23 ホーム
せっかくゲームの主人公である神原君と出会ったのに、何事もない日常。
あまり劇的に変化されても困るが、こうして何も無いのも不安だ。
やっぱり、あんな出会いくらいじゃ何も変えられなかったかと諦めて死ぬまでの時を普通に過ごす。
「こんなもんか……」
信号待ちをしながらポケットに入れた歩数計を取り出す。
いつもは車なのでこれだけ歩くのは久しぶりかもしれない。
ちなみに通学に使用している軽自動車は中古だが広く使い勝手が良いので気に入っている。
大学には電車で通うつもりだった私に、卒業祝と入学祝を兼ねて母、祖父母からプレゼントされたものだ。
そんなに高くないからと言いつつこの車はどこかどう凄くて、と細かく説明してくれた祖父が一番気に入っているのかもしれない。
主に通学やバイト先までの移動、休日の買い物やなつみの送り迎えに使用しているが気分転換にと母親が乗っていく場合もある。
私も気分転換に、と偶に電車に乗る事があるからちょうどいい。
「足りないなぁ」
一日の歩数が一万歩超えれば理想とされているらしいが、中々そこまでは届かない。
途中下車して歩く距離を長くしようか、いやでも疲れるから嫌だなと思いながら私はさりげなく腹部に触れた。
「……ふぅ」
私が急に健康を意識して電車通学にしたのは、車移動が中心になって太ってきたとかそういう理由ではない。
大学の学食や叔父さんの料理が相変わらず美味しいのが悪いわけでもない。本当に。
テレビで健康ブームが作られてからウォーキングする人や、車から自転車通勤に変える人々も多くなってきた。
ただそれに倣って健康を気にし始めただけの事。
だから、最近になって体形が崩れてきたのを気にしているわけじゃない。
風呂上り、弛んできてだらしない体に危機感を覚えたわけではなく健康のためだ。
「自転車直すか」
中学高校は自転車だったので最初は自転車通学も考えた。
しかし、暫く放置されていた自転車はパンクしておりチェーンも緩んでいたので乗る気が失せる。
それでも健康のためと自転車屋さんに持って行こうと思っていたのに、サドルが盗まれチェーンが切られるという悪質な悪戯を受けてやる気をなくしてしまった。
交通費を考えると自転車の方が安上がりで、新しく買い換えようとも思ったが車があるのにわざわざ購入するまでもない。
健康のため暫く電車通学というのも悪くは無いので混む時間帯を避けて乗るようにしていた。
大学の授業が終わった私は今、ホームで電車が来るのを待っている。
いつもならモモ、美智、ユッコの三人もいるのだが、今日はそれぞれ用事があるらしい。美智はバイトを掛け持ちしているらしく忙しそうだった。
モモとユッコは二人で買い物をしながら惚気話でもしているだろう。
私はバイトがあるので誘われなかったけど、バイトが無かったら付き合わされていたので良かった。
こんな時ばかり叔父さんに感謝しながら、私は腕時計を見て電光表示板へと視線を移す。
「ん?」
背後から襲う強い衝撃、揺らぐ視界。
何が起こったのか理解する間もなく、私の体はバランスを崩して前に倒れてゆく。
体勢を立て直せない、と思った私は咄嗟に手を前に突き出して頭を庇うようにした。
ぎゅっと強く目を瞑って倒れた私は、全身に強い衝撃を受けて呻く。
本当に痛いときは声も出ないが、今回もそれだ。
「……はぁ」
私は生きてる事を確認して目を開けると、ゆっくり手を動かした。
周囲では悲鳴や大声が響いており、随分と大騒ぎをしている様子だ。
幸い電車はまだ来ていないので良かったと安堵しつつ立ち上がる。
砂利で傷ついた手や頬を擦りながら、恥ずかしさがこみ上げてきた私は痛みを堪えてホームへ向った。
頭を過ぎったのは、本当はこれで死んでいたはずじゃなかったのかという事だ。
