02 兄妹
私は羽藤家の長女であり長子として生まれてきた。
家族構成は母親と可愛妹が一人。
父親は私が幼い頃に消息不明となり、母親が女で一つで私となつみを育ててくれた。
しかし、ここにきて家族構成に変化が起こった。
目覚めた私に良かったと心から安堵している家族を見ながら複雑な気持ちになっていると、スーツ姿の若い男性が病室に入ってきたのだ。
見知らぬ人物だったので部屋を間違ったんじゃないかと思ったが、彼は私を見るなり目を潤ませていきなり抱きしめてくる。
知らない男に突然抱きしめられるというハプニングに驚いて硬直してしまった私に、母さんが宥めながらその男の人を剥がしてくれた。
母さん達と親しそうな雰囲気から親戚か、知り合いかと記憶を手繰ったが見覚えが無い。
目覚めたばかりなんだから、と母さんに叱られた彼は嬉しそうに笑みを浮かべて「良かった」と私に告げる。
そこで、なつみが先ほど真似した私の発言だ。
「お兄ちゃん、あの後暫く落ち込んでたんだから。酷かったんだよ? 家族の中で自分だけ覚えてないって、泣いてたんだからね」
「う、うん。悪いと思ってる」
もしかして、私の恋人かと思いましたなんて口が避けても言えない。
そんな事言ったら入院が長引いてしまう。
起きたら家族が増えてましたなんて、良くある事だよね。うん、良くある良くある。
「……お兄ちゃん、か」
「お姉ちゃん。本当に大丈夫?」
「ダメかもしれない」
「え!」
妹や弟が増えているならまだしも、兄とは。
最初に兄だと言われても嘘だと言ってしまったのがまずかった、とそれだけは後悔している。
心の中で叫んでおくべきだったのに、思わず出てしまったのだからしょうがない。
目が覚めたら病院だった、というのはまだいい。まだ分かる。
けれど家族が、兄が増えていましたなんて悪い夢だ。
母と妹の三人家族で辛いこともあったけれど楽しく暮らしてきた。その記憶しかないのがそもそもの間違いなんだろうか。
やっぱり、記憶喪失なのかなと思いつつ兄の事だけ綺麗にすっぽ抜けていた事に違和感を覚えた。
なつみの事なら小さい頃の思い出から鮮明に思い出せるんだけどな。シスコンじゃないけど。
「なーんて、冗談。兄さんは結構頻繁にお見舞いに来てくれるけどそんな風には見えなかったな」
「そりゃそうでしょ。もうすぐ退院できるお姉ちゃんに負担かける事はしないよ。お兄ちゃん優しいもん」
なつみはどうやら兄をとても慕っているらしい。昔から「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と私の後を追いかけてきたというのに、今その役は兄のようだ。
微笑ましくもあるが、ちょっと悔しい。いや、だいぶ悔しいかもしれない。
そう思いながら兄さん、と口にすると不思議な感覚になる。
「なつみは、兄さん好き?」
「勿論。あ、お姉ちゃんもお母さんも好きだよ。皆大好き」
「そっか。私も好き」
眩しい笑顔で好きだと告げるなつみに私もつられて笑顔になった。
苦楽を共にした、頼りになる家族。
私の思い出の中には兄の姿はないけれど、それでも……あれ?
色々な事があったなぁと昔を思い返していたら変な感じがした。目の前がぼやけ、頭がくらりとする。
「お姉ちゃん?」
「ごめん、少し疲れたみたいだから休むね。なつみも暗くならないうちに帰りなさい」
「んもうっ、私も子供じゃないんだから。お姉ちゃんも無理しないようにね」
頬を膨らませるなつみの頭を撫でて笑顔で見送る。
足音が遠くなってゆくのを確かめた私はカーテンで仕切られた空間の中で、はぁと溜息をついた。
額に手を当てて眉を寄せる。
乾いた口内を潤す為に水を飲みながら、ゆっくりと目を閉じた。
ダメだ、情報量が多過ぎて頭が混乱する。
落ち着いて考えれば何とかなると思っているのに、感情が先走って訳も判らず涙が零れるばかり。
散歩から戻ってきたはるかちゃんは、私が寝ているのを気配で感じたのかそのまま病室を出て行ってしまった。
何か話したかったのかもしれないけれど、今はそれどころじゃないからごめんと心の中で謝る。
本当は可愛いはるかちゃんと話をして今考えている事は後回しにしてしまいたい。しかし、そうなると面倒なのは結局私だ。
ならば最初に片付けてしまうしかない、と私は眉を寄せた。
「兄さん……か」
思い出に兄の姿が無かったのはついこの間まで。
けれども私の知らなかった兄の登場によって記憶があやふやになってきている。
父親が消えた穴を補うように兄がいつのまにか過去の記憶の中にもちゃんと存在しているのが気持ち悪かった。
