第十四話
死ぬ――。
訊き間違いかとも思ったが、トムはそう言った。その単語を確かに口にしたのだ。
私には縁遠いものだと思っていた言葉だ。
「死ぬ――のか? 私たちも」
トムは笑いながら手を横に振った。
「待て待て。俺の言い方が悪かったな。死ぬって表現は間違いだ。正しくは――」
消滅だな、とあっけらかんとトムは言った。
「同じことじゃないのか」
「うーん。同じといえば同じだが、違うといえば違う。簡単に言うと、吸収されちまうんだよ、ヒトの体に。まさに文字通り、一体化しちまう」
「そんな危険なことを教えようとしてたのか」
ヒトにとって死というものがどういうものなのか、はっきりいってよく分からない。ただ、恐いものなのだろう。ここへ来てからあちらの世界を眺めていると、ヒトというものは皆死を恐れている。生を受けた瞬間から死に向かっているというのに、死を恐れるのだ。やがて来るそれを、受け入れがたいなにかであるかのように恐れているのだから、きっと恐ろしいものなのだろう。
そんな恐ろしいものならば、私も恐れるべきなのだ。だから消滅など望みはしない。そんな危ない橋を渡るのは御免だ。どれだけそれが一段階上の楽しみなのだとしても――。
「あちらさんを見てみろ。危険と楽しみってやつは紙一重だ。快楽は常に危険と隣り合わせなのさ。それにルールさえ守れば、そんなに危ないってこともない」
そう言うと、トムは私に向かって指を三本立ててみせた。
「三秒だ」
「三秒――」
「そう。三秒。あちらさんと一緒になれるのは三秒が限界だ。それ以上一緒にいると、抜けられなくなっちまう。理由は分からねぇが、まるで鳥もちに捕まったみたいにひっついて自由がきかなくなってしまうんだよ」
だからその三秒間を楽しむんだ、とトムは言った。
「抜けられなくなったらどうなるんだ?」
当然の問いにトムはそんなもんなったことないからわからねぇよ、と大きな口を開けて笑った。そして笑ったかと思うと、急に表情を硬くして鋭い目つきに変わった。
「ただ、相当苦しいらしい。なにしろこちら側ではその苦しみってやつをなにひとつ感じない。痛みも疲れも感じない分そのルールを破ったとき、消滅するときにまとめておっかぶさってくるって話しさ」
だから注意しな、とトムの表情はいつになく真剣だった。出会ってから彼のこんな顔つきを見るのは初めてかもしれない。初めて見るものだからか、その瞳の奥になにか意味深な影を感じたのは気のせいなのだろうか。
「さあ、やってみるかい。有馬」
硬い表情は一瞬にして砕けた。トムの黄色い歯が一気に広がった。
興味はあるからやってみるのはいいのだが、さっきまでいた女の姿すでになく、無人のテーブルになってしまっていた。
「もう食い終わっちまったか。しょうがない。次を探そう」
なにが食いたいかとトムは他のテーブルを見回した。フロア内のテーブルは相変わらず埋まることなく、空きが目立っていた。各店舗の従業員も書き入れ時を過ぎた所為か、片付けもそこそこにのんびりとしていた。
「あれがいい」
私はひとりの客に目を付けた。学生風の若い男と女が楽しそうに談笑している。女の方はドリンクだけだが、男の方はハンバーガーとポテトをトレーに乗せていて、今まさに食わんとする瞬間だった。
「いいね。最初の食事としては最高だ」
私は若い男の横に立った。
いざやるとなると、緊張する。なにしろ下手をすれば、この頭の悪そうな発情気味の男の中から出られなくなってしまうのだ。見てみろ、この鼻の下を伸ばした間抜け面を。向かいに座った女の胸元ばかりに気を取られ、会話をがまともに耳に入っていない。
「そんなに強張るな。楽に行け楽に」
私は大きく息を吐き深呼吸した。
男は座って肘を付き、ハンバーガーにかぶりついている。私は男に並ぶように横に立って腰を落とした。
「そうだ。頭の高さはそれでいい。そのまま横にスライドするように重なるんだ。勢い余って通り過ぎるなよ。それだと普通に擦り抜けちまうからな。相手の座っている位置に収まるように動くんだ」
頭の中で動きをイメージした。擦り抜けるのは簡単だが、丁度いい位置で止まるというのは難しそうだ。
男は咀嚼しながら女を見つめていた。
――頼むぞ。発情男。
私は聞こえない男にそう呟いた。
「いいか、有馬。三秒だ。それ以上は駄目だ。感覚に捕われ過ぎて夢中になるなよ。三秒は絶対だ」
私は黙って頷き、体を横にスライドさせた。
男と重なった瞬間、目の前が真っ暗になったかと思うと、奇妙な感覚が口の中に広がった。目の前ではストローを咥えた女がこちらを見ていて、目と目が合った。やがて口の中の感触は喉を通り、腹の方へと落ちていった。
そしてまたひと口。
なんともいえない感覚だった。自分の意思に反して口が開いてその中に食べ物が飛び込んでくる。向こうの世界のものが口の中に入って来る感覚は、それだけで不思議な感触だ。味を感じることは出来ないが、《《味のようなもの》》を感じている気がした。歯が噛み締める感触が食材によって変わっているから、そのせいで味を認識しているきになっているのかもしれない。
ふと視線をトムの方へやろうとするが、自由が利かなかった。目は向かいの女の方へ向いたまま、動かすことが出来ない。主導権は男の方にあるのだ。男が動く方へしか目線をやれないし、指一つ動かせない。まさにこの男の中に入り込み、彼の見ている物と食べている物を共有しているのだ。
三秒――。
私の頭の中にその言葉が浮かんだ。
――抜けださなければ。
そう思って身をよじらせると、私の体は宙に放り出されフロアの床に倒れこんでしまっていた。あまりに一瞬の出来事で思考が追いつかない。目まぐるしく視界が変わることで、頭が痛いという錯覚にまで陥ってしまったようだ。
うつ伏せになったまま、ふらつく頭を手でさすっていると目の前に白い革靴が現れた。
見上げると、トムが頭上でこちらを見ていた。
「初体験はどうだった?」
そう言って差し出されたトムの手を取って立ち上がると、さっき食べたハンバーガーの感触がまだ口の中に残っていた。




