第二十五話
ヒトの死を見るのが楽しみ――。
やはり私には理解できない。
向こうの住人は死に向かって歩いている。それからは決して逃れることができない。つまり、私たちと違って向こうの住人は死んで当たり前なのだ。その当たり前のものに耐えきれず自分を見失ってしまった坊主頭の男もいれば、この青年のようにそれを眺めるのが楽しみなものまでいる。当たり前のものを眺めてなにが楽しいというのだろうか。
「昔ね――」
青年はゆっくり語り始めた。
「ひとりの男がいたんです。もちろん彼は白い衣類を着て黒いネクタイを付けていた。私たちと同じように突然この世界にやって来て、私たちをと同じように戸惑った」
青年は話を続けながら歩き始めた。私は自然と彼について行く。
「やがて彼はこの世界に順応し、いろんなものを見て訊いて吸収していったんです。今我々が知っているような情報をやはり彼も求め、手に入れてきた。ある日、その男が歩いていると、ひとりの少年がこちらに向かって来たそうです。初めはこちらの世界の者かと思ったが、白いコートを着ていない。向こうの住人だった。しかし、確実にその男と目が合っていてこちらに向かって歩いてくる。さらに驚いたことに――」
お兄ちゃん、と話しかけてきたという。
「そんな馬鹿な」
歩きながら私は吐き捨てた。が、それと同時にあり得ない話ではないのかもしれないとも考えた。稀に目が合うヒトがいるのならば、向こうにはこちらの存在が普通の人間として映っているのだ。それならばそこにいる人間として話しかけてくることもある――のか。
青年は私の言葉を無視して続けた。
「そんなことは初めてだった男は戸惑いました。突然声を掛けられ、驚いた彼は言葉を失ってしまった。そりゃそうです。そのあどけない少年はこちらに向かって飴玉を差し出してきた。一体なぜ少年がそんなことをしてきたのか、理由は分からないがとにかく、少年に彼の姿は見えていたんです。気になった男はその少年についていった。不思議なことに少年が男のことを見たのはその瞬間だけで、あとを付いて歩いているときは全く見えている素振りはなかったらしい。そして――」
「死んだ――のか」
青年は頷いた。
「それから二日後に。事故だったそうです」
「二日後だって?」
私と目が合った女はほんの数秒後に死んだ。件の男が少年に見られたというのも、トムの言う『死のサイン』というものではないのか。それにしては数秒後と二日後では随分と差が開いている。
「彼の話によると個人差があるそうです。こちら側と目が合ってそのヒトが死ぬまでの期間というのは。あなたのときのように直後のときもあれば一週間後のときもある。理由は分からないけれど、それはヒトそれぞれらしい」
「そこで知ったわけだ。自分たちの姿が見えたヒトは死ぬってことを」
「それだけじゃないんです」
いつの間にか私と青年は家電量販店を出て通りを歩いていた。
外の世界は陽が傾き、通りを行き交うヒトも車も心なしか急いているように見える。
「それだけじゃない?」
「彼はショックを受けたそうです。自分は向こうの住人にとって死の使い――死神なのだ、と」
死神――。
確かトムもそんなことを言っていたか。彼曰く、自分たちは神に選ばれたものだとも言っていた。トムは得意気に話していたが、件の男にとってはショックな事実だったのだろう。それはヒトの死というよりも自分が死を連れてくる存在だということへの失望だったのだろうか。もしそうだとしたら、トムとは対照的な人物のように思えた。
「それから彼は自分のことを見えるヒトを探し始めた。それだけじゃない。他の白いコートを見たヒトも探した。目が合ったヒトがいないか、目に留まった連中にいちいち訊いて回ったそうですよ」
「そんなもの探してどうするんだ。そいつも結局はあんたと同様、ヒトの死が楽しくなったか」
「逆ですよ」
「逆?」
「ヒトの死を見たいんじゃない。見たくなかったんですよ、彼は。こちら側の世界を見たヒト――つまりこちら側に足を踏み入れたヒトたちを助けたいと考えてしまった」
