第十話
入り口の自動ドアはもちろん私に反応をしてくれない。
テラスの扉がまるでい世界の入り口のようにも見えた。
ふぅっと息を吐いて、全身に力を込めた。なぜそんなことをしたのか分からない。なぜか、ここへ入ることには覚悟がいるような気がした。
そして建物に入ろうとガラス戸に体が半分ほどすり抜けたときだった。
「有馬くーん」
私の左手だけが建物の外で止まった。私の目の前を病院の恰幅のいい看護士が通り過ぎていく。
振り向くと有馬医院の看板の下でトムがこっちに手を振っていた。白いコートのポケットに片手を突っ込み、口角だけを上げたいつもの笑みだ。
タイミングのいいことだ。
私は踵を返し、再びガラス戸をすり抜けて外へ出た。
「あんたか」
「どこへ行くんだい」
「別に。いつもここの看板が目に入るんでね。どういう所か覗いてみようと思っただけさ」
ふうん、とトムは上目づかいで看板を見た。
――なんだろうこの感じは。
私がこの建物の中に入ると困ることでもあるのだろうか。トムの雰囲気がこれまでとは違うような気がする。私の気のせいかもしれない。確信はないが、あくまでそんな気がするだけだ。
ここへは行かせたくない――。そんな意志を彼から感じるのだ。
「そんなことより、もっと面白いもの見せてやろうか」
なるほど。ここから離れさせるか。
断る理由もない。トムを振り切ってまで行くべき場所とは思わない。少なくとも現時点ではの話だが。どうせやることもないから、気まぐれで病院内に行こうと思っただけの話なのだ。
「ここに面白いものなんかあるのか。毎日毎日向こうの世界の暮らしを見せられるだけで、なにも面白いことなんてないんだがね」
私はわざと挑発的なことを言った。
トムに対してあまりいい印象を持っていないこともあるが、事実、あの黄色い車の女の言うような楽しみを見つけられそうにもないからだ。ただひたすら歩いて回り、なにをすればいいのかも分からない。人間の持つ三つの欲のひとつだけでも欲しいくらいだ。
「まあそう言うなよ。今日はとっておきを教えてやるよ。これを知ってる奴はこっち側にもそういるもんじゃあないぜ」
「あんただけが知ってる秘密ってことか? 信じられないね。そんなものがあるとは思えない」
「おいおい。今日はやけにつっかかるじゃないか。騙されたと思ってついてこいよ。そんなとこ入ったってなにもありゃしないって」
「そうか? あんたが言ってた狂った奴でも見ようと思ったんだがね。やることもないし、それが俺の楽しみになるかもしれない」
そう言うと、トムは大袈裟に肩をすくめてみせた。口元は笑っているが目は鋭くこちらを捉えているように感じた。
――今日は諦めるか。
ここへはいつでも行ける。邪魔が入らない日を選べばいいだけのことだ。毎日トムと一緒にいるわけではないのだから。
しばらくの沈黙。お互い探り合うように視線を交わしていたが。
「じゃあ行こう」
「そうこなくちゃあいけねぇ」
有馬医院の入り口を離れると、破顔したトムは私の肩に手を回してきた。
なるほど、この男のこういう馴れ馴れしすぎる所が信用ならないのだ。しなくてもいい接触をしてくる。触れるものがこちらの世界の住人だけだから「何かに触れる」という感触は嫌いではないはずが、ここまで遠慮が無いと嫌でも警戒してしまう。
「どこに連れて行ってくれるんだい」
そう言いながら、自然にトムの腕をふりほどいた。私よりも背が低い分、肩に手を回されたら体が斜めになってしまいバランスも悪い。歩きにくいのだ。
どこへ行くのか知らないが、道中トムは終始機嫌が良かった。途中、またあのマッチ棒のような男を見つけて後ろから尻を蹴り上げていた。いつもと変わらないといえば変わらないのだが、今日はいつもにも増して機嫌がいいように見える。今にも見た目に似合わないスキップでもし始めんばかりの上機嫌だ。
