第三十五話
「ねぇ――」
私はさらに驚いた。
向こうの世界の住人に姿を見られたことはあっても、話しかけられたことは初めてだ。
「――ママ、知らない?」
なにを言っているのだこの子は。
ヒトなら周りにいくらでもいるというのに、よりによってなぜ私に話しかけるのだ。そもそも、この子には私の姿がそんなに鮮明に映っているいるのだろうか。
怪訝な私をよそに、症状はあたりをキョロキョロ見回しながらどこかへ行ってしまった。
――あの子は。
――あの子はもうすぐ死ぬ。
それがいつかは分からない。
今日かもしれないし明日かもしれない。
こんなヒト気の多い場所でしかも室内。危険とは無縁のようなこの場所で命を落とす可能性だってあるのだ。
なぜなら。
彼女には私の姿が見えていたのだから。
――なぜあんな子供がそんな目に。
私は頭を振った。
――余計なことを考えるのは止せ。考えるだけ無駄だ。
ヒトはどうせいつか死ぬ。それが早いか遅いかだけの話だ。彼女の場合、それが他人よりも少々早まっただけなのだ。
――放っておけばいい。
私がどれだけ考えを巡らせたところで彼女の運命を変えることなど無理なのだ。現にオサムはそうしようとして、何度も心配を繰り返した。結局、なにもできないままあんな場所に逃げ込んだのだ。
私は違う。
助けようなどと思いあがった考えは無い。
無いはずなのだが。
私の足は自無意識に動き出していた。動き出し、あの少女を探していた。
あの少女が気になって仕方がないのだ。
ヒトと目があったことは何度か経験している。そのたびに私は彼らを素通りし、その後どうなったのか知ろうともしなかった。そんなことに私の興味が向くことは無かった。
だが彼女は違った。
会話するという行為がこれほどまでに私の心に纏わりつくとは思いもしなかった。
彼女の声が耳から離れない。
私の姿を捉えた彼女の純な瞳が目に焼きついて離れない。
――どこだ。
――どこへ行ったんだ。
私はいつの間にか早足になり、今にも駆け出さんばかりになっていた。
焦っているのだ。
いつ彼女に死が訪れるのか。こんな建物の中で突然死ぬようなことはないのだろうが、一刻も早く少女を見つけたかった。
そして彼女を探しながら、ひとつの欲が頭を過ぎった。
――助けたい。
そんな馬鹿な。
私は自らの思考を否定した。
一体なにを考えているのだ。そんなことが無意味なことはオサムが長年の経験によって証明しているではないか。今更私がそれを実行したところで、それが不可能なことであることは分かりきっている。
無駄なことを考えるな。
――じゃあ、なぜお前はそんなに必死に少女を捜す?
私の中のもうひとりが問いかける。
――意味など。
意味などない。
ただ今の私は衝動で動いているだけなのだ。
結果がどうなるかなど今の私にはどうでもいいものだ。
今はただ、あの少女を捜すだけだ。
「えらく急いでるじゃないか」
背後から声を掛けられ、私の体は固まった。
突然話しかけられ、驚いたからではない。聞き慣れた、随分御無沙汰な声が耳に飛び込んできたせいで固まってしまったのだ。
振り返ると、そこには。
白いコートに両手を突っ込み、黄色い歯を見せて笑っているトムが立っていた。
「そんなに急いでどこへ行くんだよ」
私は応えあぐねた。
あまりに突然で、あまりに久しぶりに見る顔で、どう反応していいのか分からなかった。オサムからいろいろな話を訊いたから尚更である。
口籠っている私にトムが詰め寄った。
「久しぶりに会うっていうのに随分よそよそしいじゃないかよ。こんなとこでなにやってるんだ?」
別に、と私は素っ気なく応えた。
早くこの場をやり過ごしたい。やり過ごしてあの少女を早く捜さなければならない。
「別にってことはないだろう」
そういうとトムは私の肩に手を回してきた。
初めて会ったときと同じだ。
この馴れ馴れしさ。
久しぶりに感じた不快感だ。
「悪いが急いでるんだ」
ここは正直に言う方が得策だ。この粘着質な男をやり過ごすには、正直に言って往なすしかないと私は考えた。
「まあそう言うなよ」
組んだ肩を引き寄せられ、トムの顔がすぐ横まで迫ってきた。近くて見ると益々達磨に似ている。
「どっちだ?」
「え?」
「だからどっちを捜してるんだよ」
なにを言っているんだ。相変わらずこの男は掴めない。
さらに顔が近づき、トムが耳元で囁いた。
「お前の彼女か、小さな娘か――どっちを捜しているのかと聞いているんだよ」
私を嘲笑うかのような口調は、私の背筋を凍らせた。




