167 主人公
もう消えたから、安心していいわよ。
ごめんなさいね。
そう告げて笑顔で鼻歌を歌いながら消え去ったママ。
彼女に思うところは色々とあったが、何一つできる事がなく呆然としていた神原は重圧から解放されて気が緩んだのか膝から崩れ落ちた。
握っていた大鎌が役目を終えて消え去る。
花の絨毯に顔面から飛び込んだ彼は荒い呼吸を繰り返しながら、ぼんやりとする思考で落ち着くのを待った。
目を閉じて、開く。
丈の低い花と、茎や草が目に入る。
ゆっくりと仰向けになれば、何事もなかったかのように照らす太陽がある。
空も、雲も変わりは無い。
彼の心とは裏腹で憎いくらいのいい天気に、神原は大きく深呼吸を繰り返して目を伏せた。
「夢だ。夢。全部、悪い夢だ……」
そうでなければ、やっていられない。
小さく呟いた彼の言葉は誰に聞かれることもなく消えてゆく。閉じた目から涙が零れ、神原は顔を覆うように腕を交差させた。
先程のママ、ともどきが呼んでいた存在は、娘である彼女を放って帰ってしまった。
それどころか、助けることもせず愛娘の命を自らの手で刈ったのだ。
そして彼女は神原に向って「これでいいでしょう?」と柔らかな笑みで告げた。
聞きたい事、認めたくない事も多過ぎて、処理が追いつかず混乱していた神原はゆっくりと思い出しながら顔を歪めた。
少し思い出しただけでも気持ち悪くなって、吐き気が彼を襲う。
「おねえちゃん、ねてるの? かぜひくよ?」
「っ!」
幼い声が聞こえて思わず神原は飛び起きてしまった。
いつの間にここまで来たのか、少女は花畑に倒れているもどきを見つめ首を傾げる。
仰向けになって目を閉じている姿勢のせいで、彼女には眠っているように見えるのだろう。
小さな手でもどきの肩を揺すった愛に、神原は駄目だと声を出すが掠れて少女には届かなかった。
「つめたい。ほら、かぜひいちゃうよ?」
今にも、もどきが起きて少女を襲うかもしれない。
仲良くしているフリをして自分を脅すかもしれない。
そんな事を考えながら立ち上がろうとするのだが、全身に力が入らず神原は笑う。
一度目は、目撃しただけで心臓を強く掴まれたかのように終わりを悟り、二度目は自分の身を守るだけで精一杯だった。
あんなものを相手にしようとしているのか、と恐怖を感じながら彼は地面に手を付いて嘔吐を繰り返す。
「おにいちゃん、おみず」
「……ありがとう。ごめん」
「ううん。あのひと、こわかったからしょうがないよ」
グラスに入った水を手渡された神原は何とか笑みを浮かべながらそれを受け取ると、心配そうに見つめてくる少女に目を細めた。
水を一気に飲み干すが、まだ足りない。
空になったグラスを少女に渡せば、彼女はトントンとグラスの縁を指で叩く。
何をしているのかと首を傾げた瞬間にグラスに水が注がれて、彼は大きく目を見開いた。
「愛ちゃん、それ……ど、どうしたの?」
「どうしたって、ここではあたりまえだよ? ほしいものがね、でてくるの」
「欲しいものが……出てくる」
そう言えば【観測領域】で由宇や管理者たちとお茶会をした時もそんな風に道具を出していた。
神原が驚く表情を楽しそうに笑いながら見ていた愛は、グラスを「はい」と差し出す。
彼は苦笑しながら二杯目の水も美味しく飲み干した。
「ちょっと、おちついた?」
「うん。ありがとう」
「あのおねえちゃん、おうちにはこぶ?」
「いや、いいよ。連れて帰るから」
そう言ってしまってから神原は自分が発した言葉の意味に眉を寄せる。
連れて帰ると自然に言ってしまったが、どうしてそうするつもりだったのか自分でも分からないからだ。
しかし、落ち着いて考えてもやはりそれしか考えられない。
もどきではなくなった、空の体。
やはり彼女は自分の妹になるはずだった、神原美羽なのかと彼は笑いながらゆっくりと立ち上がる。
足元にはそんな彼を心配するように、少し怯えた表情で見上げる愛の姿がある。
「ごめんね。格好悪いところ見せちゃったね」
「ううん。だいじょうぶ」
「おっと……」
「もうすこし、やすんでたほうがいいよ?」