「助けるだって」
そんな馬鹿なことがあるのか。
「どうやって助ける? 向こうのものには触れないし声も聞こえない。それじゃあ助けようもない。警告すらできない。いや、死ぬのは分かっていてもいつどこでどうやって死ぬかも分からないのに、助けられるはずがないじゃないか」
私もそう思います、と青年は言った。
「それでも彼は諦めなかった。何人も目の前で死にながら、どうにか助ける方法を考えたそうです。いろんな方法で死を止めようと試みたが、どれも失敗に終わった。そうやって失敗を繰り返しながら、その男はあることに気付いた」
「なにに気付いたんだ」
「一体化ですよ」
「一体化って――。ヒトの体に入り込むってやつか」
「試したことは?」
――ある。
あることはあるのだが、どうにも慣れない。そう応えると、青年は私もです、と笑った。
「一体化できることに気付きましたが、彼はその危険に気が付いた――」
「ヒトに吸収されるってやつか。それにしてもよく気が付いたな。下手すれば気が付いた時点で抜けられなくなってもおかしくないだろう」
「そこが彼の賢いところですよ。一体化できると分かった瞬間、すぐに抜けだした。驚きと戸惑い、それと同時に胸騒ぎがした。“これはあまりいいことではない”とね。だから長居は無用とすぐに飛び出し、それ以上試すことはしなかった」
「お利口だな。そいつは楽しむことはしなかったわけだ」
皮肉っぽく言うと、青年の眉が少しだけ動いた。なにかに反応したようにも思える。
「危険を察知したんでしょう。死ぬ運命にあるヒトを助けるのに使えるかもしれないと考えたがそうしなかった」
「懸命だな」
使えるとは思えない。一体化はあくまでヒトの感覚を共有できるだけでこちらからコントロールはできない。一体化した瞬間、ヒトの指先だけでも動かせるだけなた別だが。
「話を戻しましょう。そうやって彼はヒトの死ぬ運命を変えようとしたが上手くいくことはなかった。一つ断っておきますが、誰でも助けようとしたわけではあるません。病によって死の淵にいるヒトに対しては優しく見守った。病院のベッドの上、息を引き取る間際のヒトが彼を見たこともありましたが、彼は微笑むだけだった。病には勝てない。その運命からは逃れることはできないと彼は考えていた」
「じゃあ誰を助ける?」
私の問いに青年は足を止め、体をこちらに向けた。そして曇りのない瞳でじっと私を見返した。
「理不尽な死」
「理不尽――」
「彼は悪人や病人の死には興味がなかった。彼らは死ぬべき運命なのだと割り切った。だけど向こうの世界の理不尽さには我慢ができなかった」
「だからどういう意味なんだ」
青年の瞳は私を捉えて逃がさない。
「あのニュースの女みたいになんの罪もないヒトの死が彼には理解できなかったんです。最初に彼を見た少年も同じ。彼らは大した罪もないのに突然、死に襲われた。例えヒトが死に向かって歩いているのだとしても、ああいう死に方はあまりにも理不尽だ。あの少年も女も、ベッドの上で穏やかな死を迎えることができなかった。男はそれを変えたかった。まさにそれは――」
神への挑戦だ――。青年はそう言うと体を向き直し、再び歩き始めた。
私は慌てて彼を追う。
――神への挑戦だって?
あまりにも突飛な考えになにも言えなかった。
トムは私たちをこの世界に放り込んだのは『神の仕業』だと言っていた。トム流の冗談だと思っていた。
だが。
だか彼はどうだ。青年の話の男は本気で神の存在を信じているとでも言うのか。
誰だ。
一体その男は誰なんだ。
会って。
会って話を訊いてみたい。
「おい、そいつは誰なんだ。どこにいる――」
青年は立ち止まり、人差し指を天に向けて掲げてみせた。
まるで映画のワンシーンのように大仰な仕草だ。
私はその人差し指の先に視線をやった。
そこには――。
有馬医院の看板。
「その男はここにいます」
「ここって――。その男というのは――」
「オサムですよ」
青年は静かに言った。




