後編
翌日。
「姫乃さん、それでは」
神妙な面持ちで一礼した三平。
余りにも畏まったその態度がどこか滑稽に感じられ、姫乃は思わず
「嫌ですよ、三平さん。何だか、遠くへ行ってしまうみたい。すぐ隣に移るだけなのに」
くすりと笑った。
三平は当面の間、斉藤道場から笹川道場に移り住むことになったのである。
再び彼を狙った押し入りがあることを警戒した宗一郎が笹川有衛門にそのように依頼したためなのだが、有衛門は二つ返事でこれを引き受けた。
「大いに結構なことです。我が弟子達の良き稽古相手になりそうですからな」
長者のように温和な笑みと共に言う。
自分の弟子達が過日、この青年一人にばたばたと撃ち凝らされたことは既に聞き及んでいる。が、そのことを根に持つでもなく、逆に弟子達が剣の腕を磨くには不足ない相手と踏んだらしい。そのあたり、いかにも大らかな道場主であった。
が、姫乃は最初
「しかし、お父様。それでは笹川先生や佐市さん達に万が一のときにご迷惑が……」
そのように難色を示した。
笹川道場が例の覆面どもに襲われたりしないか、という懸念である。
だが宗一郎は事も無げに
「なぁに、案ずる事はねぇよ。笹川道場には常時二十を越える人数がいるんだからな。刺客なんて連中は臆病なものでさ、人数が多いと押し入りを躊躇うもんだ。昨晩押し込まれたのはあれだ、うちに人が少ないと連中が踏んだからだよ。笹川さんのところになら、おいそれと踏み込めやしない筈さ」
言ったものである。
刺客などという心の屈折した人間のやることなどよくわからないものの、父がそう言うのだから間違いないのだろうと、納得した姫乃。
その、宗一郎。
何を思ったか朝早く有衛門に話をつけるなり座敷に引きこもってしまい、出てくる気配がない。
それと気付いた三平は
「姫乃さん、父上殿はどうかなさったのでしょうか? 一言挨拶を、と思ったのですが……」
「ずっと奥にいらっしゃるようです。きっと、何か御用がおありなのですわ。三平さんがそのように申していたと、私からお父様に伝えておきます。――お隣なのですから、どうせすぐに顔を合わせますよ?」
「はあ……」
頷いたが、やや残念そうである。
自分の件で色々世話をかけることになってしまい、申し訳なく思っているらしい。
宗一郎が部屋にこもっているというのも、恐らく三平の一件に絡む何かの手配りをしているのだろうと姫乃はおぼろげながら察していた。証拠はないものの、昨夜押し入ってきた面々は信近州の武司どもに違いないと宗一郎は見ている。国主お抱えの武司ともあろう者が徒党を組んで刺客の真似事などあり得べきではないのだが、国元の悪事を知っている三平をどうあっても消さなければ、黒幕の大黒大介は枕を高くして眠れないのだ。放っておけば彼等は機会を窺い再び寄せてくるであろう。
そうなれば、狙われている三平はもちろんのこと、彼を匿うのに一役買った姫乃の身が危ない。彼女の身に再びと危難が及ぶのを防ぐべく、宗一郎は何かを画策しているのであろうが――昨夜三平に告げた通り、意図を明かそうとしない以上想像するより法がない。
が、普段は適当なようでも根は慎重で物堅い彼のことである。然るべくやるものと信じていいだろうと姫乃は思っていた。
三平に向かっていつもの人懐こい笑顔を見せ
「お父様から何かあれば、すぐにお知らせいたしますわ。それまでは――ほら」
手の平で指し示した先に、佐市をはじめ笹川道場門下生の面々が整列している。過日の経緯があるだけに不安そうな者も中にはいるが、有衛門の後押しがあるせいか、敵意を露わにしているような者は一人もいない。佐市などはすぐにでも稽古を始めようというのか、既に竹刀を握り締めている。
「笹川道場の皆さんに稽古をつけてあげてくださいな。教えることは教わることです。日々剣の道を教授してあげているうちに、逆に三平さん自身が強くなれると思います。間違いありませんわ」
三平が自身の鍛錬に熱心であるのは承知しているが、このあと彼に必要なものがあるとすればそれは切磋琢磨し合う相手ではないかと思うのである。剣の境地を高めるには自己と向き合うことが大切だが、かといって孤独の修行だけでは己の高低深浅がよくわからなかったりする。故に、多くの人の中にあって自分の境地を傍目から眺めてみることもまた、剣術には欠かせない修行だといっていい。
彼女の言わんとしていることに気付いた三平、鋭い相好をやんわりと緩めた。
「……ありがとうございます。今までは独り身の修行ばかりしてましたから、まだまだ大事なことがわかっていないような気がします。この機会に、大いに腕も境地も高めさせていただきます」
「その意気ですよ、三平さん! 怪我だけはしないようにしてくださいね?」
もう一度礼をすると、彼は有衛門や門下生達に囲まれながら笹川道場へ移っていった。持ち物といえば国許から携えてきた無銘の愛刀しかないから、ほとんど身一つのようなものである。
温い微風になびく髪を抑えつつ、大勢の背中をじっと見送っている姫乃。
(お隣に行くだけなのに、何だか気が抜けた感じね。三平さんがいなくなったからって、別に何かが変わる訳じゃないのに……)
何気なく湯場の方へ目をやってみて、ふと気が付いた。
三平が去ったからには、今日から自分で湯を沸かさねばならない。
あらためて、そのことに少しだけ不便を感じた姫乃であった。
俄かにばたばたと騒がしい足音が聞こえてきたと思うと、障子の向こうで影が動いた。
「――朝倉貫一と三ノ輪由比造でございます。よろしいでしょうか?」
「入れ」
返事をしてやると障子が勢いよく開き、男が二人ばかり入ってきた。
どちらも歳は中年の頃、武司の身なりをして長刀を携えている。片や目つき鋭く口を真一文字に結び、もう一人は温和そうな容貌ながら左の額からこめかみにかけて大きな古傷の痕がある。それぞれ鬢のあたりが激しく縮れており、よほど剣の修行を積んだ者だということがわかる。
彼等はそそくさと下座に回ると、並んで着座した。
対して上座には、二人と同じかやや年上と見える、やはり男が一人。
紫地に白斑を飛ばした上質の武家装束で身を包み、金糸で刺繍をあしらった見事な座布団をあてている。苦みばしった相好をきりりと引き締めており、いかにも上流武司の雰囲気を漂わせていた。
男はほたほたと動かしていた白扇をぴたりと止めると、
「聞こうか。首尾はどうであった」
尋ねた。声が低くややかすれ気味ではあるが、威厳がこもっている。
すると下座の二人は急いで畳に額をこすり付けるように平伏し
「申し訳ございません。昨夜の一件、しくじりましてございます。御頭老大黒様の意を果たせず、何とお詫びを申し上げてよいものか……」
開口一番そう侘びを入れたのは、奥側に座った鋭い目つきの方の男である。声の震えに、恐れが滲み出ていた。
上座の武司――大黒大介――は表情を変えない。
ただじろりと二人に目線をくれつつ不機嫌そうな口調で
「侘びなどよい。有態を話せ、有態を。そのほうらが付いていながら、何故しくじったのだ? 三ノ輪、申せ」
「は、はっ! 申し上げます」
答えたのは、古傷の男である。
「田中一平の倅めでございますが、斉藤なる男の屋敷に匿われていることを突き止めました。探ってみたところ、その屋敷に暮らすのは男と娘の二人だけのようでございました。手薄ゆえ三平を消すのは造作もないことと思い、朝倉ほか手の者数名で押し入ったのですが――」
いざ三平を討とうという段になって、不意に一人の男が現れた。この男が三平に加勢する様子だったため斬り捨てようとしたが事の外手強く、やむなく後日を期して退いたのだと由比造は語った。
それだけでは不足だと思ったらしく隣の朝倉貫一が後を引き取って
「三ノ輪が申し上げたその男でございますが、並みの腕前ではないと見受けました。抜く手も見せずに我ら五人の手元を撃ち、刀が叩き落されたのでございます。――思えば、恐らくはこの男が斉藤でございましょう。斉藤は剣術道場の主のようでした故、三平は護身のために斉藤に近づいたものと思われます」
縷々述べた。
静かに聴いていた大黒。
「ふうむ」と唸ってから、閉じた白扇で手の平を打ち
「……聞かぬ名の剣客だな。そのほうらを退けたとあればよほどの腕前であろうから、他州に名が立たぬ筈があるまい。さては国主付の密護役かも知れぬの。――とすれば三平の始末、容易にはいくまい」
密護役とは、国主など上位上流にある者の身を陰で護衛する役である。その名が刺客に知れてしまっては意味をなさないため、役に就いている者が誰であるかは伏せられている場合が多い。
由比造は低頭したまま同意するように頷き
「大黒様の御推量の通りかと。しかし我ら、何としても三平めを始末してご覧に入れる所存にて――」
「言うまでもないわ。もしもあやつの口から事が洩れて皇都におわす奉帝のお耳にでも届いてみろ。加納屋一人の首が飛ぶどころの騒ぎではないぞ。儂やお前達然り、国主沼辺様とて危ないわ。全く、あの倅めの執念深さときたら蛇のようじゃ。こうもしぶといとは思わなんだ」
苦い顔をしている大黒。
すると、貫一がやや顔を上げ
「しかし、御頭老様。我らが秘密を知っているとはいえ、たかが国脱けを図った流浪の若造。奴がいかに騒ごうとも、皇都の奉帝はもちろん東央州の国府が耳を貸すとも思えませぬ。御頭老様におかれましてはあまりお気を病むべきでないとこの朝倉貫一、憚りながら申し上げたく――」
「万が一、ということもある」
ぱちり、と大黒の膝で白扇が高く鳴った。癇に触れたと思った貫一と由比造が慌てて平伏する。
「お前達が思っている程、事は甘くないわ。物産流れ留めの所為で東央州はおろか、四隣の町人どもも皆騒ぎ立てておるのは存じていよう。沼辺様にはいつにない取れ高不足のため、と何度も申し上げておるが、どういう拍子に疑いを持たれぬとも限らん。町人どもは皆、単に買い占めに因るものとしか思ってないのだからな。そこを上手く言いくるめるためにわざわざ儂自らこうして出向いてきた。――なのに、だ」
右膝を立て、苛立っているかのようにしきりと白扇で叩き始めた。
「国島の小娘め、この儂が入府して待っておるのを知りながら皇都滞在を延ばしおって、急に会うことはできぬと言ってきおった。が、偶然にしても面妖すぎる。もしかすると何か勘付かれたということも考えられよう」
貫一と由比造の顔にえっ、という驚きの色がはしった。
が、伏せているから大黒にはわからない。
彼はふうっと大きく一つ溜息を吐き
「加納屋からは、留め置きした物産の値がまだ十分でないと言ってきておる。放荷するまであと少し、時を稼がねばならん。――それで儂はこれから信近へ戻って国主様が疑いを持たれぬようお話し申し上げ、事と次第によっては四隣の国府を宥めに出て頂く。この際、どうあろうとも田中一平の件がお耳に入ってはならぬ」
放荷とは、物産商人が蔵置きの品物を一斉に売りに出すことをいう。
品薄な物ほど高い値がつくのは言うまでもない。つまり、加納屋は十分に値が釣り上がるまで待てと言っているのだ。
今すぐ帰府する、という大黒の言葉を聞いた由比造は戸惑ったように尋ねた。
「はっ。では、そうしますと我々はこれからどのように……?」