なつみが生まれるまでは私と兄が二人で過ごした思い出も蘇る。
取っ組み合いの喧嘩をしては母親に叱られ、一緒に木に登って降りられなくなった馬鹿な事も思い出してしまった。
「気持ち悪い」
自分の中にある女三人の思い出が、次から次へと上書きされていくような感覚は不快だ。
けれども、兄という存在は嫌いではない。
どちらの思い出も私にとっては大切な記憶で、どうしたらいいか判らなくなって気づいたら涙が零れていた。
結局、上手く自分の中で消化し切れないままに退院の日が来てしまった。
嬉しいはずなのに、兄の存在を上手く整理できなくて気持ちはモヤモヤとしたまま。
あれだけ退院したかったはずなのにと溜息をつけば、別れが惜しいのは分かるけれどと看護師さんに勘違いをされた。
そして母親が迎えに来てくれるものだと思っていたのに、姿を見せたのは兄で私は戸惑う。
寂しそうな顔をして見送ってくれるはるかちゃんとは、退院しても連絡を取り合うと約束して病院を後にした。
「……」
「……」
気まずい。
車中で異性と二人きりというシチュエーションと聞いただけで、イベントかと身構えてしまうけれどこれは現実だ。
二次元ではなく、三次元。
しかも赤の他人ではなく、身内だ。
これで心がときめくような事になったら再入院したほうがいいと思っていただけに、ホッとする。
「母さんは?」
「家でお前の好きな料理用意して待ってるよ」
「おお!」
それは嬉しい。
母さんの料理は美味しいから想像しただけで、涎が出てくる。
むふふ、とつい変な笑い声が出てしまって慌てたが、運転をしている兄はくつくつと楽しそうに笑っていた。
よし。密室でも普通に会話ができる。
ここに母さんかなつみがいたらもっと過ごしやすい空気になったのになぁ。
母さんは家で待ってるらしいし、なつみは学校だから仕方ない。
「はぁ。倒れて意識不明になった時は驚いたけど、相変わらずで安心するなぁ」
「あ、馬鹿にしてる?」
「いいや。安心してるって言ったろ? 俺の事だけ覚えてなかった癖によく言うよ」
「あはははは、ソンナコトナイデスヨー」
ごめんごめん、と明るい口調で謝れば困ったような顔をしながら兄は「しょうがないやつだ」と呟いた。
どうやらその事については怒っていないらしい。
覚えていないってはっきり言っちゃった時も、衝撃と悲哀が大きすぎたらしくて怒られることはなかった。
今思うと悪いことしたと思うけど、判らないものは判らないんだからしょうがない。
それに今では兄を入れた家族四人の思い出がちゃんと記憶にあるから、昔の事を振られても大丈夫だけど。
「兄さんは仕事でしょ? 私今日は母さんが迎えに来てくれると思ってたんだけど」
退院の日に迎えに来ると母が約束していたのを思い出す。
平日なのでパートは休まなければいけないが、会社に私が倒れている事を話しているらしく融通は利くと言っていた。
別に兄さんが嫌というわけじゃないけど、やはりまだ気まずいからできれば母さんか一人が良かった。
そんな事を言った日には、また兄さんが落ち込んでしまうんだろうけど。
「あぁ。午後から休みを貰ったんだよ。会社にはお前の事も話してるからな」
「はっ!?」
「妹が入院してる事も知ってるから、今日も早く行ってやれって予定より早く帰されたよ」
兄の会社にまで私の情報が伝わっているとはなんて恥ずかしい。
きっと妹思いの良い兄として周知されているに違いないが、本人はそれでいいのだろうか。
羽藤時雄二十五歳。羽藤家の長子でサラリーマン。
中学時代に付き合っていた彼女とは大学一年時に破局し、それからは恋人がいない。
探すまでもなく、頭に思い浮かべただけでするりと出てくる情報に苦笑しながら私はダッシュボードを撫でた。
便利だとは思うけど、やっぱり気持ち悪い。
「いい車乗ってますねぇ。ハイブリットだ」
「……お前が新車買うならこれがいいって言ったんだろうが」
「え、そうだっけ?」
ごめんなさい。覚えてませんが、言われてみればそうだった気もします。
慌てて笑顔を浮かべる私にジト目の兄。
あぁ、視線が痛いけれど笑顔をキープしなくては。
「ごめん」
「はぁ……。由宇、お前そうやって俺に気ぃ遣うのやめろ。そっちの方が辛いわ」
「え?」
「全く、お前は昔からそうだもんなぁ。忘れたなら忘れたでしょうがない。もう気にしてないからお前も気にするな」
はぁ、と溜息をついた兄は赤信号を見つめながら左手で私の頭を撫でる。
懐かしくて、くすぐったい感覚にこの人は本当に私の兄なんだなぁ、と思う。
そもそも私がゲームに目覚めたのは彼の影響が大きいらしい。
なつみと二人姉妹の時は何がきっかけだっけ、と記憶を辿ってみるがあやふやではっきりしない。
