第二十六話
――オサムが。
私は有馬医院の看板を見上げて呟いた。
「ある日、彼はこの屋上である女の子と出会いました。まあ、出会うというより見られたと言った方が正しいかな」
青年は歩道の植え込みに座った。私とトムがよく座って話をしていた場所だ。私も青年と並んで腰掛ける。
「偶然でした。どうすれば助けられるか、そうすれば運命を変えられるか。どうすれば神に勝てるか――。そんなことを考えながら、気が付くと有馬医院の屋上に上がっていたんです。そこで彼女と出会った」
私はオサムのいた屋上を思い出す。中央に大きな給水塔があり、建物の縁には白い柵。その柵の向こうにオサムは立っていた。澱んだ空を漫然と眺めながら――。
「彼女は市内の女子高の制服を着ていました。オサムが屋上に足を踏み入れると、少女は驚いて振り向いた。反応したんですよ。白いコートのオサムに」
「彼女には見えたのか。オサムが――」
青年はそうです、と応えた。
「『ここでなにをしてる?』 オサムはそう尋ねた。姿は見えていても声は聞こえないのに。そんなことも忘れてしまうほど、オサムはヒトを助けることに必死になっていた。ところが――」
「届いたのか。声が」
「驚いたそうですよ。彼女は『高いところが好きなの』と応えた。驚いたものの、彼女の表情はとても好きな場所にいるようなものではなかった。それはその――とても哀しい顔をしていたそうですよ。それに彼女は柵の向こう、建物のギリギリの縁に立っていた。そこでオサムは悟った」
青年はそこで言葉を切ったが、私はなにも言わなかった。大方の想像はつく。先の言葉を黙って待った。
「ああ、彼女はここで死ぬ気だ、と。だから私が見えるのだ、と。オサムは言った――」
――『死んではいけない。こんなところにいてはいけない』
――『もう駄目なの』
――『そんなことはない。君のような若い子はまだ苦痛になれていないだけだ。今以上に楽しいことが待っている』
少女は首を振った。
――『もうないもないの。私を助けてくれる人なんてこの世界にはいない』
――『それは違う。私は君に死んで欲しくない。今初めて会った私でもそう思うんだ。他にもきっといる。君の両親だって帰りを待っている』
少女の頬を涙が伝う。
オサムは少しずつ柵の向こうにいる少女に近づいた。
――『両親? あんな人たち、私の存在だって気にしたこと無いわ。学校の先生だってクラスメイトだってそう。友達と思っていた人たち皆そうよ。あんなに私のこと好きだって言ってくれた人でさえ――』
その瞬間。
駆け出したオサムの視界から少女は消えた。
「掴めるはずもない少女の手を掴もうと、オサムは必死に手を伸ばした。だけど――」
少女はそのまま地面に叩きつけられ死んだ。
青年は有馬医院の屋上を見上げた。
「少女の名前はチエ。『高校生の少女、妊娠を苦に自殺』そうニュースでは扱われていました。彼女の家庭は壊れていて、両親共々他に愛人を作りチエのことなど知らぬふり。学費だけは払ってくれていたものの、ほとんど家にいなかったそうです。そして寂しさを紛らわすために男に愛を求めたが妊娠したことを知って、別れを切りだされる。友達や先生に相談したが、その中の誰かがよそに吹聴。噂は学校中に広まり、チエの居場所はどんどんなくなっていった」
「気の毒に」
心からそう思った。
貧乏くじを引くものはとことん引きまくるのだ。彼女は寂しさを紛らわす手段を間違えた。だからといってまだ若すぎる彼女を攻めることはできない。誰かひとりでも彼女に救いの言葉を掛けてやることができたなら、自ら死を選ぶこともなかっただろう。白いコートを着た男以外の誰かが。
「そこでオサムの心は完全に折れました。誰も救えないのなら、世界から目を背けることを彼は選んだんです」
だから。
だからオサムはあんなところでひとりじっと留まっているのか。
「あそこで寝転んでいる人もきっと自分の無力さに絶望したんでしょう。いつか立ち直ってくれるといいんですが――。オサムはまだそれができない。いや、立ち直るつもりがないんです。完全にどちらの世界も拒絶している。彼はこちらにいるようでいない。だからといって、向こうの世界にもいない。自分の、自分だけの世界を作ってそこに閉じこもっているんですよ」
