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狭間の世界より  作者: 益次郎
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第一話

 世界が広がる。

 目の前には世界が広がっている。当たり前の世界が目の間に広がっていた。

 急に視界に光が射したせいか、眩しくてたまらない。私は眉根を寄せて目を細めた。

 太陽の位置が高い。時間は恐らく昼過ぎといったところか。街路樹の葉が太陽光を反射して風に揺れている。

 ――ここはどこだろう。

 辺りを見回すと、高い建物が立ち並び人々が行き交う賑やかな場所だ。だが同時に、それらは全く見覚えのない場所でもあった。目の前のビルもそこに掛かっている看板も、その先の交差点も脇に構える店も、目に映る全てが初めて見る光景で見覚えがない。

 知っている土地ではないとかいうレベルの話ではない。まるで見当もつかないのだ。どれだけ辺りを見回しても私の記憶に僅かな刺激も与えてはくれなかった。

 そして、なぜ自分がここにいるのかも分からない。

 この場所にいる理由もどうやってここまで来たのかも、今までなにをしていたのかも分からない。ここで目覚めたからにはそれまでの過程があったはずだ。それなのに空洞のようになにもない。私という大枠がここにあるのだが、中身は空っぽだ。

 そもそも――。

 私はなんなのだ。

 私は一体何者なのだ。

 思い出そうとしても思い出せない。

 いや、思い出すものすらないようにも思えた。思い出すものが無いのなら、いくら考えても思い出せるはずもない。頭の中が堂々巡りだ。

 どうやら記憶が無くなったのではなく、記憶そのものが私には無いのかもしれない。そんな馬鹿げた話があるかと思うが、実際なんの糸口も見つからないのだ。

 ただ、分かるものはある。

 空に浮かぶ雲。

 そうだ、あれは雲だ。空に浮かぶ雲。

 そしてあれは、鳥だ。色から判断すればきっとカラスだろう。

 そして目の前を猛スピードで行き交う鉄の塊。車だ。色も形も様々だ。

 分かる。

 理解できる。

 目に見えるものは判別がつくし、名称も大方理解できる。理解できないのは自分のことだけだ。

 私は自分の掌を見た。指は五本。爪もある。どうやらヒトのていを為してはいるようだ。その指で顔を確認する。目も鼻も口もそこにはあった。自分の顔は自分で確認できないが、やはり私はヒトの形をしているのだ。地面から視線の高さを考えてみると、身長は百七十ちょっとといったところか。

 混乱は少し落ち着いた。

 犬や猫ではない。どうやら私はヒトの形だけはしているようだ。それだけ分かっただけでも多少気が楽になった。

 知識と理解力は残っているようだ。無いものは自分に関する記憶だけ。

 脳裏に記憶喪失という言葉が浮かんだ。

 こんなにも都合のいいものなのだろうか、記憶喪失というものは。

 目に見えるものは理解して思考もできるのに、自分のことだけがぽっかりと抜け落ちている。パズルのピースの一部分だけをピンセットで抜き取ったみたいだ。自分の記憶のピースだけを上手に摘んで抜き取るのだ。他の記憶の部分には一切かからないようにゆっくりと慎重に。

  なんとも器用なものだな、と呑気なことを考えたが、ただフラフラといつまでも景色を眺めて彷徨っているわけにもいかない。こういうときは行動するのだ。行動こそが記憶を呼び起こす潤滑油になる。

 とりあえず次にすることは――。

 ここがどこか知りたかった。この場所が分かれば自分のことを思い出す手掛かりになるかもしれない。

 私は目の前を通り過ぎるヒトに声を掛けた。髪が長く線が細い。性別は女。肩から小さめのバッグを提げ、気取った歩き方をしている。

「すみません」

 返事はなかった。

 聞こえないのだろうか。いや、声を発しているという意識はある。私は確実に声を出しているはずだ。頭の中に自分の声が音として響いているのは間違いない。

「あの――すみません」

 もう一度試みる。

 だが。

 やはり反応はなく、女は足早に去っていった。私はその後ろ姿を呆然と眺めることしかできないでいた。

 ――どういうことだ。

 いきなり声を掛けてきた私を不審に思った様子もなかった。ちらりともこちらを見なかったし、私の声に対して小さな反応すら示してくれなかった。

 今度はバス停に立つスーツ姿の男に声を掛けた。歩道の脇に立ち、時計をしきりに気にしている。

「すみません」

 男の横から声を掛けてみるが、やはり反応はなかった。男は時計と車の流れを交互に見比べているだけで、私の方を見向きもしない。

 私は男の目の前に立ち、声を掛けたが結果は同じだ。声はおろか、目の前に立っている私のことを見ようともしない。男の顔はこちらを向いているが、視線が私を通り過ぎているのだ。まるで視線が私を素通りしてあちらの景色を眺めているようだ。

