第三十二話
無責任なことを言う男だ。
自分の昔馴染みの悪行を止めるのに、まだ会って間もない私に押し付けようというのだ。
呆れている私を見て、オサムは笑った。
「あなたぐらいですよ。この世界で他人に興味を持っている人は」
「だからといってなぜ私が――」
「僕には無理なんですよ。僕はもうここから動けない。いや、動きたくないんです」
勝手な話に開いた口が塞がらない。
「元々はあんたの知り合いだろう。あんたがさっさと行って止めてやれよ。同族が遊び半分で消されてるんだぞ」
「僕には関係のない話だ」
オサムの顔から笑顔が消え、冷ややかな目がふたつ並んでいた。私が初めて彼と会ったあの日、遠くを無機質に眺めていたあの顔だ。
「他人と関わったところでなにがありますか。僕は向こうの世界のヒトたちと必死に関わろうとした。だけど結果はいつも同じだ。目の前で死んでいくヒトたちはなんの罪もないヒトたちばかりだった。さして悪さをした訳でもないのに、ある日突然死が襲いかかる。それを私は救いたかった。この世界にいて、なんの意味も持たない存在の僕が少しでも役に立てればと思った。結果はご覧のとおりだ」
オサムは両手を広げ空を仰いだ。
夜空が薄くなり、かすかに青味を帯び始めていた。東の方から温かみのある光が漏れてきている。
「いつまでたってもこの世界から抜け出すことはできない。ならば、少しでも自分の存在意義を見つけ出そうとした。でもそれも失敗した。それなら――」
オサムの冷ややかな目が私を捉えた。
「いっそのことこの世界から消してもらった方がまだ幸せですよ。それが多少の苦しみを伴うとしてもね」
それならあんたも消してもらえばいい――という言葉を私は呑みこんだ。
その言葉をオサムに投げても彼は否定するだろう。その気があるならとっくにそうしているはずだ。長い年月をこの世界で暮らしているのだから、そのチャンスはいくらでもあっただろう。
しかし、オサムはそれをしなかった。
いや、できなかったのだろう。
結局、この男もこの世界に長くいる間に楽しみの方向性が固まってしまっているのだ。
トムとは真逆の方向に――。
トムは死に。
オサムは生に。
生にこだわるあまり、いつの間にか自分も生へ固執してしまっているのだ。だから自分で消滅の方へも進めず、こんな場所に居座ってしまっているのだ。
オサムはハリーの言うような、この世界の解放を追い求めているわけではない。単に死から、消滅から逃げているように私の目に映った。
解放を探すなどというのは体のいい言い訳に過ぎない。
「あんたの考えはよく分かったよ」
もうこの場所にいる理由は無い。
私の知りたいことも興味も、この場所にはもう無くなってしまった。
「――軽蔑しますか。なにもできない僕を」
私は静かに首を振った。
「これまでこんな世界に長くいる――それは尊敬するさ」
そう言ってオサムを残し、私は屋内への扉へ向かった。
別れの言葉などここには必要ないだろう。オサムはこの場所からひたすら案山子のように突っ立って下界を眺めているのだ。その辺を歩きまわっている私のこともここから眺め続けることだろう。
扉の前に立ったとき、ふと気になることを思い出して、足を止める。
「ああ、ひとつ気になることがあるんだが――」
私が振り向くと、オサムはまだ私の方を向いたままコートのポケットに両手を突っ込んでいた。
「誰とも関わらないと決めたあんたがなぜ私には色々と話をしてくれたんだ?」
もちろん話を聞きにここへやって来たのだが、世捨て人になるくらいだ。もっと偏屈で話を聞き出すのに苦労すると思っていたが、意外にもオサムは雄弁だった。
私の問いにオサムは頬を緩め、しつこいからですよと言った。
「でもそれだけじゃない。あなたのように物事全てに興味を持って、他人に関わろうとする人も珍しいんですよ。あなたはこれまで見てきた白いコートの中でも変わってる。だから話してみたいと思った。それだけです。トムもきっと同じ気持ちなんでしょう」
オサムの言葉に私も笑顔で返し、屋上を後にした。
――もうここへ来ることもないかもしれない。
なぜかそんな気がした。