暗に指示を仰ぐと、大黒はゆったりと頷いて見せ
「ここに残ってあの小僧を間違いなく密殺しろ。奴には父親と同じ罪を着て死んでもらわねば、こののち事が上手く運ばぬわ。そのほうらでは手が足りぬであろうから、供の人数のうち、半分を貸してやる。東央の接府役には、後日物産流れ留めが解かれた際の府役諸事扱いのためと言っておけば差し支えあるまい。人数のほかに金子も幾らか残しおくから、それで手筈を整えるがいい。……どうだ? 不足はなかろう」
金を渡すというのは、手段を問わないという意味であるといっていい。もう少し前向きに受け取るならば、ともかくも任せる、という信用の表れでもある。
上体を起こしかけていた貫一と由比造は
「はっ! 誠に有り難き仕置きと存じます」
畳に額をこすりつけんばかりにして礼を述べた。
二人の了承を見てとった大黒大介は徐に腰を上げると、座敷から出ようとした。
が、つと足を止めて二人の方を鋭く振り返り
「我が命を果たすまではそのほうら、州境を越えることはならぬ。儂は何としても皇都皇陽殿役府筆頭席の座を手に入れたい。そのために金子に糸目をつけずお前達を召し抱えておるのだ。――よいな?」
季節は日々夏へと向かっている。
まだ朝だというのに、照りつけてくる日差しがことのほか暑い。
町人達がしきりと行き来する道場町の大きな通りに、先を急ぐ宗一郎の姿がある。
(ったく、今年はいつにも増して暑いねぇ。帰ったら冷たいやっこで一杯、といきたいものだが……)
その豆腐だが、未だに府内では口に入らない。
信近州の物産流れ留めがなおも続いているからである。長引く物産の不足は町人達の暮らしにとって大きな打撃であり、誰も彼もうんざりしていた。
それよりも、今はこの暑さがやりきれない宗一郎。姫乃が整えてくれた薄手の武家衣装を着用してきているのだが、それで焼け付く日差しが和らぐ訳ではない。
げんなりしつつ小売横丁に差しかかったところで、彼はつと足を停めた。
往来の脇、少しばかり広くなった辺りに人だかりがある。いるのは顔馴染みの町人達ばかりであった。
何か騒ぎでも起きているのかと思ったが、皆が眺めているそれを目にして合点がいった。
(ああ、もうすぐ国島道場町社の祭りか。すっかり忘れちまってたな)
町人達は祭りで担ぐ神輿の手入れをしているのである。
職人に依頼して新調するととてつもない金がかかるため、毎年皆でこうして少しづつ修理を加え、祭りの日を迎える。男衆は持ち手を補強、女衆は塗りの直しと、それぞれ手分けして作業をしているのであった。この神輿は祭りの日に町人達によって担がれ、綺麗に掃き清められた道場町の通りから小売横丁を抜け、そして道場町社に奉納される。掃き清められた道は神域と呼ばれ、神輿が行き過ぎるまでは何人たりとも足を踏み入れてはいけない慣わしとなっている。
神輿直しの傍らでは、老いた細工職人が子供達に簡素な祭り提灯の作り方を教えている。紅や朱に塗られた色鮮やかなそれらの提灯は家々の軒先に吊るされ、祭りの夜を彩る。
まさに町人みんなが集う年一度の催しだけに、楽しみにしていない者はなかった。
宗一郎もまた、祭り好きの一人である。
というよりも、祭りに向けて盛り上がっていく雰囲気が好きだった。
立ち止まって嬉しそうに光景を眺めていたものの、程なくその場から歩き出した。もう少し見ていたかったが、暑さがたまらなくなったのである。
先を急ぎながらふと、三平の顔が頭に浮かんだ。
笹川道場に移ってから向こう三日、彼の姿を見ていない。しかしながら有衛門から聞く限り、門下生に混じって朝から晩まで道場での稽古に余念がないという。その熱心さに佐市ほか門下生が負けん気を起こしているらしく、日が暮れるまで竹刀打ちの音が止まぬのだと有衛門はほくほく顔で言った。
送り出した宗一郎としても悪い気はしない。
むしろ、言い付けを守って修行に励んでくれている彼に何かしてやりたい衝動がある。
(ああ、そうだ。町納役の辰吉さんに頼んで担ぎ手に入れてもらうか。祭りの日くらい、外に出してやっても罰は当たらねぇだろう)
閃いた。
例の刺客達とて、まさか大勢の町人達で賑わっているところへ斬り込むような真似はすまい。そしてまた、祭りのような賑やかな催しに出してやることで、父親を討たれて暗くなっている彼の気持ちも少しは晴れるかも知れない。
そんなことを考えつつ、彼は大きな門の前へとやってきた。
東央州国府役所。
国府の中心であり、州を治めるためのありとあらゆる権能が集中している場所といっていい。
門の左右には長棒を持った若い番人が二人、顔つきを険しくして立っていたが、宗一郎の姿を認めるなり
「これは斉藤先生。今日はまた、暑うございますな」
一人が相好を崩しながら声をかけてきた。薄手の下位役衣装を身につけているものの、額には大粒の汗が光っている。
宗一郎も苦笑しながら
「全くだよ。おてんとうさんもちょっとは加減しやがれってんだよな。ついこの前までろくに顔も出さんかったくせに、おかしな事をしやがる」
ぶつくさ言った。
文句を言ったところで是非もない事柄に本気で苦情を述べている彼が可笑しかったらしく、番人は二人とも声を立てて笑い出した。こういう気さくさをして、宗一郎は役所中の者から好かれている。
「そりゃ先生、言っても埒が開きませんぜ。何せ相手はおてんとさんですよ?」
「違いねぇ。まあそういうことだから、早く中へ入れてくれ。暑くて敵わん」
「はいはい。今、開けます」
門をくぐって中へ入ると、すぐに大きな中庭が広がっている。その中庭を囲むようにして、正面と左右に一続きの建物がある。宗一郎は中庭を真っ直ぐに歩いて行って正面で履物を脱ぎ、中へ上がった。脇に下足番の老人がいて、その履物を素早く棚へ収めた。
奥へ向かって長く広い廊下が続いている。左右にはずらりと御用部屋が並び、大勢の役人達が忙しそうに立ち働いている姿が目に飛び込んでくる。
そういう騒がしさの中をくぐり抜けるようにして歩いて行くと
「……おや、斉藤先生。これはまた、丁度良いところへ」
左手の一室から声をかけてきた者がいる。見れば、役府内諸事取扱役を務める廣瀬太郎という役人で、宗一郎と年の頃は近い。諸事取扱役は国府役所内の雑務係、といった役割である。
「お早う、廣瀬さん。役所の中も外と大して変わらないねぇ。中に入ったら涼しいかと思ったが、暑いじゃねぇかよ。みんな、よくこんな所で仕事してるなぁ」
大声で言うと、廣瀬は苦笑して
「そう暑い暑いって言わないでくださいよ。みんな、我慢してるんですから。――それよか、言伝です。桜音様が、斉藤先生が見えたら桜花の間へご足労いただけますように、と」
「桜音様が? ああ、やっとお戻りになられたのか。こりゃいいや」
都合がいい、と思いつつ行き過ぎようとすると
「ああ、斉藤先生。御前に出られる前に、ちょっとよろしいでしょうか?」
「ん?」
腰を上げて近寄って来た廣瀬は
「その、桜音様に……ですな、こう、一言お話いただけませんか? 皇都で色々と見聞なされたらしくてですな、帰府されるなりその……我々の目に余るようなお召し物を好まれておりまして……。斉藤先生の仰ることならば、桜音様もお耳に入りやすいかと」
こそっと耳打ちした。
遠回しな言い方だが、何のことかわからなくもない宗一郎はうむと頷いてやった。
「なるほど。桜音様もうちの姫乃と変わりませんな。姫乃の奴、どこで仕入れたんだか丸々背中を出した衣装で町ん中のし歩いてやがりましてねぇ、風邪なんかひいたら承知しないってんですよ」
困った娘だ、と言わんばかりの口調に、廣瀬はぶっと吹き出し
「なんだ、先生のところの姫乃ちゃんも一緒でしたか。しかし、近頃の若い娘達の考えることはわかりませんな。なんだって、好んで娼女みたいな恰好なんかするんでしょうねぇ。肌さえ出せば女っぽく見えるとでも思っているんでしょうか。……困ったものです」
「違いねぇ。よし、俺から一言申し上げておく」
話を打ち切ってさらに奥へ進むと控えの間があり、そこから先は襖戸によって仕切られている。満開の桜が描かれた見事なもので、その前には国主付側女――取次役――が神妙に控えている。
宗一郎は下座のあたりに品良く着座し、側女と向かい合った。
本来であればここで一旦名を名乗り、謁見の用向きなども伝えねばならない。側女はそれを国主へ伝え、承諾されてようやく拝謁となる。
が、宗一郎を見るなり側女はくすくす笑っている。
「どうぞ、斉藤様。桜音様が今か今かとお待ちですわ。よほどお会いしたかったみたいですもの」
宗一郎はわざと苦い顔をして見せ
「何だい、俺の顔を見るなり笑うこたないだろう。――取り次がなくてもいいのかえ?」
「斉藤様に限っては。取り次ぎなどしては、却って桜音様に叱られてしまいますわ」
「そうかい。じゃ、遠慮なく」
膝で襖戸の傍へにじり寄っていき
「……失礼します! 斉藤ですが」
襖越しに大声で名乗ると、
「まあ、斉藤様! どうぞ、お入りになって!」
間髪を容れず、嬉々とした若い女性の声が返ってきた。
では、といって両手で丁重に襖を開けると、畳数十畳にもなろうかという広大な間が広がっている。右手はすっかり開け放たれており、見事な庭が見える。たくさんの緑樹や大きな池が配されているためか、吹き込んでくる風はふわりと涼しく肌に優しい。表の焼け付く暑さが嘘のようであった。
広間の正面、一段高くして設けられた上座には一人の女性が足を崩して座っている。見た目娘の姫乃とあまり年端が変わらないほどに若い。現れた宗一郎を目にするなり、美しい容貌を温和に笑み崩した。
白地に桃の花弁を散らした柄の艶やかな着物の両肩を大胆に落とし、胸の前で結ばれた帯が大輪の花を咲かせたようになっている。肩から胸元ががらりと露わだからそれだけでも十分艶めかしいのだが、着物の丈が短いために脚もまた惜しげもなく晒され、確かに男の下僚ならば目のやり場に困るような格好といっていい。
が、宗一郎はいつもの弛んだ表情をきりりと引き締めつつ畳に手をつき、静かに頭を下げ
「……斉藤宗一郎、お呼びにより参上いたしました」
すると、女性はきゃっ、と無邪気な笑い声をたて
「斉藤様ったら。そのような礼儀は無用だと申しておりますのに。もっとくだけてくださいませんと、堅苦しくて仕方がありませんわ」
現東央州国主、国島桜音。
昨年、先代である父・国島桜宗が逝去したため、若い娘の身ながら国主となった。
父親に劣らず聡明かつ温和な性格をして国中の武司はおろか町人達からも愛されており、この国主様のためならば、と思わぬ者はいないと言われている。宗一郎は先代桜宗に目をかけられ国主付の剣術指南役に抜擢されたのだが、その開けっ広げで遠慮のないところを娘の桜音にも好かれてしまったらしい。桜宗亡き後、彼女は何かといえば斉藤様、斉藤様と、従来以上に彼を呼ぶようになった。いわば、何でも相談できる叔父様、といった存在なのであろう。
頭を上げた宗一郎はぴっと姿勢を正し、両手を膝の上におくと
「桜音様。若い婦人として市井の流行りが気になるのは致し方ない事とは思いますが、そのように肌を晒すのはよろしくありませぬぞ。国府付きの武司達が目のやり場に困ると、苦情を申しております」