私はそんなトムの様子を眺めながら、黙ってあとについて行った。
しばらく歩くと、大きな交差点へと出た。三車線の道路が交差する大きな道路だ。信号機の小さな光が大量の車たちの波を整理している。
初めて通る場所だった。
私は車の通りが少なく、あまり人気のない住宅街の方が好みだから、こういった騒がしい場所を避けるようにしていた。鉄の塊の群れがあまり好きではないのだ。
トムはそんな車の波を気にすることなく大きな道を横切っていく。後ろから見ていると、トムの体を何台もの鉄の塊が高速ですり抜けて行っている。
私は横断歩道の信号が青になるのを待つことにした。
トムはどうせ連中には見えないのに律義な奴だと笑ったが、そういうことではない。
単純に車が私の体の中を通っていくのが堪らなく嫌なのだ。
トムの言う通り、向こうの住人に私は見えないのだから、遠慮なく突っ込んでくる。いや、見えないのだから突っ込むという表現はおかしいのかもしれないが、実際なんの躊躇もなく私の体を通っていくのだから堪らない。なんの感触もないのだが、気持ちの問題だ。
だから私は極力、向こうの世界の交通ルールを守ることにしているのだ。
そんな私を置いてトムは先へ進んでいる。
ようやく信号が青に変わり、私が横断歩道に踏み出したとき――。
私は思わず固まってしまった。
何気なく向けた視線の先。
その先にいるのだ。
私のことを見ているヒトが。
気のせいではない。
確実に目と目が合っている向こうの住人がいるのだ。
青の車に乗った女。
ハンドルを握ったその女の瞳が私を捉えている。その視線を私の瞳もまた受け止めていた。
その女の乗った車が青信号に反応して動きだしたその瞬間。
横から猛スピードで巨大な異物がその青い車に襲いかかった。まるでビリヤードの手球が的球を弾くかのように、砂利を積んだダンプカーが女の車を撞いたのだ。
けたたましいブレーキ音と同時に、いくつもの悲鳴が辺りに響いた。
ダンプカーの後輪からは灰色の薄煙が立ち、その前面は青い車に深く食い込んでいた。さっきまでも美しいフォルムは跡かたもなく、青い車は最早原形を留めていないほど変形してしまっていた。
呆然と立ち尽くす私の周りを青ざめたヤジ馬たちが通り抜けて行く。救急車だ警察だと叫び声が虚しくこだまする。
「あーあ。こりゃひでぇ。もう生きちゃいないだろうな」
いつの間にかトムが私の横に立っていた。
「――んだ」
「なんだって?」
渇かないはずの喉が渇いた気がして上手く声が出ない。
「目が合ったんだ。あの車の運転手と」
声を振り絞ると、私の体が揺れた。トムが私の肩を何度も強く叩いている。痛みは無いが、衝撃が体に伝わって、体を揺すられていた。
「本当かよ。やったな、おい」
嬉しそうにトムが笑った。なにをそんなに喜んでいるのだこの男は。
「見ちゃったら駄目なんだよ、あいつらは」
遠くからサイレンが聞こえてきた。ダンプの運転手は座席から降り、足を震わせて涙を浮かべていた。
「どういうことだ?」
「言っただろ、俺たちは死神なんだよ。犬猫なら構わないが、ヒトにこっちが見えちゃあマズイんだ」
警察が野次馬たちを追い払う。人だかりの中には携帯電話でなにやら撮影までしている者までいた。一体何を考えているのだ。
「目が合っちまったんだろ。あの車を運転していた奴と」
トムの問いかけに黙って頷いた。
「それは死のサインだ。あちらさんにとってのね」
「死のサイン――」
「そうだ。俺たちのことが見えるということは、そいつの死が近いってことさ。しかも目が合っちまったんならどうしようもない。あの車の運転手はそういう運命だったんだな」
横で嬉しそうにそう話すトムをよそに、私は騒然とする景色を眺めていた。彼の話と今起きたことを、なんとか理解しようと頭を働かせながら――。