小さな体でよろめく神原を支えようと愛が手を伸ばす。幼い彼女に気を遣わせている事を申し訳なく思いながら、神原はふらつく体をゆっくり動かしもどきの元へと向っていった。
もどき、今はもうそんな名称ではなく神原美羽だったものとでも言えばいいだろうか。
不思議な心地がすると思いながら神原は横たわる彼女を見下ろした。
花に囲まれたその表情はとても安らかだ。
苦しむ事なく一瞬で逝けたのはもどきにとっても良かったのかもしれないと、彼は腰を下ろす。
美羽と神原を交互に見た愛は微妙な空気を察知したのか何も言わない。
「愛ちゃんは、いつからここにいたの?」
「わすれちゃった」
「帰らなきゃ駄目だよ? 本当のご両親が、心配してるから」
「ほんとうの?」
「ここは夢の中なんだ。だから、君はもうそろそろ起きなきゃいけない」
夢だから想像した物を出現させられる。想像しても出現させられない物は力が足りないからだと適当に嘘をついて、神原はこの場所が夢でできた世界であることを愛に教えた。
違うと反抗されて膨れてしまうかと思った彼女は、神原の言葉に首を傾げたり頷いたりしながらもここが夢の中だということを理解してくれた。
「おにいちゃんもねてるの?」
「そうだね。僕も、彼女も寝てるよ」
「そっかぁ。そうだよね」
どうやら愛は先程のように魔法が使える事以外でこの場が夢であると気づいていたような素振りを見せる。
首を傾げる神原に愛は「ずっとあそんでいたかった」と告げる。
それは彼女のような幼い子供でなくとも願ってしまうものだ。
毎日が休みになりますように、学校がなくなってますように、会社が消えてますように。
好きな事だけをして、何に縛られることもなく、不自由なく暮らせますようにという過ぎた願い。
実際に叶うわけがないと知っているからこそ口に出せるようなものでもある。
「うん。おきるよ。ちゃんとおきて、がっこうもいく」
「そうだね。学校は、嫌いかな?」
「うーん。ふつう。おにいちゃんは?」
「好きだよ。色々と大変なこともあるけどね」
主に、フラグ関係で。
そう心の中で呟きながらも友人たちと他愛のない事で盛り上がれる時間は、何度繰り返しても楽しい。
いっそ、全てを巻き込まないようにと自分から遮断しようとした所でそこをこじ開けてくる兵がいる、と由宇が笑っていたように神原にも心当たりがあった。
一人でいれば誰も巻き込まずに済むと考えた時期が彼にもあった。そしてそれはすぐに無駄だと分かった。
彼自身が、一人でいることに非常に強いストレスを感じていたからだ。
自分で孤立しておきながら、どこかで繋がりが欲しいとチラ見しているのを自覚した時に彼は酷い自己嫌悪に陥ったものだ。
ギンは相棒だから切り離せない。
お前たちのせいだろうと管理者であるギンに八つ当たりをしても、彼は飄々として躱すだけ。
あまりにも神原の怒りが激しいと、少し離れてその様子を見るために家から出て行くが距離を取るだけでやっている事は普段と同じだ。
害が無いように、大きな変化があるかどうか注意深く観察し、見守る。
そして神原が落ち着いた頃に部屋へ戻り、どこに行っていたんだと泣きそうな声でなじる声に「いやぁ、渡り鳥のかわいこちゃんが、俺を離してくれなくてな」とドヤ顔で答えるのがいつもの事になっていた。
ちなみにかわいこちゃんの種類はその時によって色々変わるらしい。
猛禽類に捕食されそうになったり、山鳩に囲まれて羽を毟られそうになったりと、本当に管理者なのかと首を傾げたくなるような目にも遭っているらしいが。
「たいへんなの?」
「うん……恥ずかしい話だけど、女の子がちょっと苦手でね」
「そっか。あ、でもわたしとにてるね。わたしも、おとこのこにがてなの」
それは意外だとばかりに神原は愛を見下ろす。
明るく快活な性格の少女は、気配りもできて優しいところもある。この幼さにしてそこまで他人に気を配れるのは元の性格なのか、それとも親の躾なのか。
猪突猛進に突っ走って巻き込むような性格の人物に、この少女の爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。
半ば本気でそう思いながら神原は俯く愛に「一緒だね」と笑いかけた。