「あら、だったら目を伏せておればよいではありませんか。私とて一人の婦人ですもの、流行りの着方くらい、してみとうございますわ」
露出された自分の肩を指し
「これ、両袈裟落としっていいますの。それから、この結び目は繚乱結びと申すのだそうです。皇都の娘達の間ではたいそう人気だそうでして、さっそく真似してみました。……似合います?」
可愛らしく微笑んで見せた桜音。宗一郎に甘えている。
似合うも何も、肩をはだけさせただけじゃねぇかと思ったが、そこは似たような年頃の娘を持つ父親である。苦笑しながら
「桜音様の美貌は各国府に轟き渡っております。元が美しい以上、何をお召しになろうと美しく似合うは必定でしょう。尋ねられるまでもありません」
さり気なく褒めておいた。内心、うちの姫乃までやりだしたらどうしようかと思っている。
すると、桜音は悪戯っぽい表情をして彼の方に身を乗り出し
「斉藤様。上手く褒めたおつもりでしょうが、私はこの着方が似合うかどうかとお尋ねしております。はぐらかしてはいけません」
聡明な娘である。宗一郎のさり気ないすり替えを易々と見破ってしまった。
彼は参った、というように叩頭してから
「いや、こりゃ一本取られましたな。さすがは桜音様です。――ならばきちんと申し上げましょう。大変よくお似合いです。日頃の美しさに加えて妖艶さがいや増しておりますな。皇都の娘達が始めたのでございましょうが、彼女達など比べものにもなりますまい」
真正面から褒めてやった。
大真面目に言われるとそれはそれで気恥ずかしいらしく、頬を染めて俯いた桜音。もじもじしながらしきりと帯の結び目をいじっている。
が、宗一郎の話には続きがある。しかし、と声を励まし
「で、あればこそです。平素からそのようなお姿では、役府の下僚達を悩ましめることになりましょう。ここは一つ、時と場所を弁えた上で、何なりと好きな着方をなされますよう」
風向きが逆転している。
ぴしゃりと言われた桜音は「はーい……」と畏まって返事をしつつも、
「じゃあ、ですよ? この着方は斉藤様がお越しの際にすればよいのですね? 褒めてくださったのですから、斉藤様の前でもいけないということにはならないでしょ?」
上目遣いに彼を見た。
「……」
返す言葉が見つからない。
桜音の勝ちである。
宗一郎の沈黙を見てとった彼女は破顔一笑、
「あはは! 今度こそ斉藤様から一本頂戴いたしました! こんなに愉快なこともございませなんだ」
剣の立ち合いに例えているらしい。
伝えるべきことは伝えたと思った宗一郎、つられて仕方がなさそうに笑い
「まったく、桜音様には敵いませんな。そのように年上の男衆を苛めては罰があたりますぞ」
「斉藤様だけは別ですもの。私、斉藤様にだけこうやってお話させていただいているのですから」
大広間に、二人の可笑しそうな声が響いていく。
ひとしきり笑ったところで、桜音は
「ところで……」
俄に表情を引き締め、威儀を正した。年頃の娘から一変、凛々しい国主の容儀である。
「皇都において斉藤様の急便、拝見いたしました。念のため市中を調べにやらせましたが、確かに仰る通りでした。だけでなく、房海州をはじめ相奈州などなど、近隣の国府はどこも信近州物産の入りが滞っていて町人の皆さんが大変お困りになっているようです。この次第が続けば、いずれは皇領全ての乱れを招きましょう」
実は、三平に「考えがある」と言ったのは、このことであった。
早くから宗一郎は物産流留を深刻に考えていたが、他国府内の一件だけに、彼一人の力だけではどうにもならない。国主である桜音を動かせばあるいは一挙に事を収めることができるかも知れないと思ったものの、折悪しく桜音は奉帝の召喚を受け二十日ばかり前から皇都へ出向いていた。国府役所における本来のあり方からいえば、具申するには彼女の帰府を待ってからにせねばならない。
が、屋敷に押し込みを受け、三平の口からさらに詳しい事情を聞き出すに至り、もはや一刻の猶予もままならないと思った宗一郎は翌朝皇都滞留中の桜音へ宛て急便を出したのである。文には、信近州府内物産商加納屋惣兵衛が専売手形独占を狙って国府物産流取締役所筆頭大黒大介に賄賂をつかませた話に始まり、以降信近州にて起こっている騒動の一連について知っている限り詳しくしたためた。
桜音はその急便を披見し、彼女なりに対応を考えてくれたらしく
「どのようにしたものかと考えましたが、事の内容から察するに執りうる方法は一つしかなさそうです。房海州の千葉様や相奈州の海老名様と連署して皇陽殿の奉帝に急便を差し上げ、この一件をお耳に入れてご裁断を仰ぎたいと存じます。ですが、斉藤様はいかがでしょう? そのようなやり方では手緩いと反対なさいます?」
言いながらも、桜音は悪戯っぽい笑みを浮かべている。
宗一郎が反対しないとわかっていて、態とそう尋ねているのだ。
そのことに気付いている彼は苦笑して
「誠に結構な賢慮であるかと。沼辺氏が他国府の意に耳を貸さぬ以上、奉帝のご裁断にすがるよりほかありますまい。桜音様が仰るように、このまま捨て置けば町人達の暮らしが立ち行かなくなるのは必至。すぐにでも奉帝へ急便をおしたためいただくが良策とこの斉藤宗一郎、愚考奉ります」
本来ならば、国府役人でもない一介の剣術使いが政に口を出すなどあってはならない。
が、誰もそのことをとやかく言わないのは、宗一郎の人柄もさることながら、彼自身市井に暮らす庶民にもっとも近い存在だからであろう。町人から好かれているこの男が口にする話は、まずまず町人達が言っていることそのままであると思っていい。
「わかりました! 斉藤様が賛意とあらば、すぐそのようにいたしますわ。これ以上、町人の皆さん達を困らせておく訳にはいきませんもの」
こうなれば事は成ったも同然だと、内心でほくそえんだ宗一郎。
四隣の国主が連名して奉帝に訴え、奉帝が直々に動いたならば信近州国主といえども知らぬ存ぜぬでは通らない。何らかの手を打たざるを得なくなるであろう。奉帝という存在は各国主に対し「主」という立場にある。
ただ、と桜音は苦い顔になり
「急便の中で触れられていた、諫言しようとした武司を頭老大黒の手の者が闇討ちした一件については調べようがありませなんだ。そこを詳らかにできれば、と思ったのですが、他国府の内情に関わるお話ですから、私どもが横から口を出すことは憚られます。――ですが、遺された田中家の方々については東央州内への移居が叶うよう、私からも府内戸宅取締役の者へ口添えいたしましょう。そうすれば、少しは後の暮らしが立つようにもなりましょうし」
よい判断であると宗一郎は思った。
奉帝が動いたならば、加納屋惣兵衛や大黒大介の策謀は黙っていても露顕するに違いない。しかし、そのことによって土地を追われた田中一平の家族の暮らしが元に復せる訳ではないのだ。そう考えると、桜音の申し出は極めて的を射ているといえる。
信近州に端を発する一連の件について、落着への目処はついた。
桜音に篤く礼を述べ、桜花の間を下がろうとすると
「お待ちください、斉藤様」
呼び止められた。
「は。何か、ございましたか?」
顔を上げると、桜音の表情が寂しそうに曇っている。
「次は一日お暇を設けてお越しくださいね? やっと皇都からこうして戻ってこられたのですから、ゆっくり斉藤様とお話しをしたいのです。付女達を相手にお話ししても、さっぱり面白くないんですもの。そこへいくと、斉藤様のお話は楽しくて」
「は、はぁ……。この騒ぎが収まりましたらば、仰せの通りに」
これは容易ならぬことになりそうだ、宗一郎は思った。
この若い国主は黙っていれば一日どころか、毎日呼びつけてくるであろう。
姫乃の耳に入れば、あらぬ誤解を受けるかも知れない。
「そういうことですからね、三平さん。全てお父様が然るべく手を打ってくださいましたから、明後日は心置きなくお祭りを楽しめますよ?」
「お気遣い、ありがとうございます。そういうことならば是非、人数に加えていただこうと思います」
神輿の担ぎ手に推してあることを伝えてやるため、笹川道場に立ち寄った姫乃。
ついでに昨日、宗一郎が国主国島桜音に直談判してきた旨を話してやったのだが、三平はただただ驚いている。まさか国主の耳に届くとは思っていなかったからである。宗一郎に礼を述べるべくすぐにでも駈け出しそうになったが、姫乃と佐市は押し止めた。事態は良い方向へ動き出しつつあるものの、依然として大黒の手の者が彼を狙っていないとも限らない。迂闊に道場を出ない方が得策であった。
「じゃあ三平さん、担ぎ手の半被は明日にでもお持ちしますわ。三平さんの身体なら、お父様ので十分適うと思いますから」
「え? それでは、父上殿は……?」
宗一郎は加わらないのか、と言わんばかりの三平に、姫乃はくすくすと笑って
「もう、神輿を担いで騒ぐような年じゃないんだそうですよ? 観ている方が楽でいいんですって。――じゃあまた明日お邪魔しますから!」
言い残し、浮き浮きとした様子で笹川道場の門を出て行った。
――その斜向かい、小川の脇に立っている、大きな柳の木の陰。
「……どうだ? 間違いあるまい」
「確かに。あの夜、三平の傍にいた小娘だな」
小さく頷いた貫一。
由比造は懐手をして柳の幹に寄りかかりつつ
「直に見た訳ではないが、三平はどうやら密かに」顎をしゃくって「そこの道場に移ったようだ。ここ数日、あの娘がしきりと行き来しているところを見れば、間違いはなかろう。弟子どもの人数が多いから、その方がよほど安心だと踏んだのだろうな。抜かりのないことよ。こちらとしては仕事がやりにくくなった訳だが」
「ふうむ……」
どうしたものか、と貫一は考え込んでいる。
大黒大介が二人に後を――田中三平密殺――を託しつつ帰府してから三日が過ぎた。
府内見回役に訴え出られている恐れがあるため数日ばかり様子を見ているのだが、どうもその形跡がない。それは良いとしても、肝心の三平の動きがよくわからなかった。あの夜以来、全くといっていいほど屋敷外へ姿を見せなくなっていたからだ。大黒に借りた人数を密偵にしてしつこく見張らせているものの、外へ出てこない以上確かめようがない。
が、それではどこに匿われているかといえば、由比造が推量した通りかも知れないという気がする。だとすれば、何とかして道場から引き摺りださないことには、手の打ちようがない。手を打つとは、三平を斬ることである。
いい方法はないものかと忙しく考えを巡らせていると
「……朝倉、戻ろう。ここに立っていては怪しまれる」
由比造に袖を引かれた。
道場町の往来は剣術道場に通う修行生がしきりと行き来しており、怪しい人影とあれば直ぐ様見回役まで報らされてしまう。これから悪事を企てんとする者がおいそれと近付けるような町でないといっていい。大黒が置いていった人数の中に事情に詳しいのがおり、二人にそう教えていた。
既に通りの向こう側、剣術道具を担いだ若者達がぞろぞろとやってくるのが見える。
「あ、ああ。そうだな……」
散歩の体を装い、ぶらぶらと歩き出した。
西の空がすっかり茜色に染まっている。そういう刻限のせいか、家路を急いでいるらしい町人達と何度もすれ違った。ふと気付けば、どの屋敷や長屋にも手製の提灯がぶら下げられている。何か祭りでもあるのだろうか、と言い掛けてやめた由比造。
