第十五話
私は自然と口元を拭った。
なにも付いていないはずなのに。本当はなにもこの口を通過していないのに。
「おかしな感覚――だった。まるで本当に私の中に食べ物が入り込んできたような――」
「旨かっただろ?」
旨い――のか。
確かに感覚は味わえた。不思議なもので本当に物を食べ、旨かったという感覚が少しだけ私の中にあったのだ。あの感覚が「旨い」のならきっとそうなのだろう。
「最初のうちが慣れないだろうがな。何回もやってりゃすんなり入ってすんなり出てこれるようになるさ。いろんな食いもん経験すれば、不思議と味の区別もつくようになる。あくまでそんな気がするだけなんだろうがな」
「あんなこと何回もやってるのか」
「そりゃそうだろ。こんな楽しいことないぜ。食事に限らず、ヒトの感覚を体感出来るんだ」
「これが――あんたの楽しみか」
そう言うと、トムは私の肩をポンと叩いた。これが彼なりの答えなのだろう。
「なんならもっと体験してみるか?」
正直、今日は食べるという感覚は十分だった。またやれと言われても断っただろう。慣れるまでにはまだ回数をこなさないといけないのだろうが、今日は一回だけでいい。
「あの二人――」
私が入り込んだ男と一緒にいる女のことだ。
「あいつらについて行ったらまた別の体験できるかもしれないぜ」
「別の体験? どんなことだ」
「あの男。お前が入った男だ。ありゃあの女を狙ってる。女だってまんざらでもなさそうだ。ここのふたりについて行けばお楽しみが始まるかもしれないな」
「お楽しみって――」
「男と女の楽しみって言ったらひとつしかねぇだろう」
交尾だよと、トムはいやらしい顔つきで笑った。
「交尾って――そんなもの体験してなにが楽しいんだ」
私たちにはヒトの持つ欲というものを持ち合わせていない。食欲、睡眠欲。もちろん性欲もだ。
私は姿形は属性として男だが、その対称にいる女に特別な感情を持つことはない。街を歩いていると、偶然向こうの女の着替えや浴室に紛れ込むこともあるが、そんなもの見てもなにも感じない。ヒトが鶏の雌を見て何の感情も抱かないように――中には変質的な嗜好を持つ者もいるかもしれないが――私もなんの興味も湧かない。向こうの世界の女は雌鳥と同様いや、ただの風景のひとつだ。
それはこちらの世界にいる「女の姿をした白いコート」にも同じことが言えた。この世界には異性間に生じる感情や行為は存在しない。姿形が男であり女なだけであって、そこに意味はないのだ。
だから私がヒト同士の交尾を見たところで、それはヒトが鶏同士の交尾を眺めるのと同じだ。
「気持ちいいらしいぜ。あちらさんの連中見てるとよ。実際、その気持ちよさは分からねぇが女を抱くって行為は悪くないぜ」
「あんたがいいと思うのならいいんじゃないか。悪いが私は興味無いよ」
「そうかあ。まあ、気が向いたら試したらいい。食い物に飽きたなら他にもいろいろ応用が効くからな。それでも三秒だけは忘れるなよ。いいか、三秒だ」
トムは念を押すように「三秒」を繰り返した。
またヒトとの同化を試すかどうかは別として、この三秒ルールを覚えておくことに損はないだろう。
今日は収穫のある日だった。
ヒトとの同化もそうだが、トムの楽しみのこともよく分かった。
黄色い車を探すことよりも興味深いものだが、私には合いそうにない。トムのやっていることを否定はしないが、私はそこまで向こうの世界の住人と関わり合いを持とうという気が起きないのだ。
「今日は面白いことを教えてもらったよ」
「いいさ。こういうことを教えるのも楽しみの一つだからな。他の連中は興味も持ちやしねぇ。こんな楽しみも知らず、つまらない散歩染みたことばかりやってやがるんだからな。こうやって神様にここに放り込まれたんだ。どうせなら楽しまないとな」
「私も楽しみを見つけないと。あんたはこれからどうするんだ?」
とりあえず私は外へ出るつもりでいた。
トムと一緒にいてもいいが、彼の楽しみを知ったことで自分の楽しみを見つけなければと焦り始めているのかもしれない。外に出てすぐに見つかるとも思わないが、とにかくその辺を歩いて回りたかったのだ。
「俺はここに残るよ。このふたりの行く末を見届けないとな」
トムはふたりの向かい合うテーブルに腰掛けた。男女の視界を遮るような位置に座ったが、当然ふたりにはトムの姿は見えていない。
私はそれじゃあまたと、手を上げてフードコートのフロアをあとにした。
そのとき、制服姿の女子高生の団体が入ってきた。私もその集団もお互い体を避け合うことはせず、そのまますれ違った。
ちょうどフロアを出て通路に差し掛かったとき、視界の隅に見たことのある男の姿があった。
いつもトムにちょっかいを出されている男。
マッチ棒のようにひょろりと背の高いあの男の姿が。
まるでなにかから隠れるように物影に潜み、なにかを見ている。
――なにをしているんだ。
フードコートを離れ通路を歩きながら、あのマッチ棒男のことを考えていた。
別に不思議なことではない。
これだけ世界が広がっているのだ。誰がどこに行こうが本人の自由だ。彼がこのショッピングモールを訪れても特別なことではないだろう。
ただ――。
彼はなにかを見ていたような気がした。
あのフロアの中に彼なりの楽しみであるなにかがあったのだろうか。いつもトムに殴られ蹴られているときの彼とはどこか雰囲気が違って見えたのは気のせいか。
ヒトに姿を見られる心配がなにのに、なにかから隠れ覗きこむような姿勢をしていたような気がしたのは私の思い過ごしなのだろうか。
外に出た私は振り返り、もう一度ショッピングモールを仰ぎ見た。
大地に寝そべるように横広い建物が私を見下ろしていた。