友達がやっていたから興味を持ってという流れだっただろうかと首を傾げつつ、軽く頭を左右に振った。
「由宇? どした? 具合でも悪いのか?」
「ううん。ちょっと、車酔いしただけ」
「そうか? 無理しないで言えよ?」
私は記憶が二つあるんです。その内の一つには兄さんが存在してませんけど、なんて言えたらどんなに楽か。
その上、偶に視界が二重になって違う光景と重なるという現象も起きている。
精密検査の結果は兄さんも知っているはずだから、病院を変えてもう一度検査をなんて言われるかもしれない。
確かに私はおかしいかもしれないが、日常生活に支障はないはず。
「ねぇ、兄さん」
「何だ?」
「未来予知と過去幻視だったらどっちがいい?」
「は? 何だよ急に。んーでも、そうだなぁ過去かな」
「未来じゃないんだ」
突飛な質問に眉を寄せながらもちゃんと答えてくれるところが兄さんらしい。
てっきり未来を選ぶものだと思っていた私は、少々拍子抜けして声を上げる。
過去か未来かと言われたら、私はやっぱり未来だ。
先読みという言葉に魅力を感じるが、使い方によっては破滅しそうな恐ろしさもある。
「未来なんて判っても困るだけだろ。この先どうなるのか判っても確定してるわけじゃないだろうしな」
「……でも、危機回避とかできるかもよ?」
「それはありがたいな。まぁ、考え過ぎて裏目に出た結果がそうなったって可能性もあるから、身動き取れずに終わるって場合もありそうだけど」
確かに。予知はあくまでも予知であり確定ではない。
未来というあやふやでどうなるか分からない事柄なら尚更だろう。上手くいくと信じて回避行動を取ったのが、結局バッドエンドに繋がる道だったなんていうのは良くある。
その結果を受けて、もう一度やり直しその道から逸れてベストエンドにいくというストーリーは結構好きだ。
決められた期間を繰り返しループしながらそこからの脱却を図るものも好きだが最近はやっていない。
そろそろ恋愛シュミレーション以外の物をプレイして気分転換でもするか。
頭の中が恋愛ゲーム一緒に染まっている今の私は、自分でも気持ち悪いとほどだから。
「あ、最近やったゲームがそんな感じの内容なんだけどやるか?」
「やるやる!」
「ゲーム中毒者め」
「違います。そんな中毒者なんて恐れ多い。私はただ好きなだけです」
そうだ。中毒ではない。廃人でもない。そんな称号をつけられるほど私は凄くない。
ただ一般的な女子大生の中でもちょっとだけゲームが好きな部類だ。うん。
効率的にサクサク終わらせられるでもなく、戦闘が上手いわけでもない。昔に比べてやりやすくなった恋愛シミュレーションはルート決定の選択肢方式ならば総当りで誰でも簡単にクリアができる。
ストレスを溜めないような作りになっていなければ、入り口を広げられないからだろう。
魅力的なキャラクター、しっかりとしたストーリー。惹きこまれるような世界観と、耳が喜ぶ声。
本当に、素敵な世の中になったものだ。
お手軽に擬似恋愛が体験できるだけに、現実でのときめきは少なくなってしまったのが難点だけれど。
「それを中毒者って言うんだよ。ったく」
「兄さんなんて筋金入りじゃない。恋人作らず未だゲーセン通って大会あれば参加とかしてるし」
「……恋人いても、ゲーセンには通いたい」
「どんまい」
兄さんの破局の原因は彼の趣味でもあるゲームだ。
中学の頃からの付き合いで、その趣味を理解してくれているいい彼女さんだったと思う。
しかし、成人しても変わらずゲームをしている兄さんに溜まっていた不満が爆発してしまったらしい。
何度か家に来たこともある可愛らしい彼女さんを兄さんはとても大切にしていた。
お洒落なスポットに出かけたり、テーマパークに行ったりと休日ともなれば必ず彼女と出かける。
彼女の前でゲームをしてるわけでもなく、彼女を連れてゲーセンに行ってるわけでもなかったのに何故ゲームが原因で別れる事になったのか私は未だに判らない。
彼女さんも携帯ゲーム機持ってるくらいだから、結婚するのかと思ってた。綺麗にデコってたの嬉しそうに自慢してた姿を思い出して私は首を傾げる。
「何で別れたんだっけ?」
「由宇。男と女にはな、色々あるんだよ。色々と」
遠い目をして笑う兄さんにそれ以上は聞けなかった。
寂しそうな横顔を見つめながら、私は恋人にするならゲームに理解ある人か全く気にしない人にしようと決めた。
まぁ、できるかどうかは判らないけど。
運よく知り合えて仲良くなれたとしても、男友達止まりというパターンが多い。
それでもそんな事が全く無いよりはマシか。