しばらくというもの、貫一は黙りこくっていたからだ。
三平を誘き出すための上手い方法が思いつかないようであった。
自分がそういう思案に不慣れなことを知っている由比造は、貫一に預けっぱなしにしている。それだけに気が軽い彼は、どこかにいい酒楼がないものかと通りの左右を物色し始めた。
そのことに気付いた貫一、
「おい、三ノ輪。お前もちょっとは知恵を絞ってくれ。御頭老様が差し下された金子は我らの酒手などではないぞ。このまま徒に日を消していたら、どんなお叱りを受けるかわからんだろう」
と、やや不機嫌そうな声を出した。
美しい娘が暖簾をかけている小料理屋に気を取られていた由比造ははっと振り返り
「あ? ああ、すまんすまん。こう物事が上手く運ばぬと、つい酒が欲しくなってしまってな」
詫びを入れつつも、目線はまた娘の方へいってしまっている。
(ちぇっ、気楽な奴め。飲んだくれるのは三平を始末してからにしろってんだ)
口には出さねど、内心で罵倒している貫一。が、明らかに顔に怒りの色が滲み出ている。
相棒の機嫌を損じてはまずいと思い、慌てて由比造は
「わ、悪かった! 儂も一緒に考えるから、そうつむじを曲げてくれるな。――おお、そうだ!」
閃いたように大きな声を出し、足を停めた。
「あの娘をさらうのはどうだ? で、三平には出てこなければ娘を殺すと言って誘き出すのだ。こちらには人数がある。娘一人をさらうくらい、造作もあるまいよ」
自分の思い付きがよほど気に入っているのか、嬉しそうに言った。
だが、貫一の視線は冷たいままである。
「馬鹿を言え。あの屋敷には腕利きの父親がいるのを忘れたか。それに、この界隈はどこも人が多い。往来で人さらいなどやってみろ。それこそ人目について捕吏を呼ばれてしまうわ。人質をとって済むくらいなら、最初から――」
とまで言いかけて、はっとした貫一。
よくよく考えてみれば、いないこともないではないか。
斉藤道場の娘などよりも、もっと人質に相応しい者達が――。
たちまちのうちに考えを巡らせると、急に明るい顔をして
「……よし、三ノ輪。今宵は一献、いくとしよう。その代わり、明日からは気を引き締めて働かねばならぬからな。それだけは肝に銘じておけ」
突然そう言われたところで、由比造はなぜ彼がいきなり変化したのか理解できない。
「あ、朝倉? 急にどうしたのだ? 自棄を起こしたのなら、まずは落ち着いてくれ! 真剣に考えない儂が悪かった。謝る!」
「はっはっ、自棄など起こしておらぬわ、三ノ輪! 良い策が浮かんだのよ、ぬしの一言がきっかけでな。ま、そこの小料理屋で一献やりながら話してやるわ」
貫一は由比造の肩を抱くようにして、すぐ傍にあった小料理屋へと足を向けた。
先ほど由比造が気を取られていた、美しい娘がいる店である。
暖簾をくぐり
「おう、娘! 良い酒はあるか? 肴はぬしに任せるが――ああ、冷たい奴があれば有り難い!」
「お武家様、今どこにもお豆腐なんてありませんよ? 信近州の物産商が買い占めしているとかで、ここしばらくお豆が入ってきてないんですから」
「あ? ああ、そうかえ……」
――それが自分達のせいだと気付き、思わず「申し訳ない」と口走りかけた貫一であった。
道場町社祭りの日がやってきた。
この日ばかりは小売横丁の商いも剣術道場の稽古も軒並み休みである。
町人達は皆、朝も夜明け前から準備に取り掛かり、今や遅しと宵を待つ。
祭りは町内をぐるりと一周する神輿練りに始まり、境内に移ってからは若い娘達による奉納舞や男衆の神武踊りと続き、最後は選ばれた町人による神盛囃子で締めとなる。それらに関わる者達は別として、どの家でも朝から酒を飲むことが許されるのも楽しみの一つとされていた。
姫乃が笹川道場に顔を出したのは、宵までまだ少し早い刻限である。辺りは明るく、そのためどの家の提灯にも火は灯されていない。
「皆さんいかがですか? 準備は整いました?」
桃色の化粧布で髪を束ね、白い女物武家衣装を身に着けた姫乃が姿を現すと
「おお、姫乃さん! 待ってました! さあさ、どうぞこちらへ!」
門下生達が手招きしてくれた。どの顔もすっかり赤くなっていて妙に威勢がよい。酒のせいであった。
笹川有衛門は厳格なところがあり、祭りの日といえどもさすがに朝酒を飲ませたりはしない。
それでも祭りが始まる前には有衛門自ら樽酒を用意し、門下生一同に振る舞うのが慣例となっていた。筆頭席師範代が一刀をもって栓を抜き、皆で一斉に杯を上げるのである。
が、笹川道場にあっては祭りの日の楽しみがもう一つあった。
姫乃は両手で大きな平たい手桶を持っている。
中には、美しく盛られた散らし寿司。
笹川道場の門下生達は、姫乃が振る舞ってくれるこの寿司を食べるのが何よりの楽しみなのであった。故に、それが届けられるまでは酒の量を控えめにしておく者が多い。
「お待たせして御免なさいね? 青豆の代わりに散らすものがなかなかなくて……」
道場の中央に置いてやると、手ぐすね引いて待っていた門下生達が一斉に群がっていく。
もっとも、筆頭席師範代の香田佐市だけは
「こら、お前ら! うすみっともない真似をするんじゃない! 順序を弁えろ、順序を!」
傍から怒鳴るのだが、聞いている者などいない。奪い合うようにして、散らし寿司をむさぼり食っている。
「全く、すみませんね、姫乃さん。こいつらときたら、食い物とあらば目がないんですから。日頃の稽古こそ、そうあってもらいたいんですけどね……」
苦笑している。
姫乃はにこにこしながら
「元気があって良いではありませんか。お祭りの日くらい羽目を外させてあげても、剣術の修行には一向に差し支えないと思いますわ。若い殿方はこうでなくちゃ」
言ってから、ふと思い出したように
「そういえば、三平さんの姿がないようですね? また一人で稽古でもしてるのかしら?」
「ああ、さっきから誰かの姿がないと思ったら。神輿練りに出るのに着替えでもしているんだろうか。――ちょっと、中を見てきます」
佐市は道場の奥へ入って行ったが、すぐに出て来て
「いないですね。変だなぁ、彼は昼飯のあとも一人で黙々と素振りしていたんですけど」
呟いた。祭りの日だというのに、相変わらず稽古に精を出していたらしい。
そこへ有衛門がふらりと姿を見せた。いつもの長者風な微笑を湛え
「おお、姫乃ちゃん。いつも済まないね。今年は物産の入りが滞っているからこれだけたくさんの寿司をこしらえるのも大変だったろう?」
「いいえ、大丈夫ですよ。信近州の産でなければこれといって不足はありませんから」
「祭り、観に行くのだろう? 神盛囃子が終わったら、ここへ寄りなさい。旧橋町の折屋に仕出しを頼んである。宗一郎さんや三平殿も呼んで、皆で宵送りをしようじゃないか」
宵送りとは、祭りが終わった後に皆で集まって行う、酒盛りのようなものである。
三平の名前を出したところで、有衛門は急に辺りを見回し
「おお、その三平殿はどうした? 神輿練りへ行くにはまだ少し早かろう」
「え? 先生も見ていないのですか?」
有衛門の一言に、顔を見合わせた佐市と姫乃。
たった今佐市は道場とその周りを見てきたのだが、三平はいなかった。有衛門が起居する屋敷の方にもいなかったとなると――この笹川家のどこにもいないということになりはすまいか。
まずい、と姫乃は思った。
宗一郎からは神輿練りのために屋敷外へ出ることを許されてはいるが、あくまでも道場の門下生達と連れだって行くように言われている。大黒大介の一味に対する用心のため、決して一人で他行してはならないと昨日も宗一郎に固く釘を刺されたばかりであった。
「おい、みんな!」
寿司に群がっている門下生達に向かって佐市は
「誰か、田中さんを見ていないか? 皆で道場掃除を終えてからこっちだ」
呼びかけた。
皆、箸を停めて彼の方を見たが、頷く者はない。そこかしこで首を横に振っている。
すると、隅の方で畏まっていた、顔つきに幼さの残る年若い門下生がすっくと立ち上がり
「あの、さっき、門のところで見知らぬ婦人が田中さんに手紙を渡しているのを見かけました。四半刻ばかり前だったかと思います」
よく通る元気な声でそう告げた。
皆の視線が一斉に彼に向けられる。
佐市が一歩進み出て
「田中さんを見た? 孝太郎、そのあとはどうした?」
「婦人はすぐ立ち去りましたが、田中さんはその場で何か考えておいででした。武司の倣いとしてあまり見てはならぬと思い、それ以上は憚りましたが」
孝太郎といった少年は素直に男女の何事かを想像し、気を利かせたらしい。話を聞いた門下生の中に、ぐすっと笑みを漏らした者が何人かいる。
が、少し考えればわかることだが、それは面妖であろう。
田中三平は来府して斉藤道場に転がり込んでからというもの、ろくに外へ出ていない。その彼を恋い慕い、よりによって渡し文などをする婦人が果たしていたものか、どうか。
さすがに佐市はすぐそのことを理解したと見え、
「はっきりとは言えぬが、その婦人は田中さんとは何ら関係あるまい。皆、妙な想像はするな。田中さんはそのようなお人ではないぞ」
一同を戒めつつ、断を下すように言った。
「しかし、それきり姿が見えないというのはいかにも不審だ。――虎雄、田中さんの部屋に刀があるかどうか、見てくるんだ!」
「……おっと、承知」
傍にいた虎雄なる名の青年は軽々と腰を上げて奥へ入っていったが、幾許もせず慌ただしく戻って来て
「佐市さん、大変です! 田中さんの刀がありません! 布団も綺麗にたたんであります!」
「何だと!? 黙って道場から出ていったのか!」
それを聞いた姫乃は、すかさず道場から飛び出していた。
「姫乃さん、どちらへ!?」
「私、町内を捜して参ります! 今ならまだ、追いつけるかも知れませんから!」
後ろで佐市が何か叫んだが、姫乃の耳には届いていない。
笹川道場の門をくぐり、鮮やかな夕陽に染まった通りを駆けて行く。
三平が姿を消したとすれば、心当たりは一つしかない。
(三平さん、信近州の武司達に呼び出されたんだわ。お父様の言いつけに二度も背く筈がない。――それにしても)
信じてやりたい反面、何故黙って行ってしまったのかと腹立たしくもある。
せめて、相談してくれても良いではないか。げんに宗一郎は事態を収めるべく国主まで動かしたのだ。
察するに、孝太郎が見たという見知らぬ婦人はどこぞの通りすがりの者であろう。信近州の連中はその婦人に文を託し、三平に渡すよう頼んだに違いない。笹川道場にこもってしまった彼を引き摺り出すのに手を焼いた連中が、いかにも用いそうな手口である。
しかし、と姫乃は思う。
結局のところ、三平は父親の仇討ちを諦めていなかったのではあるまいか。
そういう情念の強さも手伝って、彼自身を身勝手な振る舞いに駆り立てたのではないかと思われてならない。国主国島桜音は遺された田中家一族の保護こそ約束してくれたが、大黒大介による田中一平密殺の一件にまで手入れは及ばないと明言した。三平にしてみれば、父親の無念を晴らすために頼るは腰間の一刀あるのみ、ということになる。
(一度斬り合って歯が立たなかったって言ってたのに。また立ち合ったら、今度こそ……!)
