第十六話
その日、私はあの女の横にいた。
黄色い車を見ては次の歩道橋に進む、あの女だ。
相変わらず化粧気のない――化粧品など必要ないから仕方ないのだが――地味な女で、愛想もない。
そんな愛想のない女の横に立ち、一緒になって黄色い車が来ないかと眺めていた。
要は私は暇を持て余しているのだ。
最近気付いたのだが、この黄色い車の女は同じルートを行ったり来たりしていた。ある程度先の歩道橋まで行くと、こんどは来たルートを戻っていく。そして戻ったらまた同じルートを進む。黄色い車を見つけたら、そうやって同じ歩道橋のルートを行ったり来たりしているのだ。
「よく飽きずにやるね」
歩道橋の下を走る車の波を眺めながら私は言った。
私はすでに飽きていた。何の目的もなく街をうろうろすることに、だ。先日トムに教わった「ヒトとの同化」も何度か試してみたが、それにも飽きていた。私には合わないと思ったのだ。
初めのうちは食べ物が喉を通っていく感触が新鮮で、繰り返すうちにヒトへの出入りもスムーズにできるようになったのだが、次第にそれにも飽きてしまった。未だ楽しみを見つけられず、当てもない放浪を続けている身としては、同じ道を行ったり来たりしているだけのこの女が不思議でならない。だから、つい言葉が口をついて出てしまった。
「黄色い車が通らない日もあるでしょう。嫌にならないの、こんな楽しみ」
反応が無いのは知っている。どれだけ話しかけても響かないのは承知の上で、私は独り言のように話をしているだけだ。
かれこれ二時間はこうしてふたり並んで黄色い車を待っているのだ。
それでいい。
それがよかった。
トムのように無駄に話をされるのは、それはそれで面倒になっていた。彼は私が欲する異常に語りかけてくる。それも一方的に。だからこうやって誰とも話さず、ひとりでいる彼女の気持ちが分からないでもない。もしかすると、私はトム以外の白いコートたちと話をしてみたいのかもしれない。
「――これしかないもの」
私はハッとして彼女を見た。
初めてあった日に聞いて以来の彼女の声だった。
「他の楽しみを見つけようとは思わなかったのかい」
女は首を振った。長い髪が揺れる。私の声に反応しながらも、視線は黄色い車を探していた。
「時々思うわ。なんで私は黄色い車なんか探しているんだろう。なんでこんなことを楽しみにしてくり返しているんだろうって。でも離れられない。止めようと思っても止めれないの。まるで『楽しみ』に捕われてるみたいだわ」
「止めればいいじゃないか。そもそも君は私に楽しみを見つけろと言った。それなら君こそ他の楽しみを見つければいい」
「言ったでしょう。『捕らわれている』って。一度楽しみと決めてしまったら、他の行動するのが恐ろしく思えてくるのよ。それにこの楽しみを見つける以前のように、自分がなぜここにいるのかも分からず街を彷徨うあの頃に戻りたくないの。目的がない生活は恐ろしいわ。向うの世界のヒトたちは『生きる』という目的があるんですもの。私たちにはそれすらない。この先、永久にここにいるかもしれないと考えたら、ここから離れられなくなるのよ」
「君はここにどれくらいいるんだい」
黄色い車を探すことから離れられなくなった彼女が、いつからこの世界にいるのか気になった。ここにいる連中がどのくらいの時間をこの退屈で無意味な生活を送っているのかが知りたかった。まだ新入りに等しい自分は、彼女らと同じように長い日々をここで送らなければならないのだ。
女は首を振った。
「数えてないわ。そんなもの無意味だもの。時間は私たちにとって無縁なものよ」
やはりそうか。
トムと同じだ。
過ぎゆく日々は太陽の出入りでしかなく、明と暗の繰り返しでしかない。それをいちいち数えることは無意味だ。新入りの私がすでにそうなっているのだから当然のことだ。
それにしても――。
「今日は話してくれるね。いつもは知らん顔なのに」
無表情は変わらないが、今日の女は饒舌だ。初めてあった日のような野良犬を追い払うような冷たさも感じない。ようやくトム以外の白いコートと普通に話をできることは嬉しかった。
「別に。今日は偶々そういう気分なだけよ」
「私は自分に有馬と名付けた。君、名前は?」
これではまるでナンパだ。街を歩いていると、向こうで男が女にこんな風にして声を掛けている光景を見かける。性という概念が姿形にしかないと分かっていても、どこかくすぐったい。
「変な名前ね」
「初めてその名前を名乗ったときもそう言われたよ」
黄色い車の女は初めて表情を崩した。強張った頬が緩み、白い歯が少しだけ口から覗いた。
「あの小柄の中年男でしょう」
トムのことだ。
この女はトムを知っている。どちらも長いことここにいるのだからなんの不思議もない。トムの方もこの女を知っているような口ぶりだった。
「私が初めてここに来たときに話しかけられたわ。なんだか気持ち悪くて無視してたけど、その後もしつこく付きまとわれたの」
分かる気がする。私の方はそれに反応して色々と講義を受けたわけだが、彼女はそうしなかったのか。見た目が胡散臭いのは完全に同意だ。
「じゃあトムとは知り合いってわけじゃないんだね」
「トム? ああ、今はトムって名乗ってるのね。私がここに来たばかりの頃は『ジェイソン』とかなんとか言ってた気がするけど」
コロコロ名前を変えるって話よ、と女は言った。
自分で勝手に付けるわけだから、どう変えようが本人の自由だろう。
それよりも引っ掛かるものがあった。
「ちょっと待ってくれ。今の話を聞いていると、トム――いや、君にはジェイソンと名乗ったのか。彼の話を誰かとしたことがあるのか?」
いつもひとりで歩道橋にいる女だ。私が話しかけてもほぼ無反応だった女。彼女が誰かと話をしているところを見たことはない。ひとりでいることが当たり前なのだと思っていた。だが、今彼女は『名前を変えるって話よ』と言った。ということは誰かからトムの聞いた。若しくは誰かとトムの話をしたことあるという口ぶりではないのか。
私の問いで、女はキョトンとした顔になった。今日の彼女は表情が豊かだ。
「あら、知ってるんじゃないの」
「知ってるって――なんのこと?」
「彼のことよ」
「彼ってトム――ジェイソンのことか?」
彼女は少し呆れた様な表情を見せて言った。
「違う違う。有馬医院にいる彼のことよ。いつもあの辺をうろついているから、てっきりもう会ったんだと思ったわ」
違うのね、と女は今度はがっかりした表情に変わった。さっきまでの心を開いてくれたような態度から、初めて会ったときの警戒心溢れる強固な表情へ一変した。
「彼に会ったと思ったから話をしてみたけど。そうじゃないのなら、どうぞここから立ち去ってちょうだい」
「ちょっと待ってくれ。意味が分からない。その有馬医院にいる彼って誰のことなんだ。そいつに会っていないことのなにがいけないのか教えてくれ」
取り繕うように彼女に話しかけるが、彼女の態度は岩のように硬い。さっきまでの和んだ空気が嘘のように澱んでしまった。これ以上話しかけても無駄だということが嫌でも分かる。
「有馬医院――」
私は呟いた。
一度行こうとしたがトムに会ったために行けなかった場所。
どれだけ彷徨っても気が付けば目に入る有馬医院の看板。
名前の由来でもあるその場所に行ってみる価値はありそうだ。
私が歩道橋の階段を降りていると、女は無表情のまま反対側の階段を歩いていた。
きっと黄色い車を見つけたのだろう。




