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狭間の世界より  作者: 益次郎
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第十九話

 屋上へ向かうにつれ、闇は深くなっていった。

 二三階は静かで暗かったが、まだヒトの気配はあった。

 だが屋上は違う。

 行く必要のない場所、普段あまり使われない場所というものは、独特の雰囲気を持つものだ。

 私はこの世界に放り込まれていろいろな場所に行った。

 初めのうちは賑やかな場所を選んで歩いたが、次第に静かな場所を好むようになった。触れもしない話もできないのなら、目の前のヒト人混みはただ煩わしいだけだ。わざわざ虫の群れに飛び込むヒトもいないだろう。誰も話が相手がいないならば、静かな場所のほうがまだマシだ。

 屋上への扉が見えた。両開きの鉄の扉だ。その脇にはモップやバケツといった掃除用具が揃えて置いてある。きっとしっかり鍵も閉めてあるのだろう。

 私は階段を昇りきった勢いのまま、鉄の扉を通り抜けた。

 一気に世界が広がり、灰色の空が広がった。感じるはずのない湿った空気が私の頬をくすぐったような気がする。ここよりも高い建物があちこちに伸びていて所々光を灯ってはいるが、下の通りよりも静かでいい場所だ。

 建物の屋上に上がったのは初めてだが、こんなに気持ちのいい場所だとは思わなかった。次からはもっと高いところへ昇ってみるのもいいかもしれない。

 開けた屋上の一角には、さらに高い場所に大きな円筒形の給水タンクが建っていた。

 ――あの上に寝転んで星を眺めるのも良さそうだ。

 ふと、建物の端の手すりになにかを感じた。

 黒い影。

 それは夜によって黒く見えたが、実は白い。

 白いコート――。

 あれが。

 その影は有馬医院の屋上の隅に立って動かない。風を感じない白いロングコートの裾は垂れ下がったままピクリともしなかった。

 ――あれが「狂ってる」という奴なのか。

 私はその背中に近づいた。

 きっと私の気配に気づいているはずなのに、それはこちらに背中を見せたまま微動だにしなかった。

 近づいて気付いたのだが、私よりも背が低い。あのトムよりももっとだ。

 いや、低いというよりもこれは――。

「あの――」

 私はそれに声を掛け、回り込むようにして顔を覗きこんだ。

 遠くを見つめたままマネキンのように動かない。顔と顔を合わせたというのに、瞳の反応も全く無い。

 そこにいたのは子供だった。    

 年齢というものがない私たちにとって大人と子供という選り訳があるか分からないが、とにかくそこにいる白いコートを着て立っているのは、幼い男の子だった。幼い子供の形をしているのだ。

 目が大きく綺麗に整った顔立ちはあちらの世界なら美少年と呼ばれるのだろう。年の頃なら十一二、小学校高学年くらいといったところか。  

 これまで会った白いコートの連中は男女含めて姿形としては「大人」と呼べるものだった。若者から年寄りまで様々だが、とにかく大人の姿だった。だが、ここにいる白いコートは初めて見る「子供」の姿をしている。私を戸惑わせるにはそれだけで十分だった。この少年がトムのいう「狂った奴」だというのだろうか。

 無反応な少年の横に立ち、彼の見ている景色を一緒に眺めた。少年は屋上の縁ギリギリの場所に立ったまま動かない。目の前にはマンションやアパート、民家の明かりがぽつぽつと灯っているだけで別段なにも変わったものはなかった。

 横から見た少年は睫毛が長く、切り揃えられた髪が美しかった。

「君に会えという人がいてね。それでここまで来たんだ。私は有馬。もちろん自分で付けた名前だ」

 まる独り言のようだ。自分で自分の名前を呼ぶことでその存在を確かめ、安堵感が込み上げた。

「会えという人がいた半面、ここには狂った奴がいるとも聞いた。だから近づくなとね。君は――」

 ――君はどっちなんだ。

 沈黙が続いた。

 さっきのような闇を裂くようなサイレンの音もなく、静かな夜だ。ときどき下の通りで話声はするが、辺りを気遣う忍んだような声量で煩わしさは無い。私の見る限り、白いコートが歩いている姿も見かけることはなかった。ひょっとするとトムがうろついてやしないかとも思ったが、今のところ姿は見えない。

「――帰った方がいい」

 微かな、本当に微かな声だった。まわりが騒がしかったなら、きっと聞き逃していただろう。静寂がその微かな声を助けるかのように私の耳に届けた。

「それはどういう意味だい」

 ここまで来てはい、そうですかと帰れない。彼がここにいる意味がきっとあるはずだ。ふたりの人物が真逆の評価をするこの少年に私は興味を持ったのだ。

「僕は――」

 蚊の鳴くような声とはまさにこういうことか。私は体を屈め少年の声に聞き入った。

「――もう他人とは関わらない」

 震えるような声だった。

 声の中に絶望と落胆が滲む、なにものも拒む固い意思を含んだ言葉がそこにあった。ぼそりと呟きながらも、その瞳は遠くを見つめたままで、私の方を見ようともしない。

「それは困るな。私は君に会いに来た。君が他人と関わらないというのか勝手だが、その理由を教えてくれないか。それを訊いたら立ち去るよ」

 少年は大きく息を吐いた。呆れているのか怒っているのか、その変わらない表情からは読み取ることが出来ない。私は少しも食い下がるつもりはなかった。見た目は子供だが、この少年は私よりもずっと前からこの世界にいるはずだ。黄色い車の女もトムも知っているのだから、おそらくそうなのだ。それだけこの世界にいるのなら、きっと私の知らないことも知っているだろう。トムとは違ったことを訊けるかもしれない。

 いつからか私は「知りたい」という欲求に駆られているのだ。

「私は有馬。自分でそう名付けた。君、名前は?」

 全く動くことのなかった少年の瞳が僅かに動いた。真っ黒で死んだような目に光が射したかのようだ。

「名前なんて――。名前なんてなんの意味も持たない」

「私は気に入ってるよ。ここの病院から貰った名前だ。不思議なもので名前を付けただけで自分の存在が確かなものになった気がするよ」

「消えてしまえば――。消えてしまえば名前なんてなんの意味も持たない」

 少年はそう言うと、体を反転させて屋上の縁から離れた。白いコートのポケットに手を突っ込み、屋上の中央へゆっくり歩く。私はそれについて行った。

「消える。私たちはいつか消えるのか」

「消えた人は――。消えた人は何人もいる」

 少年はその場に座り込んでしまった。

「あなたも――。あなたも気を付けないと――」

 消えちゃうよ――。

 その時、初めて少年と目が合った。

 私はその瞳の奥になにやら黒く重い鉛のようなものを見た気がした。

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