つい最悪の結末を想像してしまい、思わず首を振った姫乃。
が、このままでは三平が生きて戻ってくることはないように思われ、涙がこぼれそうになった。
絶対に捜し出して止めなくちゃ――。
何度も自分に言い聞かせつつ、懸命に足を動かした。
宵の刻が迫ってきているせいか、祭りの場所へ向かう町人達の姿が増え始めている。
土地に慣れないというのはこんなにも不便な事なのかと三平は思った。
幾度となく通りすがりの町人をつかまえては道を尋ね、やっとのことでそれらしき場所へ辿り着けたのだが、気が付けばすっかり夜の帳が下りてしまっていた。急いでいたせいで渡された文を途中で落としていたから、なおのこと手間取った。
来るように指示されたのは、道場町から離れた所にある空き屋敷であった。
その門の前に立った三平。
確かに人の気配はまるでなく、日が落ちて闇に沈んだだけに不気味でさえある。手入れされていない塀や門はすっかり朽ち果て、あちこちから長く伸びた草が飛び出しているのが目に付く。
一歩内へと踏み込んだが最後、生きて出ることはあるまい。彼は思っている。
中には恐らく、大黒大介の意を受けた連中が待ち受けているであろう。彼等の目的はただ一つ、三平の密殺であるからだ。先日来の有態から想像するに、多勢で押し包んでくるものと思われる。いかに剣の腕を磨こうとも、一対多数の立合いは成立しない。中へ入れば、どう転んでも命はないのだ。
彼とて、黙って討たれるつもりは毛頭ない。
父、一平を闇に紛れて斬ったという金で雇われた流れ者――風の便りに聞くところ、朝倉貫一、そして三ノ輪由比造というらしい――にせめて一太刀浴びせ、痛みと共に父の無念を思い知らせてやる。それが叶うのならば、死は厭わない。宗一郎に向かって吐露した心情に、嘘偽りはなかった。正直を言えば大黒大介その人に一矢報いてやりたいが、今となってはどうにもならない。が、宗一郎の手配りによって国主が動き、さらに奉帝にまで事の次第が達したならば、いずれ信近州に大手入れがあると思っていい。その先に、大黒の没落が待っている筈であった。それも悪くはない。
ただ――胸中、淡い哀しみがなくもない。
国許の寒村では母、妹、そして祖母が日々飢えに耐えつつ彼の戻りを待っている。もしも彼が還らぬ人になったと知ったならば、三人はどれほど嘆き悲しむであろう。
さらには、斉藤宗一郎や姫乃、笹川道場の面々。
流れ者と成り果てた彼に対し尋常ならざる厚意を見せてくれたにも関わらず、その恩に泥をかけるようなかたちになってしまった。どういう面目もあったものではない。
(皆さん、本当に、申し訳ない――)
心で何度も詫びを入れている三平。
が、もはや退く事はならない。
約を違えれば国許の家族の命はないと、大黒の手の者はそう告げてきている。
左手で腰間の刀を握り締めつつ、その鋭い眼差しを門の内側へと向けた。
(おさらばです、母上、綾子、婆様。私は今宵、亡き父上の御傍へ参ります。どうか、お達者で……)
家族一人ひとりの名を強く念じてから、その足を前へと踏み出した。
遠く、祭囃子の賑やかな音が聞こえたような気がしなくもない。
(はあっ。三平さんたら、どこへ行っちゃったのよ……)
祭り提灯が放つ赤く仄かな明かりの下を、とぼとぼと歩いて行く姫乃。
思い当たる限りの場所を尋ね探し回ったものの、結局三平の行方は知れないままであった。
いっそのこと府内見回役まで訴え出ようかと思ったが、そのためには訴願状をしたためて差し出さねばならない。そうした手続きを踏んでいる間に、三平が亡き者にされるのは火を見るより明らかであった。
といって、これ以上どういう当てがある訳でもない。
考えたくはなかったが、もはや手遅れだとしか思われないのであった。
三平には昨日、半被を試しに着せるのに会ったのが最後だったような気がする。
似合いますでしょうか、といってはにかんだ彼の笑顔が浮かんできて、胸の奥がずきりと痛んだ。
(三平さん……一緒にお祭りを楽しみましょうって、言ったのに……)
ふと、目の前がぼやけていることに気付いた。
慌てて手の甲で拭ったが、後から後から涙が込み上げてくる。
始末におえなくなり、ついにはぐしゅぐしゅと泣きながら、姫乃は歩みを進める。声を上げて泣きたかったが、往来である、その発作を堪えるのに精一杯だった。
どこからともなく微かに聞こえてくる笛の音が、今ばかりは恨めしくてならなかった。
――と。
少し先の暗がりに、佇んでいる人影がある。
泣いていた姫乃ははっとなって立ち止まった。
よくよく見てみると、乙末という姫乃より二つ三つばかり年下の若者であった。流しの花売りを生業にしていて、琴乃の命日が近くなると斉藤道場にもやってくる。
天秤棒の先、籠に積まれたたくさんの花を見て姫乃は思い出した。
一夜限りの宵送りを彩るために、町人達は花を購める。
故に今宵は花売りにとって書き入れ時といっていい。
涙を拭いつつ近寄っていったが、背を向けている彼は振り返らない。
どうしたのだろうとそっと覗きこむと、手にした皺くちゃの紙片にじっと目を凝らしている。
「乙さん……?」
背後から声をかけた姫乃。
乙末は振り向きざま驚いたような顔をしたが、すぐにへっと笑って
「ああ、斉藤先生のとこの姫乃さんか。びっくりしたなぁ。近づいてきているのがわかりませんでしたよ。暗い刻限だし、物盗りかと思った」
「あら、私ってそんなに気配がないかしら? よく言われるのよ、幽霊みたいだって」
泣き顔を見られるのが嫌で冗談を口にしたが、上手く笑えない。
相手が姫乃だとわかった乙末は、ちょっと困ったように
「姫乃さん、これ、読めますか? 俺、ちゃんと字を習ってないからよく読めなくて」
手にした紙片を差し出してきた。
「頼まれ先の覚え? 勝末のおじ様に渡されたの?」
「いいえ、違うんです。今、そこで拾ったんですよ」
「そう。じゃあ、読んであげるわね。ええと……」
すぐ近くに、商屋の行灯の灯りがある。
その光を頼りに手渡された紙片に目を走らせるなり、姫乃は固まった。
『田中のせがれゑ。今夜九つ、中草町待合橋傍の空き屋敷まで来られたし。当方は温情により、一剣をもって事を決する用意あり。ただし、妙な真似をすれば国許の家族の一命、速やかに貰い受けると思われよ』
文言から察するに、大黒大介の一味が三平に宛てた文と思って間違いないであろう。
それを、三平は落としていったらしい。
迂闊といえば迂闊だが、姫乃にとっては却って都合が良かった。奇遇とはこういうことをいうのかも知れない。
(そういうことだったのね。信近州の武司達、三平さんを誘き出すためにこんな手を……! 絶対に許せない! 中草町の待合橋、か)
幸いなことに、指示されている場所はそう遠くない。まだ、間に合う望みはある。
二度、三度と読み返し、文言を十分に確認をしてから顔を上げ
「乙さん、この紙切れ、要るかしら?」
「あ、え? 拾ったものだからよくわからないんですけど、何か得になるんだったらとっておこうかなぁと思ったんです。それで、姫乃さんに読んでもらったんですが……」
乙末らしい、ささやかな欲得である。
姫乃は微笑って
「残念だけど、書いてあることは何一つ乙さんにとって得にならないわ。――でも、私がこの紙きれを買い取ってあげれば、乙さんの得になるでしょう?」
そう言って持ち合わせの小銭を渡してやると、乙末は目を丸くした。
「いいんですか? こんなにもらっちゃって……?」
「いいのよ。乙さん、大手柄だから。――じゃあ、ごめんなさい。私、ちょっと急ぐから!」
駆け出したが、すぐに振り返り
「ああ、そうそう! 今度の七日もお花、よろしくね!」
胸中、母の命日に思い出すだけの余裕が生まれていた。
どれくらいの刻が過ぎたであろうか。
もう何度目になるかわからない、由比造の「遅い」を聞いた貫一は露骨に眉をしかめ
「少し、黙っててくれ。そのように繰り返されては、儂が手落ちであったかのように聞こえるわ」
苦情を述べた。
「あ、いや、済まぬ。そういうつもりはない。ただ、あの倅がなかなか来ぬものだから、つい……」
申し訳なさそうな顔をした由比造。
が、闇が深いせいで貫一にはわからない。
腕組みをして待ちながら、彼は彼で気になっていることがあった。
(宿屋敷の連中、何をしておるのだ? 早くしないと、三平めがやってきてしまうわ)
そういう苛立つ気持ちがつい、隣にいる由比造に向いてしまったということもある。
この空き屋敷には今、二人のほか僅かな人数しかいない。あとの者は宿屋敷――他国府の役人達が寝泊りするための、宿場となる屋敷――からおっつけ駆け付けて来る手筈になっていたが、待てど暮らせど着く気配がなかった。
各国府の府内見回役は、悪事をはたらこうとする者が潜むのを防ぐため、空き屋敷などに人が寄り付かないよう厳しく見張っている。であるから、最初から大人数を置いておくことをせず、日が暮れるのを待って後から加勢にくるよう指示していたのであった。
まさか三平に敗れるとは思わないが、討ち漏らせば今度こそ大事になるのは目に見えている。念には念を入れるべく貫一は、大黒に借りた人数の全てをあてて三平を仕留める算段でいた。
密殺の場として選んだ空き屋敷は誰のものだったというのか、思いのほか広い。三平の死骸を隠すにも丁度いいと、貫一は踏んだのである。
夜空は見事に晴れ渡っており、中天に見事な満月が見えている。
その明かりが降り注ぎ、屋敷の庭をほんのりと白く染め上げているのだった。もっとも、真っ暗闇で白刃を振るおうものなら同士討ちを起こす恐れもあるため、二、三の提灯だけは用意してある。
「……のう、朝倉」
少しして、また由比造が口を開いた。
「何だ?」
「今宵、祭りらしいな。ずっと、囃子が聞こえてきている。賑やかだな」
愚にもつかぬことを。
貫一は思ったが、黙っていた。文句を言うまでのことでもないと思ったのだ。
そのまま、またしばらく闇が澱んだ。
ふと、どこからか流れてきた雲が満月にかかり、月の光が俄かにざわめき出した時であった。
「――お前達だな? 父上を斬ったのは」
不意に二人の正面に気配が湧き、暗がりからスイと一人の男が姿を現した。
三平である。
たださえ細い眦をさらに鋭くし、相貌に憎しみとも怒りともつかない色を浮かべている。
未だ加勢の人数は見えない。
いっそ刻を稼いだものかと貫一は一瞬考えたが、傍にいる由比造がすっと前に出るなり
「答える筋合いはないな。冥土で父上殿に尋ねたがよかろう」
応じた。
声に、いかにも楽しそうな含み、そしてえも言われぬ余裕がある。そういうあたり、貫一よりも人斬りに適いた男なのかも知れなかった。
対する三平の表情は動かない。
代わりに、右肩が静かに沈んでいき、同時に右手が柄にかけられようとした。
その、握る直前でぴたりと動きを止めた三平、
「……ならば、問わぬ。拙者としては、お前達を斬れればそれでよい――」
言い終わるが早いか、火花が散った。
いつの間に抜かれたものか、互いに踏み込み合った三平と由比造の間で白刃が交差している。
「……捜したぞ、父上の仇め。今ここで討たせてもらう」
「命を大事にしておけばよかったものを。冥土に急ぎ参るとは、愚かな父子よ」
押し切ろうと寄せる由比造を、持ち前の膂力で支えている三平。
競り合う力は、ほぼ互角とみていい。
