28 教授
モモに送迎してもらうようになって一週間。
可愛らしいがとても目立つ車は、早速大学でも有名になってしまった。
今まで話をしたこともないような子たちが、どんな仕様になっているのかとモモに聞いていて、私たちの周囲は少し賑やかになった。
最初は恐る恐るといった様子でモモと話していた子達も、想像していたよりも話しやすかったのかすぐに打ち解け仲良くなる。
男女関係無く人当たり、外面が良いモモなのだから怖がる必要はないんだけれど。
美少女すぎて近寄れないと小声で呟いていた子の気持ちは良く分かった。
モモと大抵一緒にいるせいか、彼女がいなくても私に声をかけてくれる子達が増える。
大学生になってまで、友達百人を目指すつもりは毛頭ないけれど挨拶を交わすだけでも嬉しい。
「羽藤さんて、一週間くらい前にホームから落ちたって本当?」
「え?」
「誰かが落ちて大変だった事は知ってるんだけど、まさか羽藤さんだとは思わなくて」
「北原さんに聞いたの」
そうして今もまた、移動中に出会った子達に声をかけられた。そして、話題になるのはちょっと忘れたかった事件。
犯人は未だ捕まっていないが捜査は進展していると昨日尋ねてきた刑事さんが教えてくれた。
なんとその刑事さんが兄さんの友達という事で、何かと気にかけてくれている。
運がいいのか悪いのか判らないけど、周囲に恵まれている事だけは確かだ。
「あ、そうなんだ……」
私はぎこちない笑顔を浮かべてから視線をそらした。
心配そうな顔をして見つめる二人は私の言葉を待っているようだ。
「あはは。恥ずかしいなぁ。うん、でも本当だよ。考え事してたら落ちちゃって……」
「落ちたって……落とされたんでしょう?」
「え? それも、モモから?」
「ううん。誰かが突き落とされたって、ずいぶん騒いでたもん」
あれ?
あの時はそんな感じだったかと首を傾げる。
そんなにうるさく騒いでた記憶はないけれど、どうやら大騒ぎになったらしい。
暫く騒然となって凄かった、と教えてくれた子は野次馬が多くて現場には近づけなかったと言っていた。
私が駅員さんに支えられながら移動した時には、まだざわめいている程度だったはず。
あの後は病院に運ばれたから、その時に噂を聞いて野次馬が集まってしまったのかもしれない。
「そっか……」
「あのね、それで関係ないかもしれないんだけど」
二人は顔を見合わせて小さく頷いてから、気になった事があると告げた。
思わず眉を寄せてしまう内容だったので、私は二人に礼を言って兄さんにメールをする。
直接電話をしても良かったけれど今の時間帯は仕事中だろう。
警察に連絡するにしても、その前に相談しておいて損は無い。下手に騒ぎ過ぎて警察に煙たがれるのも嫌だからだ。
レポートを提出するために研究室へと向かっていると、返信メールがくる。
『俺から連絡しとく。とりあえず、帰ったらゆっくり話を聞かせてくれ』
兄さんの許可さえ下りれば刑事さんに連絡をしても良かったが、どうやらそれは却下されたらしい。
何故、と返せば面倒な事になりそうな気がして私は『了解』とだけ打って返す。
何かあった時のためにと刑事さんに貰った名刺は、何故か兄さんに没収されてしまった。
裏に個人用の携帯番号が書いてあったから、危ないとでも思ったんだろうか。
兄さんの友達で若いけれど頼りになるような人だから、話しやすいと思っていたのに残念だ。個人の番号を書いてくれたのも私が気軽に連絡をとれるようにとの配慮だろうに。
けれど、一緒に来ていた中年の刑事さんの名刺が取り上げられなかったのはどういう事だろう。
もしかして、兄さんは私が自分の友達に色目を使うとでも思っているんだろうか。
まだそうと決まったわけではないが、一人勝手に落ち込みながら私は研究棟を見上げて溜息をついた。
「いいや。とりあえず連絡しておこう」
お決まりの言葉なのかもしれないが、気付いた事があればどんな些細な事でもと言っていた中年の刑事さんを思い出す。
他の仕事も忙しいだろうから、私の事件なんて後回しだろうなと手帳に挟んだ名刺を見ながら電話をかけた。
邪険に扱われるだろうかと呼び出し音を聞きながらドキドキしていたものだが、電話口から聞こえてきた声は実際に会った時と変わらず柔和なものでホッとする。
私は仕事中にすみません、と謝罪してから先程手に入れたばかりの情報を刑事さんに話す。
これもちゃんとした仕事なんだから謝る事はないのは知っているが、円滑に会話を進める為には必要な事だと思う。
「そうですか……なるほどねぇ」
