36 放課後の教室2
「ねぇ、選ばれた者って何? どれだけ偉いの?」
鍋田さんを押さえつけているのにも飽きたので彼女を解放する。
私が椅子に座り直すと彼女は血走った目で睨みつけてきた。
夢に出そうな怖い顔だ、と思いながらここが夢かと一人笑う。
「フン。貴方には分からないわ」
「まぁ、分からなくていいけど。選ばれたわりに、随分と自由が利かないのね」
「……わたしが、本気を出してないだけよ。本気になったら可哀想だもの」
「へー。じゃ、本気になったら? 別に私は気にしないから」
何をされても対処できる自信が何故かある。
相変わらず目の前の彼女が怖い存在だとは思えない。
彼女よりも、脱出不可能なこの場所の方がよっぽど怖かった。
「強がってるのも今だけよ? ホームから落ちて軽症で済んだからって調子に乗らないで」
「犯罪者に言われてもね」
「っ!」
顔を引き攣らせ爪を噛む鍋田さんを見つめながらため息をつく。
金切り声を上げて教室の後方に寄せられた机を投げようとした彼女は、机の脚に手をかけて止まった。
投げられても片づけが面倒なので、彼女の力では動かせないといいなと思いながら見つめていたせいだろうか。
「遠藤さんも酷いわよね。自分は悲劇のヒロインぶって、汚いことは全部貴方にやらせるんだもの」
「!?」
「あれ、その様子だと知らないの? 彼女、裏で貴方の事馬鹿にしてるのよ? 『頭のおかしい醜い女』って」
長谷さんから得た情報と、尾本さんから聞いた話を頭の中で組み立ててゆく。
ループのお陰で厚くなった面の皮と演技力を活用し、かまをかけた。
「遠藤信恵。そこそこ顔がいいけど、性格は悪く特に同性からの評判は悪い。男に媚を売る事に長けていて、苦労して手に入れたバド部の先輩はあっさりモモに落ちた」
「違う! 遠藤さんの彼氏を色香で惑わして奪い取って、抗議した彼女に傷つけられたなんて嘘ついて貶めたのはあの女よ!」
「それは遠藤さんから聞いたから、でしょう? 他の生徒は皆私と同じこと言うわよ。聞いてみたら?」
そうは言っても、遠藤さん以外に友達のいない貴方には無理だったわね。
抉じ開けられたくない傷を容赦なく攻撃し、笑みを浮かべた。
完全な悪役だ、と冷静に思いながらそれも悪くないかと肩を震わせる。
「貴方が得る情報は遠藤さんから。他のクラスメイトや生徒達からは敬遠されてるから無理。妄想激しく現実との区別がつかない貴方になんて誰も近づきたくないわ」
「違う……違う! 妄想なんかじゃない!」
仮に彼女が私と同じような状況だとする。
だとすればそれはそれで可哀想だが、同情はできなかった。
「わたしの事を理解してくれるのは遠藤さんだけ。前世持ちで辛いことだって、誰も信じてくれなくて泣いていた時に手を差し伸べて友達になってくれたのは彼女だけ。それなのにあの女はそんな遠藤さんを陥れた。許せる? 大切な友人が貶められたのに、そんな事をした人は大多数の人によって守られてるのよ?」
「だから、友人だと思ってるのは貴方だけで向こうは自分に都合のいい駒程度にしか思ってないでしょ」
「こ……ま?」
「そ。使い捨て、代わりなんていくらでもいる、駒」
激昂したように床を強く踏み鳴らしながら声を荒げる鍋田さんに、私はため息をついた。
よほど理解者に飢えていたのか、ここまで人は簡単に洗脳されてしまうものなんだなと興味深い。
理解ある大切な友人の為なら何でもする、という思いだけで私を突き落としてしまえるのだから。
「ねぇ、鍋田さん。私今すごく困ってるの。でも、きっと信じてもらえないし、貴方にも迷惑かけてしまうから……やっぱりいいわ」
「え……」
「私ね、北原さんに恋人を寝取られてしまって。でも、北原さん人気があるでしょう? 私がいくら抗議しても知らないって言われるし、周りの子達からは私の方が悪いって」
鼻声で涙を堪えるように告げる私の言葉に、鍋田さんの目が点になった。
長谷さんから聞いていた情報を膨らませてこんな感じだろうかと演じてみたが、中々いい線をいってるようだ。
「ありがとう。私の友達は貴方しかいないわ」
「なんで……あんたが」
「チョロイわよね。友達、貴方だけなんて強調すれば勝手にやる気になって動いてくれるんだもの」
「そんな事……ない」
「いざ自分に火の粉が降りかかりそうになれば、貴方の為を強調して黙っててもらえるものね」
自分と仲がいいと疑われたらもっと酷いことになるとか何とか言って鍋田さんを納得させたのだろう。
頭がおかしいと周囲に敬遠されていた彼女の事だ。
頼られたり友達という部分を強調されれば嬉しくなって遠藤さんの言う通りにしたはずだ。
「そして他の人達には『変に懐かれて困っていたの。迷惑だけど、邪険にすると何されるか分からなくて』なんて被害者ぶればいいもの」
「ちが、う……違う違う違う違う! 遠藤さんは、遠藤さんはそんな事するような人じゃない!」
「彼女を信じてるならそんな青い顔して思い切り否定しなくてもいいじゃない」
頭を抱えた鍋田さんは視線を彷徨わせながらぶつぶつと呟き始めた。
遠藤さんを信じたいのか必死に「違う」と繰り返される言葉は呪詛のようにも聞こえる。
「だ、第一どうして見ず知らずのあんたがそんな事知ってるのよ!」
「情報はどこにでも転がってるものよ? 私も大切な友人を傷つけられて怒ってるの」