二人はぎりぎりとせめぎあっていたが、やがてどちらからともなく双方跳び退った。
間合いは五歩ばかりであろうか。
三平はつま先で足元を確かめつつ、ゆるゆると剣尖を天に舞い上げた。
対する由比造、平星眼。癖なのかどうか、やや右寄りのため左篭手が僅かに空いている。
そこに目を付けた三平、一つ、二つと呼吸を量ってから
「……参る!」
地を蹴った。
踏み込みざま、由比造の左篭手を切り落とすべく素早く構えを中段に落とした。
その挙動、流れるように無駄がない。並みの者が受ければ間違いなく左腕を喪うであろう。
ところが。
由比造は口の端でにやりと笑うなり、寄せた拳の向きを左へと転じた。
当然、剣は左篭手を守ろうとする。
誘いか、と思う間もない。
由比造の剣が跳ね上がり、襲ってきた三平のそれに応じた。
十分な溜めを伴った下からの一撃である。
思わぬ変に遭い、三平の手元は狂った。
短く火花が散ると同時に、刀は持ち主の手を離れて闇の向こうへと飛ばされていた。
なおかつ、体勢が崩れている。
はっとした三平は、目の前で光る白刃、そしてその向こうに由比造の残忍な笑みを見た。
「……甘い、甘いなぁ」
反射的に、地面を蹴った。
間髪をいれず、由比造の一撃が三平の像目掛けて殺到していく。
斬られたかのように見えたが、刀身は虚しく宙を裂き、地面へと吸い込まれた。
――が。
「……!」
右肩に裂かれた様な痛みを覚えた。見ればべっとりと血で濡れている。
完全には避け切ることができず、浴びてしまったらしい。
堪らず、膝から崩れ落ちた三平。
刀を垂らしたまま、由比造がゆっくりと近付いて行く。
急いで腰で下がろうとしたが、何かが背中を押し返してくる。はっとして振り返れば、背後は塀であった。跳び退ったのが裏目に出、自ら死地に入ってしまったのだ。弾かれた刀はといえば、随分と向こうに転がっている。
逃れようがない。
由比造は三平の傍でぴたりを歩みを停めると、諸手で上段に振りかぶり
「父上がお待ちのことだろう。早く行ってやるがいい」
これまでか、三平は思った。
ちらと視線を走らせたその先、由比造の向こうで貫一が冷笑を浮かべている。
望み叶わず、彼等に一太刀たりとも浴びせることはできなかった。
「……無念」
同じ刻限。
小売横丁のあたりではちょっとした騒ぎが起きていた。
「馬鹿言うない! 今からここは神域だぜ。いかにお武家だろうが国主様だろうが、通す訳にゃいかねぇなぁ。それが道場町社祭りの慣わしでぇ。向こう側へ行きたきゃ、回り道しな!」
「何だと、この町人風情が! 我らは武司であるぞ! 無礼は許さん!」
一党を率いた武司と半纏姿の若い町人が、互いの唾がかからんばかりの距離で睨み合っている。
武司達は一様に濃い武家衣装で身を固めているのだが、暗さのため色はよくわからない。手に手に刀を携えているのが、どうにも物騒であった。
若者も、孤軍ではない。
武司達よりもさらに多くの町人が、ぐるりと取り囲んでいる。皆、折角の祭りに突如として踏み込んできた闖入者の一団に敵意の視線をぶつけていた。
無理もない。
神輿練りが通る路、即ち神域は不浄を忌み嫌うため、町人達は夜明け前から丹誠込めて掃き清める。その後、神輿練りが終わるまでは誰一人足を踏み入れる者のないよう、皆で気を付けてきたのだ。そういう苦労を知らない余所者に文句を言われたとあっては、腹の虫が治まらないであろう。
町人達の怒りを一身に背負った若者は、怖じるどころか益々声を張り上げ
「はっ! どこの馬の骨ともわからねぇ田舎武司が、居丈高に咆えるたぁ笑わせるねぇ。名も名乗れない腰抜けが、武司を気取ってんじゃねぇやい。――なぁ、みんな!」
どっと哄笑が湧く。
大勢から嘲られ、武司は怒りに顔を歪めた。
侮辱に我慢ならなくなったのか、ずいと一歩踏み出し
「腰抜けだと!? 言ったな、下衆どもが! 我々は信近州国主、沼辺善斎様お抱えである……」
とまで名乗りを上げてから「あっ」という顔をした。
憤激のあまり、つい口をついて出てしまったらしい。
「何ぃ、信近州だと!?」
「沼辺って、あの沼辺かい! 買い占めなんかしやがったところじゃないか!」
次々と町人達から声が上がった。
口が裂けても名乗るべきではなかったろう。
信近州沼辺氏といえば今や、近隣国府の町人達から憎悪の目をもって見られている。袋叩きにして川に放り込んだところで、誰もそれを悪いとは思うまい。
「おい、お前ら! いい加減にしねぇか! いつまでこんな真似を続ける気だ!?」
「値を釣り上げて一儲けしようって企みでしょう? そうはいかないわよ!」
罵倒するに飽きたらず、ぐいぐい詰め寄っていく町人達。
揉み合いが始まった。
取り囲まれた先頭の武司は衣装を引っ張られたり小突かれたりしている。
思わぬ反撃に、少しの間というものたじろいだ様子を見せていたが
「ええい、下がれと言うのがわからんのか、町人ども! これ以上の狼藉は――ぐわっ!」
怒鳴りかけたところで、横面に鉄拳をもらっていた。
「喧しい! お前らのせいでみんなが困ってんじゃい!」
もはや制止も何もあったものではない。
祭りはあっという間に乱闘の場と化した。
小売横丁ほか、この辺りの町人達は気が荒い。喧嘩ともなれば、相手が武司であろうと白刃を携えていようと、一切容赦はなかった。
「武司を愚弄すると許しおかぬぞ! 手向かう者は斬り捨ててしまえ!」
地面に引き摺り倒された武司の男が叫ぶ。
斬っていい、とは穏やかでないが、町人達は武司一人に対して二人、三人がかりである。斬り捨てるどころか、逆に足腰立たなくなるまで叩きのめされる者が続出し始めた。
そういう騒ぎの最中、ふらりとやってきた人影がある。
「……何だ何だ? 横丁神域神輿練りにゃあ、ちと早いと思ったら、お武家さん達と大喧嘩かえ」
宗一郎である。
例によって桜音に呼び出され、今の今まで話し相手にさせられていたのであった。ようやく離してもらい、祭りを逃しちゃならんと急ぎ駆けつけてきたものの、何やら様子が面妖である。威勢のいい神輿練りの掛け声どころか、罵声が飛び交っているではないか。
案配はどうかと近寄って行けば、手前で顔馴染みの若者、彦助と亀八が数人の武司相手に大立ち回りを演じている。彦助は魚売り、亀八は大工である。
懐手をして呑気な調子で
「おい、彦さんに亀さん! 元気がいいねぇ」
「ああ、誰かと思えば先生ですか。それどころじゃありませんよ! こっちゃ刃物担いだ狂人と喧嘩してるんですぜ?」
「何かあったのかね? 今年の祭りで刃物担いだ踊りを披露する話なんざ聞いてないぜ?」
「たりめぇでさぁ! こいつらときたら」斬りかかって来た武司の頬に鉄拳をお見舞いしてやりつつ「よりによって、神域を土足で踏み渡ろうとしやがったんですぜ? 聞けば、信近州の連中だっていうじゃないですか。こっちゃもう、我慢がなりませんよ! ――このっ!」
彦助は叫びさま、頭突きを食らわしている。
手負い獅子のように荒れ狂う二人。巧みに白刃の下をくぐり抜けつつ拳をもって応戦している。むやみやたらと得物を手にしないあたり、喧嘩の流儀として粋を感じさせる。
が、相手が悪い。
武司達は剣術の鍛錬を重ね立ち合いに慣れているから、動きに無駄がないのである。そこへ行くと町人勢は身体を大振りし続けているために疲労が早い。幾許もしないうちに繰り出す拳が空を切るようになり、彦助などはよろめいたところを数名に取り囲まれてしまった。
どうも旗色が悪いと見た宗一郎、
「そこのお武家さん達! そのへんにしとくがいいよ!」
大きな声で呼びかけた。
武司達ははっと振り返り
「邪魔をするな。さもなくば、貴様もただではおかぬぞ」
「こいつは聞き捨てならんねぇ。祭りの邪魔したのはああた達の方だろう? それに、町人相手に人斬り包丁を持ち出すたぁ感心しないな。――悪いけど、締めの神盛囃子までお休みしていていただくよ」
瞬間、宗一郎の姿が闇にスイと揺らめいた。
と思う間もなく、彦助と亀八を押し包んでいた武司が五人ばかり宙を舞っている。
地面や塀に叩き付けられた彼等の短い悲鳴が轟いた時にはもう、宗一郎は何食わぬ顔でその場に突っ立っていた。腰間の一刀は鞘に納まったままである。
「……やれやれ。どいつもこいつも腰は浮いてるし、構えがなってないよ、構えが。それじゃあ、豆腐の一丁も斬れないぜ」
にやにやしている宗一郎。
「貴様っ!」
と、いきなり背後から斬りかかった武司がいる。
しかし宗一郎は振り向きもせず、刀の鞘先をぐいと上げて後ろに突き出した。
鞘先はまるで狙ったように武司の顎を下から一撃、その男は仰け反るようにして伸びてしまった。
「おお、さすがは斉藤先生だ! こちとら、負けてらんねぇ!」
強力な助っ人の登場に、勢いを得た町人達。
もうひと暴れしようと踵を返したのだが――見ている間に信近州の武司達が一人、また一人と宗一郎によって倒されていき、地べたに転がってあがいている。彼が繰り出す撃ち込みはほとんど神速といってよく、その一撃を受け止め得る者はなかった。
例の武司の頭は突然の乱入者を見て大いに慌て
「な、何をしている! 相手は一人ではないか! 押し包んで――がっ!」
「あんたも一緒に寝てな! 斉藤先生にゃ手出しはさせないよ!」
叫ぼうとしたものの、何人もの婦人達が寄って集って殴る蹴るに及んだからたまらない。挙げ句、橋の上から川に放り込まれていた。
気が付けば、信近州の武司団は一人残らず打ち倒されている。
最後の一人を川の流れに蹴落としておいてから、宗一郎はぱんと手を打ち
「さて、と。――おうい、お武家どもはみんな寝ちまったよ! 早いとこ、神輿を準備しな! 神の刻が過ぎてしまうぞ」
神輿練りがよく見える通りの一番いい位置を陣取った。
たった今大勢の武司達を打ち倒したことすら忘れたような顔をしている。
「なんて先生だ……。ちょっと目ぇ離した隙にお武家をみんな片付けちまった」
すっかり呆気に取られている彦助と亀八。
が、一方では――
「まあ! 斉藤先生、何てお強いのかしら!」
「粋でいい男だものねぇ。うちの亭主とは大違いさ」
老若を問わず婦人達が宗一郎を取り囲み、しきりと黄色い歓声を上げているのであった。
三平目掛けて白刃を振り下ろした由比造。
が、その刹那――彼は目の前にはらりと舞う桃色の花弁を見た。
あっ、と思う間もない。
「……!?」
両手に痺れるような衝撃が走り、同時にあばら骨がことごとく内側へとめり込むような苦痛に襲われた。
呼吸が止まり、目の前がかすんでいく。
「あ……う……」
短くうめき声を発した後、由比造はその場にどさりと崩れた。
ほどなく、鍔元からへし折られて虚空へ跳ね飛んでいた刀身が真っ直ぐに落ちてきて、すれすれで地面に突き立った。
「え……?」
突然何が起きたのかわからず、呆然としている三平。
はっと顔を上げると、由比造と自分の間に割って入った者がいる。
すぐ傍で、闇になびいている鮮やかな桃色の化粧布。
その化粧布に巻かれた長い後ろ髪、透ける様な白い背中。そして真一文字に伸ばされた、これまた露わな白い腕の先で、傷一つない美しい刀身が青い輝きを放っている。
女性、それも若い娘であった。
頭の中がぼんやりとしていた三平は、それが誰であるのか一瞬わからなかったが
「――神撃無想流、翔天撃」
