにトムから離れていたからなんと言ったかはっきりと聞き取れなかった。
「なんだって?」
私が再び意識をトムに戻したそのとき、ひとりの男が私たちの前を通った。
白いコートを着ていないからヒトである。ヒトであるから、ただの風景のひとつとして私の視界に入っただけだったが、どこか妙な違和感を感じた。感じはしたが、その違和感を吹き飛ばすほどの表情をしたトムがそこにはあった。
私を強く睨めつけていて、その瞳の奥には明らかに憎悪と殺意を抱いている。常にへらへらしていて締りのない顔をしていたトムの顔つきは、今まで見たことのないほどに歪んでいた。
「頼まれたんだろ?」
口調も強い。
「頼まれたって――何の話だ」
「惚けるなよ。オサムに言われたんだろ? 俺を消せってさ」
「消すだって? 一体なにを――」
トムの掌が私の口を覆った。太くて短い指が頬に食い込む。痛みも苦しさもないが、不快なことには変わりない。
「まったく。あんな負け犬にそそのかされやがって。だから近づくなと言っただろ。あれは助言じゃなく――」
警告だったんだよ、とトムが噛んで含めるように言った。
「自分じゃなにもできないくせに、あんなところで仙人気取りだ。無能な白いコートたちのお悩み相談に明け暮れて、この世界を楽しむ俺を邪魔もの扱いだ。聞いたんだろ? 俺のことをいろいろと」
口を塞いだ手に力が込められて行く。呼吸しているわけでもないのに次第に息苦しくなっていくような気がした。
私は力に任せてトムを突き飛ばした。トムの手は顔から離れ、私は身構える。
「心当たりがあるんだな。他人に消されるような心当たりが。例えばあんたがいつも殴ってたあのマッチ棒のような男とか――」
「マッチ棒? ああ、あの細長い男のことか。よっぽど気になるみたいだな」
気になる――。
そうだ。
なにかがずっと気になっていた。
ずっとどこか引っかかっているものがあるのだ。
あの少女。
さっき私たちの前を通った男。
あの男、手前にある青い表示のトイレではなく、その先に歩いて行かなかったか。
その先にある立ち入り禁止の扉は開かなかったように思う。
あの扉の向こうではなく、赤い表示の通路入って行かなかったか。
その行動の持つ意味――。
私はトムを警戒しながらも、思考を巡らせた。
――いやな予感がする。
「話はあとだ」
そう言って私は赤いマークの通路へ急いだ。