絶望――。
病気などしない我々でも精神面では脆い部分があるということか。
そのチエという少女のように自殺すらできないオサムは、ずっとあの場所で自分がこの世界から解放されるのを待っているのだ。
いや。
ひとつだけ確実な方法があるではないか。
この世界から消えてしまう方法が。
「一体化をしようとは考えないんだな。三秒以上ヒトと一緒になっていれば消えられるんだろ」
相当な苦しみらしいが。
「彼は模索してるんですよ」
「模索? あんな場所に留まってなにを探すというんだ」
「一体化以外の方法を」
そんなものが本当にあるのか。
オサムにしてもトムにしてもこの世界は長いようだ。彼らが一体どれだけの期間ここにいるのかは知らないが、その知識量からしても相当前からだろう。オサムに至っては有馬医院が出来る前からこの世界にいると言っていたほどだ。
「残念ながら彼はまだ見つけられないでいる。しかし、きっとるはずなんだ、と以前私に言っていました」
その根拠はなんなのだろう。
この世界からの解放――ということは我々はこの世界に縛られ捕えられているというのか。
「あんなところにいたってここから解放される方法なんて見つかるはずもないだろう。それよりも下に降りて世界を回った方がよっぽど可能性があるじゃないか。そもそもそんな方法が本当に――」
声を荒げる私に青年は優しく言った。
「いなくなってるんですよ。現にこの世界から――」
「いなくなる?」
青年は続けた。声は抑え、辺りを気にしている。
「いつも見かけていた人がある日突然いなくなる。現に、そういう人を何人も知っている。いなくなっているんですよ、この世界から。彼らは一体どこへ行ったのか――」
――消える、だって?
ルイもそんなことを言っていた。
いや、ルイは別の言い方をしていた。
消される――。
いなくなると消される――似たような言葉ではあるが、ニュアンスが異なる。
能動的か受動的か。後者は恐ろしく強制的なものを感じる。
「いなくなるって、その――」
私は五本の指をすぼめてで開いた。ふっと消える煙を表現したつもりだが伝わったようだ。
「目の前で消えたわけじゃない。いなくなる瞬間を見たわけでもない。ただいなくなってるんですよ。今日の今日まで見かけない」
「どこか遠くへ行ったとか? 海外とか。ビルに昇れるんだ。飛行機や船にも乗れるだろう」
青年は苦笑して首を振り、あり得ないと言った。
「気付きませんか。我々は同じ場所をぐるぐる回ってる。道順は違ってもある範囲内を歩きまわってるに過ぎない。つまり、その範囲から出れないようにいつの間にかインプットされているんですよ。いつもより遠出したつもりでも、そこは自分のエリア内なんです。だから海外になんて行けるわけない」
「それは――それは気付かなかったな」
言われてみれば。
私は気が付くといつも有馬医院の前にいた。
自分の意思でそこに行こうとしていたわけではない。向こうの世界を見て回っているうちに、自然とそこに行きついてる。
私のエリアというやつは有馬医院を中心とした範囲ということなのだろう。
「彼らが死んだのか、消えたのか。私はそれを知りたい。だからヒトの死を観察している。この世界からの解放がもしも死ならヒトの死からなにかヒントを得られるかもしれない。死だけじゃありません。死の対極である生にも興味がある。だから――」
だからここなんです、と青年は有馬医院の建物を見上げた。
「私はあんたをここでも見かけたよ。看護師に混じって病室に入っていった。ここでも死を?」
青年は立ち上がって笑った。
トムとは対照的な笑顔だ。夜の帳の中、町の明かりに映し出される笑顔は爽やかさそのものだ。もし彼がヒトだったんら、女に不自由はしないだろう。
「気付いていないみたいですね」
笑顔に見惚れていた私は虚を突かれてしまった。
なんの話をしている?
「有馬医院――ここは産婦人科ですよ」
生と死――そのどちらもここにはある、と青年は言った。