「すみません、お役に立てる情報かは分からないんですけど。全然関係ないかもしれませんし」
「いやいや、それを調べるのも我々の仕事ですし。それに羽藤さんには丁度連絡しようと思っていたところなのでいいタイミングでした」
本当に捜査しているのか気になっているところではないのか、と聞かれたので思わず黙ってしまう。
一呼吸置いてから、素直に「そうです」と告げれば刑事さんがカラカラ、と笑った。
室内を埋め尽くす本の数々。
本棚に入りきらなかった本たちが、あちこちに積み上げられていた。
そんな中で、意外とと言っては失礼だが綺麗な湯飲みに注がれた緑茶がふわりと香って心を落ち着かせてくれる。
残念ながら茶柱は立っていなかったがお茶請けにと出された煎餅を見つめて、私は何かを探すようにしゃがんでいる教授へ視線を向けた。
来客や学生が来る為か、入り口近くにあるテーブルは綺麗に片付けられている。
恐らく先生ではなく、誰か他の人が片付けているんだろうなとしか思えない。
「あの、教授……お忙しいなら私はもう退室しますよ?」
「いやいや、大丈夫。確かこの辺に……って、うわっ」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫大丈夫。いててて、あ、いいから座ってて」
そう言われても、と思わず腰を浮かせた私は手伝いたい気持ちを抑えて椅子に座り直した。
積み重ねられた書類と本の山に、作業スペースがあるかどうか分からない埋もれた机が見える。
整理整頓が苦手なのだろうかと思いつつも、私も人の事は言えないので黙っていた。
レポートを提出しにきただけなのに勧められるがまま部屋の中に入ってお茶を飲んでいる。
こんなにのんびりしていていいんだろうかと首を傾げながら、少し冷めてしまったお茶を飲んだ。
「あ、羽藤さんもしかして用事とかあるのかな?」
「いえ。友達を待っているので時間はあります。大丈夫です」
「そうか、それは良かった。真面目にレポート提出してくれたのが嬉しくて、ちょっとテンション上がっちゃったよ」
「そうですか」
この先生はこんな性格だっただろうかと思うくらい、私はこの人の事を知らない。
一年少々を何度も繰り返してれば大体分かってくるはずだが、他の先生を初め親しくした覚えはなかった。
多分、そんな事を考える余裕が無いくらい、生き延びるのに必死だったんだろう。
繰り返される味気ない日常が作業としか思えないようになっていたあの頃。
淡々と、文句も言わずこなすだけの日々に何故自分だけがこんな目に遭うのかと考えたのは数え切れない。
毎回答えが出ないまま、また繰り返される終わりも進展も無い閉塞感に満ちた世界。
少し変化が訪れたと無駄に期待している今も、結局は変わらぬ終わりを迎えるのかもしれない。
そう思うと気分が沈んだ。
「おやおや、何か悩み事かな?」
「あ、いえ。ちょっと」
「若人の悩みを聞いて導くのも年寄りの役目だ。話せる事だったら、話してごらん」
ボサボサの髪に、ヨレヨレのワイシャツ。
無精ひげは伸び放題でだらしなく、どう見ても頼れる大人ではないのに何故か安心してしまう。
これはこの先生の雰囲気ゆえなんだろうと不思議に思いながら、私は困ったように笑みを浮かべた。
「あぁ、それとも僕みたいなのじゃ話したくないかな?」
「いえ……別に」
「あははは。いいよいいよ。頼りないのは自覚してるからね」
先生は自分が崩してしまった書類や本を片付けながら、肩を落とし溜息をつく。
片付けると言ってもまた積み重ね直すだけなのだが、本人がそれでいいならそれでいいんだろう。
一件散らばっているように見えても、本人にとっては分かりやすい配置になっているのかもしれない。
「いやあの、ちょっとした事件? に巻き込まれまして、犯人が早く捕まればいいなぁと」
「あぁ、線路に落とされたんだって?」
「はっ!?」
「いやいや、有名だよ? 誰なのかは知らなかったけど学生たちが話してるの聞いてね。まさか羽藤さんだったとはなぁ」
「なっ!?」
「いやいや、大丈夫だよ。恐らく君だって分かってるのは大学内でも少数だろうし」
そうは言われましても。
不幸自慢をするようにあちこちで、あの事件の事を言った覚えは無い。
モモ達の他に知っている人物と言えば、さっき声をかけてくれた人達くらいだろうか。
彼女たちはモモから聞いたと言っていたので、もしかしたら他にも聞いている人がいるのかもしれない。
それに、電車で通学する学生ならあの時間あの場所にいたとしてもおかしくないだろう。
