第二話
私は首に巻かれたネクタイを引っ張ってみた。
黒いネクタイは私の首にしっかりと巻かれていて、強く引けば締め付けられる感覚を覚えた。向こうの世界には拒まれたが、自分の身につけているものは触ることが出来る。当たり前のようなことだが、なにかに触れるということはどこか私の気持ちを落ち着かせた。その感触が夢や幻ではなく、確かに私は存在していることを改めて確認できるのだ。
きちんと結われたネクタイを見て不思議に思う。
この結び方は確かプレーンノットと呼ばれる一般的な結び方だ。自分で締めたのだろうか。結び方はなんとなく分かるのだが、自分で締めた記憶はない。
そして身につけているものもそうだ。
ワイシャツは気持ち悪いくらい自分の体にフィットしている。ロングコートとパンツの丈もピッタリだ。靴のサイズも丁度良く、実に歩きやすい。ベルトの穴ですら綺麗に収まっているのだ。
誰が着せてくれたのか知らないが、実に準備のいい事だ。
きっと他の連中もちょうどいいサイズの服を着させられているのだろう。
私は十メートルほど先にある歩道橋の上で行き交う車を眺めている同じ白いコートに目を付けた。
――ここが何なのか訊かなくては。まずは情報を集めるのだ。
私は歩道橋へ向かった。
道すがらふと、あることが気になった。
――私の姿はどうなんだろう。
身につけているものはわかった。視線の高さから、身長がどれくらいかだとか体格も大方の予想はできる。分からないのはどんな顔をしているのかということだ。どんな目をしてどんな形の鼻が付いているのか、それが気になった。
私は歩道に停車している車のサイドミラーを覗きこんだ。運転席にヒトが乗っているが、どうせ私の姿は見えないのだから気にすることはない。
覗きこんで私は落胆した。予想はしていたのだが、その通りになると存外がっかりするものなのだ。
サイドミラーに私の姿は映っていなかった。
覗きこんだ鏡には私を除外した世界だけが映り込んでいる。まるでサイドミラーがお前のことなど映してやるかとあざ笑っているかのようだ。
ここまで綺麗に映っていないと逆にすっきりする。自分の顔が分からないのは気持ちが悪いが、鏡に映らないのならどうしようもない。
あの歩道橋の白いコートに私がどんな顔で年がいくつくらいに見えるか、訊いてみるのもいいだろう。白いコートは動くこと無く、同じ場所に立っている。
歩道橋を一段一段昇っていく。世界のものに触れないのに足だけは地面を踏みしめているから不思議だ。大地ならともかく、この歩道橋だってコンクリートと鉄骨でできていて、ヒトの作ったものなのに足で触れるのだ。手すりを掴もうとしたのだが、こちらの方は私を拒むようにすり抜けた。そういうルールなのだろう。目が覚めてほんの数分だが、この世界の決めごとを自然に受け入れようとしている自分がいた。少しずつ頭がこの現実に順応しようと働きかけているのだ。
歩道橋の丁度真ん中に彼は立っていた。いや、近づいて気付いたのだが、彼ではなく彼女のようだ。背中の真ん中あたりまで伸びた黒髪が美しく、化粧けのない顔が印象的だ。彼女は気をつけの姿勢で車の流れをながめていた。
「やあ」
横から声をかけたが反応は無かった。一瞬向こうの世界のヒトなのかと思ったが、彼女は目玉だけを動かして私を見た。その静かな反応が嬉しい。ここへ来て初めて私の声に反応してくれただ。私の声は聞こえている。
「実はついさっきここへ来たんだけどーー。何が何やら分からないんだ」
「――そう」
彼女は再び目だけを私に向け、そう応えた。表情一つ変えず、全く興味ないといった風だ。反応は冷ややかだが、初めて他人と会話できたことが私をさらに高揚させた。そんなことを意に介さず、私は続けた。
「こんなところでなにをしているんだい。さっきからここに立ちっぱなしみたいだけど」
彼女の隣に立って同じように視線の先を追ってみたが、車の群れが通っているだけでこれといって珍しいものはなかった。遠くに同じ白いコートが数人見えるが、背景に紛れているだけだった。
「車が好きなのかい」
「――別に」
「ここは一体どこなんだろう。なぜ僕たちは同じ恰好をしているのかな」
自分のコートを広げておどけてみせたが、女は私の問いに答えてはくれず、やはり視線は車の群れだ。埒が明かない。
思い切って私は彼女の肩を指で叩いた。
――触れる。
何気なくとった行動だが、自分以外のものに触れられたことに驚いていると、彼女は体ごと私の方へ向いた。その動きはまるで機械仕掛けの人形のようだった。
「さっきからなんなの。私の邪魔をしないで」
「ご、ごめん。この世界に混乱しているんだ。知りたいことが多すぎて――」
「じゃあ、教えてあげる。そんなことは誰も知らない。同じ恰好をしていることも、なぜこちら側の世界にいるのかも、そんなこと誰も知らないし教えてくれない」
私が面喰って絶句していると、彼女は再び向き直り、直立の姿勢に戻ってしまった。
叱責されたことより、もなにも知らないという彼女の言葉の方がダメージが大きい。 この世界のことをなにも知らないのなら、どう行動すればいいのか分からない。
向こうの世界のヒトならば、働いて食べて寝る。種を残すために行動し、やがて来る死に向かって抵抗しながら生きていくのだろう。自分に関する記憶はなくてもそういう知識や思考はできる。
ヒトが死に向かって進むなら、私はどこへ向かえばいいのだろう。知らない服を着て、知らない場所で自分のことも分からないまま死に向かって進むだけなのか。
「――車」
「え?」
突然、彼女は言った。
「車よ。黄色い車」
私は彼女の視線の先を見た。様々な色や形の車がめまぐるしく走っているが、黄色い車は見当たらない。
「どこに黄色い車が?」
「黄色い車が通ったら、私は移動するの」
「移動する――どこへ?」
そう訊くと、彼女は反転して遠くの方を指差した。特になにも見当たらない。ビルとその上に広がる薄い雲があるくらいだ。
「歩道橋が見えるでしょ。黄色い車が通ったら、次の歩道橋まで進むの。それが《《私の楽しみ》》」
楽しみ――と私が言うと、彼女は小さく頷いた。
そしてひとこと言い残し、彼女はゆっくりと歩道橋を降りて行った。私の視界の隅を黄色いスポーツカーが走り去っていく。
私は耳に残った彼女の言葉を理解しようとその場に立ち尽くしていた。
あなたも早く楽しみを見つけたら――。
それがこの世界のルールなのだろうか。