「愛ちゃんは可愛いから、もてもてそうだもんね」
「だから、やなの!」
「ん?」
「わたし、おんなのこのともだちとあそびたいのに、おとこのこばっかりよってくるんだもん」
何と言う羨ましい光景か。
そう他者は言うだろうが、当人である愛には迷惑でしかない。
頬を膨らませて「やだやだ」と手足を動かす彼女に神原は苦笑しながら、ぴたりと笑いを止めた。
口元に手を当ててぶつぶつと小さく呟いている彼の姿は少々異様なもので、愛は不思議そうに見上げると眉を寄せる。
彼女が知っている優しいお兄ちゃんではない。
こんな怖い顔もするのか、と少し驚きながら少女が見つめていると視線に気づいた神原が慌てて笑顔を作った。
「どうかした?」
「いや、何でもないんだ。ちょっと、僕も愛ちゃんに似てるかなって思って」
「おにいちゃんも、モテモテなんだ!」
「でも僕は愛ちゃんとは違うと思うよ? うん、違う。そうなるように仕組まれているわけだから、全く違う。強制力に抗えない、いや、自発的だと思っている彼女たちには悪いけどどうしても強いられているようにしか思えないんだよなぁ。記憶さえ無ければ僕も馬鹿みたいに鼻の下伸ばして変な笑いでも上げてたのかなぁ」
残念ながら神原の中にある神原直人としての記憶では、幼少時にもてたという覚えは無い。
幼稚園、小学校、中学校と普通に育ってきた。
クラスの中で人気の男子ベストテンに入るとか、学年一美形で上級生からもお声がかかるとかそういう経験は一切ない。
当たり障りなく、普通に生きてきた。
友達と馬鹿やったりゲームばかりして親に叱られたりと、特に代わり映えしないものだったと神原は思っている。
転機は高校入学。
どう回避しようとしても必ず起きてしまう、桜井華子との衝突イベントを皮切りに彼の人生は大きく変わってゆくのだ。
そして、発狂しそうになる結末を経て飛ばされる高校入学前の春休み。
「おにいちゃん、だいじょうぶ?」
「あ、あぁ、うん。ごめんごめん」
もっと自分が能天気で自分の快楽しか考えないような性格だったら、こんな状況も楽しめていたのかなと溜息をついた神原は眉を寄せる愛に笑った。
そよそよと吹く風が頬を撫で、大きく伸びをした神原は美羽を抱え上げて驚く。
中身の詰まっていない人形かと錯覚するほど軽い。それこそ彼女の名前のように羽のような軽さだと神原は目を細めた。
「それじゃ、愛ちゃん。僕たちはそろそろ行くね」
「……いっちゃうの?」
「また、会えるよ」
「うそだ」
スカートを握り締めながら俯く様子には、思わず足が動かなくなってしまう。
けれども神原は小さく笑って美羽を抱えたまましゃがむと、愛と目線を合わせた。
口をへの字にして眉間に力を入れている愛は、少し顔を上げ神原と彼が抱えている美羽を見て小さく目を見開いたがすぐに顔を逸らす。
「そうだね。こういう時の言葉は気休めで嘘ばかりだよね。でもまた会える気がするんだけどなぁ」
「……うそだ」
「それじゃあ、探し合おうか?」
「さがしあう?」
「そう。僕は愛ちゃんを、愛ちゃんは僕を。どっちが先に相手を見つけられるか、ゲームをしよう」
管理者であるギンに頼んで探してもらえば一発だなとズルイことを考えながら、神原はそう提案する。彼の言葉に首を傾げながら「さがしあいっこ」と呟いた愛は、パァと表情を輝かせて大きく頷いた。
どうやら、ゲームという言葉に魅力を感じたらしい。
「ゲームだからね、情報は名前だけにしようか?」
「えー! むずかしい」
「難しい方が、楽しいと思わない? 黄昏市内に住んでいる事は確定なんだから」
「あ、そっか」
黄昏市の人口を知らない少女は、神原の言葉にあっさり頷いた。
へへへ、と笑いながら「らくしょー」と言ってVサインまで作っている。
幼いって無邪気でいいなぁ、何も知らないでとその様子を笑顔で見つめながら神原は何度も頷いた。
「じゃあ、僕の名前は?」
「かんばらなおと、おにいちゃん」
「よくできました」
「わたしのなまえは?」
「成瀬愛ちゃん」
「よくできましたー」
はなまるをあげます、と愛に頭を撫でられた神原は丁寧に礼を言っておどけてみせる。
二人は楽しそうに歌いながら小指を絡めて約束をした。