 視線をこちらに向けさせようと手を大きく振ってみたが、男が私を見ることはなかった。

 ――ひょっとして見えていないのか。

 そんな馬鹿なと首を振った。

 なにを馬鹿なことを考えているのだろう。記憶を失くして気でも触れたかと我ながら思う。  見えないはずがないではないか。現に私には相手が見えているのだ。こちらが見えているのに相手に見えないなんてことがあるはずがない。

 私は行き交う人たちに声を掛けて回った。

 男にも女にも、老人にも子供にもだ。あげくに野良猫や昼寝している飼い犬にまで声を掛けた。

 だが。

 誰一人、私の声に耳を傾ける者はおらず、私の方へ視線をくれる者はなかった。野良猫などは私がどれだけ近づいても耳はおろか尻尾すら動かさなかった。ヒト慣れしているわけではない。現に子供が少し声を掛けただけで、慌てて身を交わしてどこかへ逃げていってしまった。

 ――どういうことだ。

 これではまるで。

 私が幽霊のようではないか。

 幽霊――。

 私は死んだからここにいるのか。

 私は死んでいるから誰も気付いてくれないのか。

 私の声は一方通行で、相手には届かないのは私がこの世のものではないのだろうか。

 信じられなかった。

 もし仮に私が死んでいるのなら、私は誰なのだ。生きていたのならその時の記憶があるのではないか。なぜ死んだのか、いつ死んだのかその原因が僅かにでも残るものなのではないのか。それなのに私の頭には記憶の欠片も存在していない。自分のことに関しては買ったばかりのキャンバスのように白い。いや、白い色すらない透明のガラスだ。一点の曇りもないガラスなのだ。

 焦る私の目の前をイヤホンを耳に差した若者があるいて行く。

「おい、あんた――」

 こうなれば無理やりにでもこちらを向かせてやる。

 若者の右肩に手をかけた。

 そのとき。

 私の手は若者の体をするりと通り抜けてしまった。若い男の体をなんの抵抗もなく、私のてがくうを切ったのだ。

「そんな――」

 動悸が早くなる――気がした。

 あくまで「気がした」だけだ。汗も噴き出した「気がした」し、呼吸も荒くなっている「気がした」のだ。

 慌てて私は路肩に立つ標識の柱に手やった。が、さっきの若者のときと同様、やはり通り抜けてしまい掴むことが出来なかった。体重を手の方へかけていたためにバランスを崩して体がよろめいた。頭の中も同じようにふらついた。

 この世にあってこの世にいない――。

 私はそういう存在になってしまったというのか。

 だとすると。

 この私のいる場所はどういう場所なのだ。

 あちらが生者の世界ならこちらは死者の世界ということか。 

 私は改めて辺りを見回した。

 この辺りはどうやら繁華街のようだ。私はその歩道の隅に立っている。

 様々なビルが立ち並び、どの建物にも店舗が軒を連ねている。人通り車も多い。そのどれもが私のことを見ることはない。向こうの騒がしい音は伝わるのに、こちらからは伝えられないのだ。

 私を爪弾きにしている世界を憎々しく眺めていると、ふと気付いたことがあった。

 流れていく向こうの世界に馴染まない、異質な存在がいる。

 あのビルの上にも。

 あの窓の向こうにも。

 あの横断歩道の脇にも――。

 それはヒトの形をしている。それだけなら向こうの住人と変わらないのだから、私の目に留まることはなかっただろう。だが、異質なのだ。

 異質なのは彼らの恰好だ。

 私が妙に感じた彼らは一様に同じ格好をしているのだ。

 彼らは――。

 白い。

 シャツ。パンツ。靴までも白い。彼らは同じように膝まで伸びたコートを羽織っているのだが、それすら白い。純白という言葉がよく似合うほど白い。

 その白い意匠の中に一つだけ異物が混じっているのも、私が異質と感じた理由でもある。身につけているもの全てが白で統一されているというのに、一か所だけ別の色が混じっていた。

 首に絞めたネクタイ。

 それだけが黒いのだ。それも他の白に抵抗するかのように深い黒をしている。

 ――彼らはなんなんだ。

 遠目に彼らを観察しているとき、私はハッとした。

 慌てて自分の姿を確認した。

 視線を下げ、穿いているもの羽織っているものを確かめる。両手で全身を触り確認した。上着も穿いているものも、もちろん靴もだ。手で触り、目視した。何度も何度も――。

 そして確信した。

 私もまた――。

 彼らと同じように白に包まれていたのだ。

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