噂として広がっているのは一部だけで、大学全体というわけじゃないだろうと思っていたけど先生の耳にまで入ってたとは。
「変に、目立ったりしませんかね」
「大丈夫じゃないかな。うちの学生が巻き込まれたって言うのは噂で知ってたけど、羽藤さんだって知ったのは僕もつい最近だから」
「あの、差し支えなければ誰が言ってたのか教えていただけませんか?」
私が被害者だというのを知っているのはモモ、美智、ユッコ。そしてここに来る前に出会った二人だ。
それと、学部が違うけれど助けてくれた松永さんくらいか。
その中で一番濃厚なのはモモだが、先生の口からはっきりとした事を聞くまでは分からない。
八割、いや、九割はモモだろうと私の中で確定してるが。
他に考えられるとすれば、うっかりユッコが口を滑らせてしまう事くらいだ。
ユッコの場合は悪気がないから仕方がないにしても、モモの場合は噂を広めつつ犯人探しをしそうで危ない。
あんまり心配していなさそうに見えて、かなり心配しているだろうから危険だ。
「あぁ、ええと……言っても分かるかな? 松永君って言う男子学生なんだけどね」
「……」
おや、意外なところに伏兵が。
そんなにペラペラと他人に口外するような人には見えなかったが、見かけによらずという事なんだろうか。
彼に口止めをしなかった私が悪いのは分かっている。
けれど、言わずとも察してくれるだろうと思った私が甘いんだろう。
テーブルに肘をついて、手を額に当てた私を見た先生が慌てたのが分かったが今はそれどころではない。
友達が多そうな彼が行く先々で話していたとしたなら、私は相当な有名人だろう。
あだ名がクールから、ホーム落下女に変わりそうで恐ろしい。
「……特定される気がするんですが」
「いや……あれは多分、僕だから話してくれたんじゃないかな。僕って言うか、先生だから?」
「そうですかね」
疑問系で尋ねられても困ります。
思わずそう口から出そうになった言葉を飲み込んで、私は曖昧な笑顔を浮かべた。
「彼も随分と驚いて心配していた様だったから。悪気は無いと思うんだよ」
「はぁ」
「本当だよ? それに羽藤さんだって当てたのは僕だからね。松永君は曖昧に濁していたけど」
「えっ!?」
「やだなぁ。教え子の事くらいピンと来るって」
ふふん、と胸を逸らして得意気にしている先生は推理するのは意外と楽しかったよと告げた。
自分の講義を受ける生徒の事など多過ぎて覚えられないだろうと思っていただけに、衝撃だった。
板書がしやすいように、と前の席に座っているのがいけないんだろうか。
「真面目に授業受ける君達の事は良く分かるよ。北原さんも目立つからねぇ」
「……そうですね」
無意識の内にか腕を擦っている事に気付いて苦笑する。
だいぶ痛みは和らぎ、痛み止めを服用しなくとも生活できるようにはなったが未だに入浴が一番大変だ。
隠されていた部分が露出する事で、痛いような気がしてしまう。
痣や切り傷は見慣れるかと思ったが、見ていていいものでもない。
ぐっさりと刺された時に比べれば生きてるだけマシと言ったくらいだろうかと自嘲していれば、向かいの椅子に先生が座った。
「大丈夫。ちゃんと犯人は捕まるよ」
「そうだといいです。愉快犯だったら他の人たちも怯えて過ごすしかないですもんね」
「そうだね。それにしても本当に、災難だったね」
「ええ。まさか自分がドラマのような状況を体験するとは思いませんでしたよ」
「あははは、ドラマか」
そう。それも恋愛物のキラキラしたドラマではなく人間関係が複雑に絡み合う二時間ドラマの方だ。
母親がいつも見ているせいで私もついつい見てしまう。
犯人っぽい人物が犯人じゃないパターンが定着したせいで誰が犯人なのか探す楽しみが減ってしまった。
だが今は逆に犯人っぽい人物がそのまま犯人なんだけど、また違う誰かに殺されてしまってというパターンも増えてきた。
チョイ役にそれなりに名の知れた俳優がいると、怪しさが増す。
「今は北原さんと一緒に帰ってるみたいだね」
「え、どうして知ってるんですか」
「彼女は入学当初から目立っていたからしょうがないよ。それに、仲が良い友達がいるのはいい事だ」
「それは、感謝してます」
「うんうん。松永君も、北原さんのギャップと彼女に突っ込みを入れる羽藤さんはいいコンビだって言ってたからね」
松永さんとは今度ゆっくりと話し合いたいものだ。
学部が違うけれど、モモに協力してもらって呼び出してしまおうかと思いながら私は苦笑した。