呟いた声で、娘の正体を知ることになる。
「ひ、姫乃さん!?」
驚きの余り思わず声を上げると、姫乃はぐりっと首だけで振り返り
「一人で仇を討とうだなんて、無茶もいいところだってお父様が言いませんでしたか? 傷が癒えたら足腰立たなくなるまでお父様に稽古をつけてもらいますからね?」
冗談めかしく言ったが、いつもの弾むような調子の声ではない。低い。
しかも彼女の相好からは――まるで人が変わったように、表情というものが消え失せている。大きくぱっちりと見開かれていた瞳は切れ長のそれになり、温和な微笑を絶やさなかった口元は小さく、そして険しく結ばれている。
あまりの豹変振りに、三平は声を失った。
これがあの姫乃だというのか。
「……」
呆然としている彼から視線を外すと、前を向きつつゆっくり立ち上がった姫乃。
腰から長く垂らされている帯が揺れて、そっと三平の頬を撫でた。
突然の闖入者に一撃で仲間を打ち倒された貫一は驚いた表情を隠さなかったが、すぐに落ち着き払った相好に戻り
「……貴様、あの道場の小娘か。どこから忍び込んできた?」
「これだけ広いのに無人のお屋敷ですもの。どこからだって入れるでしょう?」
「はっ、随分と勝ち気な小娘だな。自分が何をしているかわかっているのか?」
「小娘呼ばわりだなんて、ひどく失礼な方ですね」
かちっ、と鍔を鳴らした姫乃。
「お父上に続けて三平さんをも密殺しようとなさった所業、断じて許せません。神撃無想流流下、斉藤姫乃がお相手仕りますからそのおつもりで」
宣したが、そのくせ剣はだらりと下げられたままである。
「ほざけ。三ノ輪を打ち倒したのは褒めてやるが、如何せん不意討ちに過ぎぬ。そういう手癖の悪い娘は」
ぱん、と手を打った。
すると、騒々しい足音と共に屋敷のあちこちから人数が現れた。皆、庭先の闖入者を目にするなりさあっと抜きつれ、貫一を守るようにその左右に分かれて立ちはだかった。
姫乃がそろりと目で数えると、どうやら六人。彼女一人を相手に、加勢としては多いかもしれない。
たちまち数を得た貫一。口の端を歪める様にして笑いを浮かべている。
「お前は殺さぬ。せいぜい動けなくしてから慰んでやるわ。そのあと闇娼家に売り飛ば――」
喋っている途中で、彼は異変に気付いた。
視線を逸らしたその間に、そこにいた筈の姫乃の姿が掻き消えている。
あとには、傷ついて塀にもたれかかっている三平しかいない。
「おいっ! 小娘が――」
加勢の一人が叫んだ途端である。
誰もが、鮮やかに揺らめく桃色の残像と、真横に一閃する青白い光を見ていた。
光は瞬く間に三人をなぎ払い、跳ね飛ばされた者達は激しく雨戸を叩き折り、勢い余って座敷の奥まで転がっていく。喧騒はすぐに静まったが、起き上がって斬りかかってくる者などない。
「あ……」
目にも止まらぬ早業に、魂を抜かれたように突っ立っている貫一、そして残っている加勢の三人。
見えなかった、どころの騒ぎではない。
一振りで、大の男が三人も吹っ飛ばされてしまったのだ。
「……闇娼家がどうかしまして? 私、そんな汚らわしい場所に興味はありませんの」
と、あらぬ方向から声がした。
いつの間に動いたのか、塀際とは逆の屋敷側に姫乃は立っている。
身体を斜に構えて刀を担ぎ、挑みかかるような視線を向けてきているのであった。
「ちっ! 奇術を使うか!」
加勢の一人が上段に振りかぶるなり地を蹴った。
姫乃の余裕に付け込み、猛然と間合いを詰めにかかったのだが――三歩目を踏み出したところで彼はふらっとよろめき、そのまま膝から崩れ落ちてしまった。投げ出された刀が踏み石に当たってからりと音を立てた。
が、その音より早く、姫乃は一足飛びに男達の懐に踏み込んでいる。
「奇術なんかじゃありませんわ。これが――」
刀を右脇にひきつけるや否や左手の鞘で弧を描いて一人の横面を撃ち、そのまま流れるような動きで固めておいた右手の刀身に被せた。
挙動はそこで完結していない。
納めたとも思えない素早さで、今度はそこから鞘先を一気に突き上げ、もう一人の顎を下から撃ち抜いていく。鍔で押し上げられた鞘が、十分な威力を伴って男の喉元へ殺到したからたまらない。
「……神撃夢想流なんですもの」
「がっ――」
男が仰け反るようにして倒れかけた時にはもう――貫一の首筋で白刃が光っている。
刀を逆さまに振り上げた状態のまま鯉口を切り、ぐいと彼へ押し当てたのである。
あたかも舞を舞うように華麗で、水の流れるがごとく澱みない動きといっていい。
抵抗する間も与えられることなく喉元に刃物を突きつけられた貫一、あごを上げて苦しげに顔を歪め
「神撃、無想流、だと……?」
呻いた。
微動でもすれば首が切れるという恐怖が滲み出ている。彼の背後には庭木が植わっており、下がることもままならない。
ぴたりと挙動を停めた姫乃はその細く美しい瞳を光らせ
「初耳でしょう? 国主様の命によって流祖一族の者のほか皆伝を禁じられた流派なんですもの。――なぜなのか、おわかりになりまして?」
「そ、そんなこと、俺が知るものか」
「ならば教えて差し上げます。神撃無想流は巷間に溢れ返っている型通りの竹刀剣術を外れた異型の剣術。あらゆる形を捨てたその先に目指すのは、迅速に相手を制することだけです。それだけに並みの剣術では神撃無想流に敵すべくもない」
「非力な小娘が……武司に向かって剣を語るか……」
とまで言い掛けたところで、姫乃の両腕にさらに力がかかる。
「――ああ、言い忘れてましたわ。神撃無想流は相手の隙を迅速に見極め、的確に撃つ剣。腕力だけに頼るようなその辺りの棒振り剣術とは違いますの。ですから、男も女もありません。げんにこうして、あなたは私に制されているでしょう?」
「ぐっ……」
「観念なさいます? 大人しくなされば、これ以上撃ち込むことはいたしませんわ」
「くっ! こっ、この、この――」
苦し紛れながらも、貫一の右手が柄にかけられようとした。
それを姫乃は見逃さない。
くすりと小さく笑って
「……でしょうね」
すっと左手で柄頭を押し止めつつ、そこを支えに前のめりに体重をかけた姫乃。
当然、貫一は抜けない。
焦っている――厳密には、焦りかけた――彼の眉間は、次の瞬間粉砕していた。
空中でくるりと回すようにして刀の上下を入れ替えた姫乃が、自分の刀の柄頭で貫一の眉間を突いたのである。
「あっ!」
思わず叫んだものの、大して痛烈な打撃ではない。
が、姫乃の狙いは別にある。
顔面を撃ってひるませつつその反動を駆って後ろへ跳び退った。片膝をついて着地すると、右肩に担ぐように握っていた刀を右上から左下へ大振りに流し、そのまま腰間に戻した。
右手は依然、柄にかかったままである。
素早く居合いの構えをとった姫乃。
彼女の体勢は瞬時に、ごく自然に整えられていた。
「痛てぇ! この小娘が、舐めやがって――」
眉間の痛みをこらえ、やっとのことで目を開けた貫一。
しかし、その彼の目に映ったのは――ぴかりと眩く一閃した姫乃の手元であった。
あとのことはわからない。
直後、生胴がへし曲がらんばかりに抜刀の一撃を叩き込まれ、気絶してしまっていたからである。貫一は庭土の上に仰向けに倒れ、ぴくりとも動かない。白目を剥いていた。
「……神撃夢想流蒼閃撃、明。ま、言ってみればただの居合術ですけど」
抜き放ったまま刀身を宙に擬していた姫乃。
やがてゆっくりと立ち上がり、すらりと鞘に納めた。
「……」
振り返った。
目線の先に三平がいる。
傷口がよほど痛むのか、彼は肩で大きく息をしていたが、姫乃が近寄ってきたことに気付くと
「……斬ったんですか?」
短く訊いてきた。
姫乃は足を停め、刀を途中まで抜いて三平に示し
「この一文字桃花、刃入れしてませんの。これで斬れると思いまして?」
「……!」
目を大きく見開いている三平。
刃入れもされていない鉄の棒同然の刀で、ああも神速の抜き打ちを繰り出していたのだ。驚かずにはいられないというものである。
「神撃無想流の剣は殺人剣じゃありません。人一人殺すくらい、手間を要することもないでしょう? だから、殺すよりも制するほうがよほど理に適ってますわ。殺さなくてもこうして」倒れている連中を指し「止めることができるのですから。お父様が長い年月をかけて悟達された、剣というものの極意です」
三平は「はあっ」と溜息を一つ漏らすと、がっくりうな垂れ
「俺、まだまだでした。傷が癒えたら、父上殿に稽古をつけていただくことにします……」
小さな声で言った。
姫乃の圧倒的な強さに、衝撃を受けたらしい。
「……そうですね。お父様、神撃夢想流は皆伝しませんけど、みっちり稽古をつけてもらえば少なくとも今の三平さんよりは強くなれるかしら?」
くすくす笑っている。
そんな彼女の相好にはなおも、さっきまでの鋭さが残っている。
「――おい、姫乃! 今、帰ったぞ」
「あらお父様、お帰りなさいませ。今日は早かったのですね」
「おう、こう府内がお平らとあっちゃ、大してすることも……」
履き物を脱いでからつと目を上げた宗一郎は
「……姫乃? お前、何だその格好は!」
顔中で驚いている。
武家衣装の両肩を激しく落とし、白い肩から胸元がすっかり露わになっているではないか。
しかも、背で結ぶべき帯の目が胸下にあり、どうやって工夫したのか結び目が大きな花を咲かせている。
姫乃はにこにこして
「どうです、お父様? 両袈裟落としと繚乱結びっていって、府内で流行りなんですって。この前国府役所にあがった時、桜音様がわざわざ教えてくださいましたの。似合うかしら?」
「……」
式台の上でがっくりしている宗一郎。
まさか、桜音が自ら姫乃に教えるとは思わなかった。桜音はともかく、自分の娘にそういう恰好をされると、言葉に表すことのできない戸惑いと虚しさが込み上げてくる。
父親の気持ちなど知らない彼女は嬉しそうにくるっと回って見せてから
「ちょっとはだけすぎのような気もしますけど、夏の暑さにはもってこいの着方ですわ。皇都から広まったそうですけど、皇都というところはさすがですね、お父様。いつか、ゆっくり行ってみたいと思いますの」
皇都に行かせたが最後、すっかり裸になって帰ってくるのではないかと宗一郎は思った。
年頃の娘達の考えることなど、つくづくわからない。
嗜める気力を失った彼は、ふらふらと廊下を歩きつつ
「ひ、姫乃。ちょっと座敷へ来てくれ。この前の一件、あらかた落着したようだぜ」
「まあ! お茶を煎れてからすぐに参ります」
――姫乃が煎れた冷茶を飲みつつ、宗一郎は役所で仕入れてきた事の次第を話して聞かせた。
多事に見舞われた祭りの日から、もう二十日になろうとしている。
あの夜、三平を誘殺しようと謀った朝倉貫一と三ノ輪由比造、それに手の者数名は国府見回役の捕吏によって取り押さえられた。小売横丁では、宗一郎に叩きのめされた武司どもが町人達の手によってやはり捕吏に突き出されている。
金で雇われていた流れ者の朝倉と三ノ輪はともかく、一味の中に歴とした沼辺氏お抱えの者が混じっていたことから事を報らされた信近州国府見回役所は仰天、慌てて人が飛んでくる始末であった。やがて朝倉と三ノ輪、それに加わった者達は一繋ぎで国許へ送られた。
調べが始まると、すっかり観念した二人は罪が重くなることを恐れたのか、洗いざらい白状する。
