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狭間の世界より  作者: 益次郎
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第十八話

 毎日のように見る看板を私は見上げていた。

 ここ数日、私はこの場所をあえて素通りすることにしていた。

 理由はひとつ。

 トムだ。

 ここへ行こうとする度に、彼が私の前に現れる。

 偶然かも知れないが、あまりに続くとそれは疑惑へと変わっていく。

 マッチ棒の男に「気を付けろ」という謎の言葉を掛けられて以来、この場所を通るたびにいつもトムがいた。

 ここに立っているときもあれば、近所で声を掛けられ、彼の話に付き合わされる。それが四、五回続いた。有馬医院の中に入ろうとしても、そこには必ずトムがなにかしらいるのだ。

 今日は。

 今夜は

 私は辺りを見回した。

 いわゆる丑三つ時とでもいうだろうか。病院前の道路は昼間とは打って変わって静まり返っており、一通りも全く無かった。回りの建物の明かりはすっかり消え、街灯の僅かな光が点々と灯っているだけだった。

 トムの姿はない。

 電柱の陰も植え込みの裏にもトムのあの薄い頭と小さく丸い体は見当たらなかった。

 ――行ってみるか。

 病院の窓も明かりが点いている部屋は少ない。四階建てで所々あはりの灯っている部屋は恐らくナースステーションなのだろう。入り口の自動ドアも固く閉ざされていて、室内は非常口を示す緑色の光だけが不気味に輝いていた。

 入り口に一歩近づく。

 よくよく考えれば、なにも入り口から入る必要はなにのだ。どこでも場所を選ばず擦り抜けられるのだから、裏手に回って適当な場所から入ってしまえばいい。表通りを行くからトムに見つかるような気もする。

 だが、道を渡るにも信号を守ってしまう私だ。どんな建物でも入り口から入らねばという義務感に襲われ、つい正面の入口に回ってしまう。

 今夜も結局そうなのだ。

 もう一度、周囲を見回してみると遠くでなにかが動いた。

 ヒト影だ。

 いや、白いコートの男の影。

 あの歩き方――トムか。まだ遠くにいるため、顔まで確認できない。

 その時。

 深夜の静寂をけたたましいサイレンの音が打ち破った。暗闇を真っ赤な光が白い建物を照らした。

 私の目の前に救急車が横付けされ、有馬医院から看護士が出てきた。車の後部が開き、救急隊員によってストレッチャーが降ろされる。眠っていた有馬医院が一気に目覚め、慌ただしくなった。 

 さっきの白いコートがいつの間にかもうすぐそこまで来ていた。

 トムだ。 

 救急車に興味を持ったのだろう、あの厭らしい笑みが赤いランプに浮きあがっていた。歩調も早まっている気がする。

 やはりトムが現れた。

 救急車に気を取られているせいで、私には気が付いていないようだ。いや、私に気がついていたが救急車の患者の方に興味が移ったといった方がいいのかもしれない。

 私は周囲の慌ただしさに紛れて有馬医院の中へと入った。

 受付ロビーは当然、しんと静まり返っていた。受付カウンターの脇に置いてある熱帯魚の水槽のモーター音が、この静寂の中ではやけに大きく聞こえた。外ではまだ赤いランプが回っていて、その光が室内にも届き所々室内を照らした。

 トムは入って来ない。私には気がつかなかったか。

 初めて入る有馬医院の中をゆっくりと見て回りながら、私は階段を昇った。

 二階へ出ると、正面にはナースステーションがあった。ここだけが昼間のように明るく、看護士が欠伸をしながら書き物をしていた。二階以降は入院患者用のフロアのようだ。皆寝静まっているのだろう。ヒトがいるというのに、異様なほどの静けさだった。

 廊下を白いコートがいないかを見て回ったがどこにも見当たらない。部屋の中にいるのかとも思ったが、患者の眠っている部屋をひとつひとつ覗いて回るのは気が引けた。どの部屋も扉は閉まっていて物音ひとつしない。

 私は再び階段を昇った。

 三階も同じように正面にナースステーションがあった。

 一体ここはどんな病気の患者がいるのだろうと思ったが、そんなことはどうでもよかった。ここか有馬医院という名前の建物であるということだけで十分だ。そしてここには「誰か」がいる。

 私の知るふたりの人物の評価は相反している。

 一方は「狂い」だという。

 一方は「会うべき人物」だ――これは私の勝手な解釈も含んでいるが――という。

 その人物を探しながら三階の廊下を歩いていると、看護士がナースステーションから飛び出し、慌てて一つの部屋に掛け込んだ。

 静けさはそのままだが、看護士が入っていった部屋の一角だけが別世界のように慌ただしい。

 やがて二階からも看護士が上がってきてなにやら室内で話しをしている。

 そういえばあの救急車はどうなっただろう。

 廊下の窓から下を覗いてみるとすでに車の姿は無く、看板の明かりが闇を照らしているだけだった。

 ふたりの看護士が入っていった部屋を通り過ぎて屋上への階段へ向かっていたとき、私はドキリとした。

 私に心臓があって、ちゃんと脈を打っているのかは知らないが、とにかく「ドキリ」としたのだ。

 ナースステーションから階段へ差し掛かったとき、階段から上がってきたであろう白いコートと出くわした。危うくぶつかりそうになりながらも、私はトムがやって来たのかと思った。だが、ナースステーションの光に映った顔はトムではなかく、若い男だった。

 若い男は私を一瞥するとそのまま通り過ぎ、看護士たちのいる部屋へと入っていった。

 ――あの男、どこかで見たような。

 誰だったろう。

 これまで白いコートとは何人も擦れ違ったからその中のひとりだったか。

 話しかけても反応がないから顔なんて覚えていない。覚えているのは少しばかり私の声に反応してくれた者だけだ。反応してくれたほんの数人の中にはいない顔だが、どこかで見たような気がする。それもつい最近見たような顔だ。

 ――どこで見たんだろう。

 その若い男のことを思い出しながら、私は再び階段を昇って屋上へと向かった。


 

 


 

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