第三話
陽が傾き始めた。
橙色の西日が辺りを包み込む。眩しさに目を細めている時間はわずかで、次にやって来るのは漆黒の闇だ。家々の明かりは灯りだし、時々闇が薄れたりもするが、初めて経験する夜は意外にも心地良かった。
なによりこの静けさがいい。
静けさが闇を深くするのか闇が静けさを強くするのか分からないが、影の落ちない道を歩くのは悪くない。明るい時間よりも私にはこの黒い世界の方が好みのようだ。
結局、私は黒髪の女の『楽しみを見つけろ』という言葉を頭の中で反芻しながら、知らない道を歩き続けた。
何人もの白いコートに話しかけたのだが、誰一人としてこちらを見向きもしない。話しかけても知らぬ顔で通り過ぎ、腕を掴んでも振り解かれた。同じ世界にいるというのに、会話すらままならないのだ。
そうこうしているうちに日が暮れて、気がつけば目覚めた場所に私は立っていた。
建物が立ち並ぶあの場所だ。目が覚めたときには混乱して気がつかなかったのだが、目の前には大きな病院があった。白壁の四角い建物には『有馬医院』と看板が掲げてある。決して強くはない光が、上下左右から文字を照らしていた。建物にはいくつもの窓が並び、所々でカーテンが揺れていた。
有馬医院の文字が気にはなったが、その病院になにも意味を感じ得なかった。なにかを思い起こさせる呼び水にもなりはしない。ただ偶然私の目に留まっただけのその看板が、私の目覚めた場世の目印というだけだ。
辺り一面に闇が広がり一日が終わろうとしているが、私の声に反応してくれたのはあの黒髪の女だけだった。
彼女はどこまで進んだだろう。
黄色い車を連続で見られたのなら、二個分の歩道橋を進むのだろうか。一度に何台黄色い車を見ても、進むのは一個分だけなのだろうか。
彼女を追いかけて、さらに情報を得ようかとも考えたが、他の白いコートたちの反応を見ると気が進まなかった。あの時も、彼女は決して快く話をしてくれたわけではない。眉ひとつ動かさず、無機質に私に向かって言葉を発しただけで、再び追いかけたところで反応してくれるとは限らない。あまりにも無視をされ続けると弱気にもなるというものだ。
私はとりあえず有馬医院に背を向け、静かな闇に向かって歩きはじめた。
日が暮れるまで歩いて気付いたことだが、どうやら私の体は疲労というものを知らないらしい。。どれだけ歩いても息は切れないし、腹も減らない。何かを食べたいとか、喉を潤したいという欲求を感じないのだ。腹も減らなければ喉も渇かないから、休息も必要なかった。時々立ち止まってみたりもするが、それは疲労ではなく歩くことに「飽きた」ときだった。どれだけ話しかけても誰も構ってはくれないし、これといって見るべきものもない。ただ漫然と景色は流れ、ヒトと車が通り過ぎていくだけで興味を引くものがないのだ。
だから黒髪の女は楽しみを見つけろと言ったのだろうか。
ただ歩くだけの退屈なこの世界に楽しみを見つけなければ、耐えられないということなのだろうか。
だからといって、黄色い車を追いかけることが楽しみになるとは到底思えない。車を見つけては先に進むという、まるで一の目しか出ない鈍重なすごろくのようなもののどこが楽しいというのだ。彼女にはそれが楽しみに足るのだろうが、私には真似できそうにもなかった。
私に合う楽しみがあるのだろうかと淡い街灯の道を歩きながら考える。
そんなくだらない楽しみを見つけるために、私はこの世界に置き去りにされたのだろうか。
仮に私が死んでここへ来たというのなら、一体どんな罪を生前にしてしまったのかとも思う。白いコートを着さされ目の前に触れられもしないこの世界は、まるで罰のようにも思えてくる。眠ることの欲も食べることの欲も排除された世界で、取るに足らない自分の楽しみを見つけろなどという罰を与えられた私はどんな罪人だったのだろう。
そんなことを考えながら歩いていると、前からひとりの女が歩いてきた。スーツを身にまとった女は向こうの世界の住人だ。暗い夜道を足早に歩いている。ヒールがアスファルトを叩く音が静寂の中で響く。いつの間にか私は静かな住宅街まで進んでいた。
女が私の方へ近づいてくる。耳には携帯電話を当て、誰かと話をしているようだ。夜道を一人で歩く恐怖を電話で紛らわしているかのようだ。
ふと気がつくと、そのスーツの女の後ろを白いコートの男が同じ歩幅で歩いていた。坊主頭で肩幅が広い。スーツを翻して歩く姿が様になっている。当然だが、スーツの女は背後について歩くその屈強そうな男には気付かない。
なにをやっているのだろう。
気になった私は二人の後をついていった。尾行などといった上等なものではない。少し距離を置いてふらふらと二人の進む方へと歩いているだけだ。どうせ私も女には見えないし、白いスーツもこちらには反応してくれないのだろうから、普通に歩けばいい。
しばらく夜道を進むと女は茶色いマンションへと入っていった。バッグから鍵を出していたからここが彼女の家なのだろう。細長いその建物はどうやら独り暮らし用のマンションのようだ。坊主頭はというと、彼女と一緒にマンションへ入らず、エントランスの入り口付近で足を止め、その場で直立して上を見上げたまま動かなくなった。その立ち姿は、昼間見た黒髪の女と同じだ。視線と一緒に体までその場所に固定している。
私は彼の隣まで行き、一緒になって上を見上げた。
横並びの窓のひとつに明かりが灯る。あの部屋がスーツの女の部屋のようだ。
「なにをしてるんだい」
上を見上げたまま私は訊いた。
応えてくれることに期待はしていなかった。今日一日、ずっと無視され続けてすっかり慣れてしまっている。それならば、この男の楽しみはあの女について回ることなのだと勝手に解釈するだけだ。
「――守ってる」
驚いた。男は彼女の部屋を見上げたまま、そう応えたのだ。
「守るって彼女を?」
「そうだよ」
「毎日彼女と一緒に行動しているのか」
「そうさ。いい娘だ」
「それじゃあ一緒に上まで行けばいいじゃないか。こんな所にいないでさ」
どう彼女を守るのか知らないが、どうせやるなら徹底的にやればいいのにと私が言うと、男は「危険は外にしかないから」と応えた。
「今まで危険なことがあったのか」
男は首を振った。
「じゃあ何のためにこんなことしてるんだよ。全く無意味じゃないのか」
「意味などいらないよ。それが私の《《楽しみ》》だから」
まただ。
また楽しみだ。しかも他人にとってはどうでもいいし、どこが楽しいのかも分からない。
私は直立したままの男をその場に残し、再び歩き始めた。
楽しみ。
私にそんなものが見つかるのだろうか――。
満足そうに女の部屋を見上げる坊主頭の顔を思い出すと、少し羨ましくも感じた。