ここに至って剣術指南役田中一平密殺の一件が明らかになり、物産商加納屋惣兵衛、それに国府物産流取締役所筆頭大黒大介の名前が挙がった。国主に次ぐ重役が事件の黒幕だったことを知って、見回役所取調役は呆然とした。古今、そういう講釈のような話があったものだろうか。
当然大黒大介と加納屋が呼ばれたが、二人は頑なに首を振り、互いに「顔も知らぬ」と言ってのけた。
国府見回役所としては相手が相手だけに、それ以上追及の仕様がない。
が、この世は「逃げ得」ということが許されないようにできているらしい。
それより少し前、東央州国主国島桜音が近隣の国主と連署で出した親書が皇陽殿にいる奉帝の手に届き、一驚した奉帝は下僚に命じて信近州の内情について調べさせたのである。奉帝という存在は各国主に対し「主」という立場にある。沼辺氏としては、調べに応ぜざるを得ない。
殿使官――奉帝の使者――からの呼び出しを受けた加納屋惣兵衛はまたも「取れ高に不足があったからやむを得なかった」などとのらりくらり言い訳に終始したが、これを怪しんだ殿使官は府内の商人達からも詳しく話を聴いた。すると、皆一斉に加納屋の非違を申し立てたからたまらない。加納屋惣兵衛はたちまち罪に問われ獄に投ぜられることになったが、獄の用意は必要なくなった。――もはやこれまでと悟った惣兵衛が首を括り、自ら命を絶ってしまったからである。
殿使官を通じて奉帝から直々に命があり、加納屋に独占されていた専売手形は元通り府内商人達――商人寄合――の手に戻った。程なく物産流留は解かれ、四隣の国府を巻き込んだ物産騒動にようやく終止符が打たれた。解決へのきっかけをつくった元の元は、宗一郎といっていいかも知れない。
あとは、大黒大介。
国主沼辺善宗、それに殿使官という顔ぶれを前にしても、彼は頑として自分の悪行を認めなかった。
が、朝倉貫一や三ノ輪由比造はじめ、大黒の手にあった者達はことごとく彼が黒幕であったと白状している。そしてまた、沼辺善宗は大黒大介が「田中一平が不規を企てた」と報じた一件を持ち出し
「そのほうの申し立てを鵜呑みにした儂にも非があるが、後の調べによっても田中一平が謀反を企んでいた形跡はどこにもないではないか。田中を討った二人も、そのほうが申したような不規など実はなかったと言っておる。――大黒、儂を欺いたのであろう? 異があるなら申してみよ」
と、静かな怒りと共に執拗に迫った。謀られたのがよほど腹に据えかねたらしい。
国主の勘気をこうむった以上もはや進退窮まったと悟ったのか、大黒は俄かに有態を述べ始める。
信近州でも名門の家系に生まれ育った彼は、実力をもって国府物産流取締役所筆頭、かつ国主を補佐する頭老の座を手中に収めるが、野心に燃える彼の心は満たされなかった。州国府よりも上位にある皇都皇陽殿役府――奉帝の傍にあって、全州府皇領を統括する役所――への登用を望んだものの、彼という人となりを危ぶんだ皇陽殿役府は、席を与えることを潔しとしなかった。
失意の底に沈んだ大黒大介だったが、やがて登試が上手くいかないとあれば贈与によって事を動かそうと考えるようになる。そこへつけ込んできたのが加納屋惣兵衛であった。
加納屋惣兵衛は巨利を博すべく専売手形の独占を狙い、大黒に金品をつかませる。
多額の金を必要としていた大黒にとっては渡りに船である。すぐさま商人寄合に与えていた専売手形を一方的に取り上げ、加納屋に渡してしまう。
そして、その悪事に気付いた国主付剣術指南役田中一平を金で雇った朝倉貫一と三ノ輪由比造に討たせ、国主沼辺善宗には「謀反の疑いがあった」と偽りを語って信じ込ませた。
覚悟を決めた大黒大介は善宗の慈悲にすがり「自裁の御沙汰を」と訴えたが、まんまと欺かれた善宗にその気はなかったらしい。近く斬刑に処されることになったという。武司としての面目を取り上げられた上での処罰、といっていい。
「それで、国主沼辺様はどのようになるのでしょう? 当然、お咎めがありまして?」
「ああ、下僚の悪事を見落として甚大な騒ぎを引き起こしたかどで、奉帝からきつくお叱りを受けたってさ。だけじゃなくて、善宗さんご本人は隠位させられるみたいだぜ」
つまり、国主の座を退くよう奉帝から命じられたのである。
確かに一連の騒動はそれで落着したと見られるかも知れない。
が、姫乃にはまだ気がかりがあった。
「お父様、三平さんとご家族の件については何か聞いていないのですか? あれからもう、十日以上になるというのに、まだ何も便りがありませなんだ……」
祭りの日から数日の後、彼はまだ癒えぬ傷口を庇いながら信近州へと戻っていたのである。
大黒大介と加納屋の一件に深く関わっているということで、とりあえず帰府するように国府見回役所から命じられたのだ。
心配そうな姫乃に、三平は
「大黒の屋敷に斬り込んだ事を除けば、私は何も悪事を働いてなどいません。どうか、そのように心配なさらないでください。お上から沙汰が下れば、すぐにお知らせいたしますから」
そう告げて旅立って行った。
ところが、彼からは未だに便りがない。
もしかすると、思っていた以上に重い沙汰を下されたのではないかと、姫乃は気が気でなかった。
そのことを言うと、宗一郎は
「ああ、あいつの事かえ。――そんなに気になるか、姫乃?」
ほとんど他人事のような口振りである。だけでなく、面つきまでも。
これには姫乃も腹が立ち
「お父様! 三平さんが何も悪くないのはご存知じゃありませんか! なのに、お国許へ呼び返されてしまったのですよ? もしもお咎めなどあったらどうします!? もう少し、心配してあげてもよろしいではありませんか! お父様はそのような無慈悲な人ではないと思っておりましたが」
身を乗り出し、食って掛かった。
が、宗一郎はまあまあ、というように
「おいおい、あんまり前のめりになると、胸がすっかり見えちまうぜ? 田中さん、きっとそういうはしたない娘のところには金輪際寄り付かねぇかも知らんぞ?」
にやにやしている。
はぐらかされたような言い方がますます気に入らない姫乃。
「私の胸の話をしているのではありません! もっと、ちゃんと聞いてください!」
「ああ、わかったわかった。――だとさ、田中さん! 色気付いたうちの娘に何か言うことはあるかね?」
廊下に背を向けていた姫乃は気付かなかったのだが――はっとして振り返り見れば、いつの間にやってきたのか、そこには三平の姿があった。精悍な相貌に微笑を湛え、静かに佇んでいる。
「三平さん!? どうなさったのです!? というか、いつ、こちらに?」
驚きつつ声をかけると、彼は姫乃の隣に品良く着座して
「ええ、ついさっきです。父上殿が仰る通り、確かに姫乃さんの恰好、ちょっと目を向けられませんね」
苦笑した。
指摘された姫乃は、両腕で胸元を隠すようにして俯いている。
が、三平は宗一郎にも
「しかし、父上殿も人が悪いではありませんか。てっきり、先に帰って姫乃さんに私の戻りを伝えていただけているものと思っていましたのに。これでは姫乃さんにあんまりです」
苦情を述べた。
それを聞いた姫乃は顔を上げて得たり賢しとばかりに
「でしょう? 私が心底心配しているというのに、お父様ったら酷いんですよ。役所で会っていたのなら、そうと教えてくださればいいものを」
「だから、今こうして呼んだだろう? その後の顛末は俺の口からじゃなく、田中さんの口から聞いた方がいいじゃねぇか。――と、いう訳だ。田中さん、話してやってくれ」
「心得ました」
――過日、信近州へ呼び戻された三平。
連日国府見回役所に呼ばれたものの、亡き父の威光はここにも生きていた。
役人達が代わる代わるやってきては
「今回の一件、誠に申し訳なかった。大黒の目が光っているから、どうすることもできなかった」
と、詫びを入れていく。
どの役人も、田中一平上意討ちの件はどうやら大黒の差し金であると気付いていたが、難が降りかかってくることを恐れ、見て見ぬ振りをしていたという。眼前の悪を看過した彼等の有り様に腹が立ったものの、今さらどうにかなるものではないと思い、三平は何も言わなかった。
彼に対する沙汰は二度あった。
一度は、大黒大介屋敷に斬り込んだ件である。
「恐れ多くも頭老の屋敷に忍び込み、狼藉に及んだその罪、甚だ重し」
諸事訴願裁役は言う。
しかし、と続けて
「咎なくも討たれた父親の仇を晴らさんとしたその心積もりは承知するに足り、また命を賭して親子の情を守らんとした意地、殊勝である。よって、きつく叱りおくに留める」
同じ過ちを繰り返すな、という叱責程度のものといっていい。
即ち、三平の罪は極めて軽くされていた。
いま一度の沙汰、それは田中家を武司としての地位に復する、というものであった。
領外追放という処断に伴い、田中家は代々お抱えの武家、という地位を削られてしまっていた。それによって国主からの下禄も停止されるため、三平はじめ遺族は食うや食わずの暮らしを余儀なくされたのだ。
それを、元通りにするという。
当主であった一平が亡いため、代わりに長男三平を家主とし、剣術指南役控という役が与えられることになった。これにより正式に禄が下されるため、家族も何とか暮らしが立つ。
聞くところによれば、隠位間近の沼辺善宗が特に取り計らったものらしい。
彼は自分の不明により田中一平を死なせてしまったことを、心の底から後悔しているようであった。
「まあっ! 良かったですね、本当に!」
姫乃が手放しで喜ぶと、三平は畳に手をついてぐっと頭を下げ
「本当に、ありがとうございます。何もかも、父上殿と姫乃さんのお陰です」
丁重に礼を述べた。
宗一郎は何も言わなかったが、その表情はいかにも嬉しげであった。
でも、と姫乃はふと思った。
役取りになったのなら、国許で務めねばならないのではないか。国主付の武司とはふつう、そういうものである。
「そうすると三平さん、すぐに信近州に戻られるんですか?」
「いいえ」
問いかけに、かぶりを振った三平。
「私はまだ、剣術指南役ではありません。あくまでも剣術指南役控、という身ですから。今後は一層の鍛錬を積んで剣の道を極め、正真正銘の剣術指南役にならなければなりません」
と言ってから、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「それで今日、剣術修行という名目をもって東央州へ来府した次第です。――もしもご迷惑でなければ、どうか一門下生として、末席に加えていただきたいと存じまして」
「……だ、そうだぜ? どうする、姫乃?」
どういうつもりなのか、判断は任せるということらしい。
姫乃はちょっと笑って
「じゃあ、まずは毎日、道場のお掃除と湯場の釜焚きからかしらね? そのうちきっとお父様が稽古をつけてくださいますから」
彼女の腕前を直に見ている三平は
「稽古をつけていただけるなら、私は父上殿でも姫乃さんでも、どちらでも良いのですが」
暗に、姫乃に相手をしてくれと言ったのだが、
「私なら駄目ですよ? 三平さんには見られちゃいましたけど私、剣を手に取るとついつい人が変わったようになっちゃうんです。だから、なかなかお嫁にいけないんですよねぇ。あはは」
「……」
返す言葉もない三平であった。
<巷舞華剣録 了>
註)この作品のタイトルは「こうぶかけんろく」と読みます。