そのまま轢死するのも嫌だが、中途半端な形も嫌だなと思いながら私はよろよろとホームへ登ろうとする。
「高い……」
緊急停止ボタンを押せとか、駅員さんを呼んでくるとか、綺麗に飛んだなぁと携帯を構える若者は他の人たちに怒られ喧嘩でも始まりそうな雰囲気だ。
それにしても出っ張りはあるけど登れないのは筋力が弱いせいだろうか。
歩くだけではなく、筋トレもメニューに入れた方がいいんだろうなと思いながら私は必死に登ろうとした。
近くで心配そうに見守る人達は線の細い女の人ばかりで、手を伸ばしてくれるのだが一緒に線路に倒れそうで怖い。
幸い、次の電車が来るまであと数分あるはずなので駅員さんを待つのが一番だろう。
それにしても甘く見ていた。
簡単によじ登れるかと思っていたけど、そんな事はなかった。
そして、体が重い。
「掴まれ!」
「え?」
「いいから早く!」
万が一、落ちてしまった場合は知りませんよと思いながら差し出される手を握る。
思わず手を出してしまったのは力強い声と、その体躯だろう。
若々しくがっしりとした体つきの彼は、軽々と引き上げてくれそうな気がした。
そして、思った通り彼は簡単に私の体をホームに引き上げてくれる。
「ありがとうございます」
「いや、良かった。それにしてもアンタ大丈夫か? ぼーっとしてたんじゃないのか?」
「違いますよ、彼女は突き落とされたんです!」
「え?」
思わず間の抜けた声を上げてしまったのは私だ。
確かに背中に衝撃を受けたのは覚えているが、誰かに突き落とされたなんてゾッとする。
ちょうど駆けつけた駅員が私たちの無事を確認すると、困ったように見つめてきた。
擦り傷が目立つ私にギョッとして怪我の心配をされたが、まだ興奮しているらしくそんなに痛みはない。
まるで夢のような出来事にぼんやりしていると、他の駅員もやってきた。
胸元を押さえて呼吸を整えていれば「立てる?」と優しく尋ねられる。
上品なスーツに身を包んだ綺麗な女性が、私が突き落とされたという事を他の駅員さんに話しているがそれをどこか他人事のように聞いていた。
怪我の手当てを病院でしてもらっていると、処置室に和泉先生が顔を覗かせた。
入院していた時の担当医だったから一応話がいったのだろう。
あははは、と乾いた笑いを浮かべる私に先生は「災難だったね」と優しく声をかけてくれた。
入院していた当時よりも、どこか陰りが取れたような表情を不思議に思いながら私は笑い続ける。
頭はまだぼんやりとしていて、突き落とされた事が夢のように思えた。
「由宇!」
「兄さん、ちょっと静かに」
「馬鹿、お前これが静かにしてられるか」
家族に連絡をと言われ、すぐに連絡がついたのは兄だった。
すっ飛んで来てくれた兄さんは肩で大きく呼吸をしながら私の近くにいる和泉先生に会釈する。
一応母親にもメールを送っておいたが、携帯を見られる時間が限られているので返信には期待していない。
重傷というわけでもないので大丈夫だろうと思っていたが、蒼い顔をしている兄さんを見ていると少し心配になってきた。
打ち身も酷く痣になりそうだが骨は折れていないと診断されたので、大したこと無いなと思っていたけれど。
興奮が落ち着いたせいか、じんじんと痛むがそれはしょうがない。
暫く辛い日々が続きそうだが痛み止めの薬も湿布薬も貰っているので大丈夫だろう。
「すみません。お世話になりました」
「いや、気をつけてね」
「はい」
普段から気をつけているつもりなんだけど、と思いながら私は和泉先生と別れる。
今度は何でもない時に顔を合わせたいものだねと言われたけど、先生の仕事場が病院である以上それは無理な気がした。
プライベートでという事か、と邪推した私は慌ててその考えを振り払う。
次に先生に会う時はストレッチャーの上だったりして、と想像したら笑えなくなった。