「なっ、だっ、だれ、誰が! 誰がそんな事!」
大きく揺れる瞳に、青白い顔。
そんな鍋田さんの姿が徐々に今のものへと変化してゆく。
着ているものも、制服から毛玉のついた紺色のパーカーに変わった。
気付けば私の服も普段着になっている。
「モモが性悪女だとか男であれば誰にでも股開くとか、遠藤さんから吹き込まれたのそのまま流しただけでしょう?」
「なっ!」
「言われた通りに噂を流したはいいけれど、発信源を特定され逆に貴方が非難された。大事な友達は貴方にその危険性をどうして言わなかったのかな?」
「それは、わたしが勝手にやったからよ。遠藤さんは悪くないもの」
「そうよね。友達が困っていて、自分に助けを求めていたら動かずにはいられないものね。大切な友達だから彼女の事は誰にも口外しない。それを上手く利用したわけだ」
中学生でそこまで頭がキレるとは恐ろしい。
そうまでしてバド部の先輩がモモに一目惚れしてしまったのが許せなかったんだろうか。
いや、苦労して手に入れたものがあっさり奪われて女のプライドが傷つけられたのかもしれない。
「悪いのは頭のおかしい鍋田さん。私は彼女を必死に止めようとしたけれど、力及ばなかった非力な女ってところ?」
「そんな事ない……そんな、はず、ない」
思い当たる事が多々あり過ぎて大きく揺らいでいる鍋田さんは力なく床に座り込んだ。
そんな彼女を見ながら私は長谷さんが遭遇した話を独り言のように呟く。
ファミレスで遠藤さんが数人の男と一緒にモモの悪口を言っていた事。
顔だけはいいから、呼び出して楽しく遊ぼうと嫌な感じで笑っていた遠藤さん。
見るからに近づきたくないチャラチャラした男や、気が短そうな男が口笛を吹いたりしてうるさかったと長谷さんは言っていた。
そしてモモの事を話していた遠藤さんが口にしたのは、使えない駒の事。
少し優しくしたらいい気になって、自分の言うことを何でも聞いてくれるようになったと笑いながら話していた彼女に、周囲の男たちは「いいなー。オレもパシリ欲しい」「ドレイ、だろ? 金とかもってねーの?」「一緒に遊べばいいじゃん」と楽しそうに話していたらしい。
まるで近くにいて彼らと話していたかのような情報に、どれだけ長谷さんが耳をそばだてていたのかが分かった。
「嘘……ウソウソウソウソウソ!」
「彼女の言う通りにして、状況は好転した? 世界は貴方を万人から愛されるヒロインと認めたの?」
「だっ、だって! だってだって! わたしの苦しみが分かるって! 辛い気持ちも自分の事みたいだって!」
床を這うように移動しながら近づいてきた鍋田さんにギョッとする。
ゾンビゲームを思い出してしまって気持ちが悪くなった。
残念ながら凶器になるような物は何もないので、机や椅子で応戦しなければいけない。
「モモが直接貴方に何をしたの? 遠藤さんに何かした所を直接その目で見た?」
「それは、それは!」
「貴方の全ては遠藤さん。彼女の言う事なら全てが真実で正しい。だから従うのよね。駒として」
最終的には捨てられてしまうわけだけど。
中学のその件で鍋田さんが不登校になり、その間連絡は細々としたものだったらしい。
不登校になった時点で縁を切ったかと思ったが、後々何かで使えるかもしれないと考え甘い言葉を返していたのなら相当な策士だ。
完全に洗脳されている鍋田さんをどう扱おうと遠藤さんは何も感じないだろう。
チャラチャラした軽薄な男達と共にドレイにされてこき使われる鍋田さんを思い浮かべ、私は身震いをした。
きっと鍋田さんなら、大切な友達のためだと従うような気がする。
「利用されただけだって、気づいているんじゃない? 久々に連絡もらってお願いされて、舞い上がっちゃった?」
「違う……遠藤さんは、わたしの事を心配してくれて。いつも気にかけてくれて……」
自意識過剰な妄想娘のなれの果て。
自分が誰からも愛されるヒロインだと信じて疑わなかった、昔の彼女の面影はどこにもなさそうだ。
今はただ“友達”というものに必死にしがみ付いている哀れな女。
「遠藤さんは優しい人。また北原さんの犠牲者が増えるって連絡があって、救えるのはわたししかいないって彼女は言ってくれた!」
「救える……」
「そう。だからわたしが貴方にしたことは救済なのよ。暴力じゃない」
「救済されるわけないじゃない」
本気でそう思っていたわけではないだろう。
けれど、鍋田さんにとって遠藤さんの言葉は絶対だ。
ただ一人しかいない大切な友達を失わない為に、彼女の言葉を全て信じて自分の行動を正当化する。
ホームから突き落とすあの行為を“救済”なんて言ってしまう時点で頭が痛くなった。
「わたしは選ばれたの……遠藤さんも、同じ選ばれた者。わたし達はわたし達にしか分からない思いを共有して……」
「本気でそう思ってるなら、彼女に会ってきたら? 直接確かめてくればいいわ」
「そんな、ことしなくても……分かる。わたしには分かるの!」
「怖いの? 会うのが怖い? 友達じゃない、もう二度と近づかないでなんて言われるかもしれないのが怖い?」
私の言葉に大きく体を震わせた鍋田さんは、自分を抱きしめるように腕を交差させてガチガチと歯を鳴らす。
友達ひとつでここまで変わってしまうものなのか、と不思議な気持ちになりながら私は頬杖をついた。




