第三十一話
座りましょうか、とオサムは言った。
促された私は少年のいつも立っている建物の際に腰を降ろした。隣の少年は放り出された足を楽しげにぶらつかせている。
「そんなに難しい話ではありません」
オサムかあっけらかんと言った。
「私がこの世界に慣れ始めたとき、彼はこの世界にやって来ました。この不思議な場所に戸惑うこと無く、彼は最初からここを楽しんでましたよ」
それがいつの頃の話なのか私は知らない。知らないが、随分昔のことなのだろう。オサムは遠くを見つめながら語った。
「ここはどこだ、あんたはここでなにをしている、ここではなにができる、向こうの世界にはどうやって行ける――いろんなことを聞かれ、知っていることを話しました。この世界やって来た人は大きくふたつに分かれます。ひとつはなにも分からないまま全てを受け入れ、他人との接触もほとんどせずにただ漫然と日々暮らす者。そしてもうひとつはあなたやトムのように知るべきものを求め、他人とも積極的に交わろうとするもの。あなたたちはよく似ている。だからトムもあなたを気に入ったのでしょう」
「喜ぶべき――かな」
私もオサムも自然と笑みがこぼれた。
「その頃の私はまだ世界を歩いていた。この世界から抜け出すにはどうすればいいのか。そればかりを考え、向こうの世界を観察して回っていた。そこで出会ったのがトムだ。彼は私と違い、この世界よりも向こうの世界に興味があった。どうにかして向こうの世界に行ってみたい――そう考えていました。目的は違えど気が合った私は毎日行動を共にし、研究を重ねているうちに行きついたのが――」
「一体化か」
オサムは頷く。
「偶然の出来事でした。偶々私の体にヒトが重なった。人混みの中、私の中をヒトが擦り抜けて行くことは当たり前のように経験していたけれど、自分自信がヒトに入り込むことができるなんて思いもしなかった」
「一瞬だけだったんだろ。一体化したのは」
「反射ですよ。ヒトが熱を感じたときにサッと手を引っ込めるようにね。実際、あまり気持ちのいいものではなかった。なんというかその――ヒトの感覚が私の中に流れ込んでくる気持ち悪さを感じました。今まで感じたことのないものを急に目の前に出されても戸惑いしか生まない。私は一体化を拒絶した。ところが」
「トムは違った」
「彼は興味津々だった。すぐに試してたよ。一体化をね。これは面白いと、新しい玩具を貰った子供のように喜んでいた。私は止めた。この行為が我々にどう影響するか分からない。無闇にやるものじゃあない、とね。実際、ルールが存在したわけだから私の考えは間違ってはいなかった」
「三秒か」
「その時点ではそのルールのことは知りません。知らないことを実行するのにはリスクが伴う。だから私はトムを止めた。そこからです」
そこから。
ふたりはそれぞれの道を歩き始めたそうだ。
ひとりは、ヒトを救おうとする道。
ひとりは――。
ヒトと人の死に魅入られ、それを味わう道。
「私のところへいろんな悩みを持つ人が来るようになってました。白いコートを着た人たちはみな共通する悩みを持っていました。あなたが探しているものです」
「楽しみ、か」
「私は彼らになにか楽しみを見つけるべきだと話した。現にそのとき、私もそれを見つけて存在の意義を感じることが出来た。それがこの世界から抜け出すことに繋がると信じていた。実際――」
繋がりませんでしたけどね、と笑うオサムの目は泣いているようにも見えた。私たちに流れる涙があるのかは知らないが、私にはそう見えたのだ。
「そこで噂を訊いたんです。トムが他人を使って実験を繰り返していると」
「私も訊いたよ。とんでもない話だ」
「この世界に来たばかりのヒトを捕まえては一体化させ、安全な時間を探していました。あなたも知っていると思うが、彼は一見親しみやすく好意的だ。会なにも知らない相手ならば、警戒心も薄れてしまう。私なんかよりもずっと弁が立つ」
言えてるな、と私は苦笑した。
「止めなかったのか。古い友人だろう」
「止めましたよ」
少年は白いコートに両手を入れ、大きく息を吐いて顔を下げた。
「だけれど訊く耳を持たなかった。その頃にはもう、私と彼は絶縁状態。道で見かけても視線すら合わせなかった。それでも同族殺しなんて馬鹿な真似を止めさせるために私は数年振りに彼に会いに行ったんです」
「それで?」
オサムは首を振った。
「逆に言われましたよ」
白いコートが消える断末魔もいいが、ヒトが死ぬ瞬間を見るのは最高だぜ――。
私のまだ見たことのないトムの一面だ。
「彼の顔は私と出会った頃のものとは全く違うものになっていた。まさに狂気に満ちている顔でした。もう私の声は彼に届かない。彼は死神になっていたんです。ヒトにとっても白いコートの人たちにとってもね」
私と会ったときのトムはもうそちら側にどっぷりと足を踏み入れていたというわけだ。よくそんな相手にこれまで生きてこれたものだと我ながら思う。
そしてオサムはトムを止めることのできないまま、ある事件に立ち合ってしまったのだ。
この有馬医院の屋上から身を投げ、自ら命を断ってしまった少女チエ。
その一件があってそのままオサムは世捨て人となり、ここに留まるようになってしまった。
そしてトムは、唯一の昔馴染みであり抑止力にもなりえたオサムのいなくなった世界を楽しんできたのだ。
オサムが放棄した世界の中で、トムはまさに二つの世界の死神となってしまっていたのだ。
「もう彼を止めようとは思わないのか。こんな場所にい続けて、下の世界がどんなことになっていようが構わないのか」
苛立ちと怒りが混じった感情が湧いてきていた。
そもそも、ふたりで発見した一体化という行為を悪用しているのだ。ヒトの死を楽しむのは個人の自由で構わないが、こちらは違う。いくら罪という概念がないとしても、同族殺しは見逃されるような行為ではないはずだ。
それなのに。
この少年の姿をした古株の白いコートは知らん顔を決め込んでいるのだ。噂は耳にしているというのに、である。
「仰る通りですね。あなたの言う通り、私は卑怯者だ。これまでずっと傍観者を決め込んでいました。でも――」
オサムが私の目を見つめ返す。
「あなたなら止めてくれる――そう思うんですよ。私が出来なかったことを、あなたならやってくれるはずです」