「で、警察には?」
「また後で話聞かせてくれって。とりあえず今日はいいってさ」
「……そうか。警察に行くときは俺も行くからな?」
「いや、いいって。一人で行けるから」
事故ではなく事件として扱われることになったこの一件。
突き落とされる理由に思い当たる事はないかと何度も聞かれたが、どれだけ考えても恨みを買うような覚えは無い。
全く思い当たらないから、偶々ぶつかってしまったのではと思う。
私は突き落とされた方なので、誰が突き落としたのかは分からない。その姿を見ていればはっきりしそうなものだけど。
犯人も犯人だ。目撃者が多数出る場所でよく突き落とそうと思ったものだ。
確実に消そうと思うなら、電車がホームに入ってきた時を狙えばいいのに何とも中途半端だ。
実際そうなっても困るけれど、死亡フラグにしては手緩いと言うか何と言うか。言葉では言い表せない感情を抱えたまま私は溜息をつく。
一体誰が何の目的で突き落とそう何て思ったのか。
「恨まれる覚えも無いから、人違いとかかなぁ?」
「はぁ? 人違い? 人違いで突き落とすのかそいつは!」
「兄さん前見て前。荒ぶってる」
そんな事、私が聞きたい。
兄さんが怒る気持ちも分かるがそんなに興奮されると、当事者の私の怒りが減ってゆく。
冷静にどうしてなんだろう、と考えられるのはいい事なのかもしれないけど。
とにかく犯人が早く捕まって、理由が明らかになるのを祈っているしかない。
今回失敗したから次の機会を狙うつもりなら、対峙できるかもしれないと思う。
その時に上手く捕まえて理由を聞き出せればいいけれど、そんなに上手くいくものか。
とどめを刺されてまた病院から始まるのかもしれない。
そう考えると警察を信用して大人しく待つしかないんだろう。
「だって、思い当たる事本当に無いから。一体私の何を恨んで妬むの? なつみとかなら分かるけど」
「そうだなぁ。でも、そういう事は本人が一番良く分からないって言うからな。呆れるほど些細な理由かもしれないぞ」
「うわぁ、それだったら分からないわ」
それは面倒くさい。
貴方にはこれこれこういう恨みがあるので、危害を加えます! と宣言してくれれば簡単でいいのに。
例え宣戦布告されて決闘しろとか言われてもやらないけど。
それにしても、相手を線路に思い切り突き落とすくらいなら相当なんだろうなぁ。
一体どこで出会った人なんだろうか。
大学、バイト、友人、家族関係?
思い当たる事と言えばそんなところくらいだ。
周囲でおかしな話も聞かないし、そんな人も見当たらない。
やはり、誰かと私を間違ったという可能性が高いような気がすると呟けば兄さんは神妙な顔つきになった。
「兄さん関係で、とばっちりとか?」
「なっ!?」
「あ、ごめん。ちょっと思いついて言ってみただけ。ごめんなさい」
私に思い当たる事が無いので周囲の人物かと考えてみたが、良く分からない。
例として言ってみたが、兄さんに限ってトラブルに巻き込まれるような事なんて無いだろう。
兄さんを貶めたくて家族を狙ったとすれば、それはなつみや母さんにも言える。
「些細な事……かぁ」
背中に受けた衝撃を思い出すと、犯人に躊躇いを一切感じなかったように思う。
私でも驚くくらい、線路の真ん中に飛んでしまったのだから相当な力だっただろう。
白線の内側にいたというのに突き飛ばされてしまえばあのくらい飛んでしまう。
犯人を目撃した人達はフードを被っててよく分からなかったが、多分女だと言っていた。
「由宇。お前、車で行けよ。いいな」
「はい」
「送迎するって言わないだけマシだと思え」
「すみません」
私は大人しくそう返事をしながら、母さんとなつみへの説明はどうしたものかなと頭を悩ませるのだった。




