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前編

 誰もが「あっ」と思った次の瞬間、木刀が宙高く舞っていた。


「あ……え?」


 得物を弾き飛ばされた若者は構えた姿勢のまま呆然としている。


「感謝してもらおう。峰でなければたった今、お前は木刀ごと真っ二つになっていた」


 低い声でそう告げたのは、若者の二歩ばかり前で地に片膝をついている男。

 着ている物が武家装束に違いはないが、上下共によれよれで至るところに破れや綻びが見える。髪も、何日も手入れしていないかのように乱れぼさぼさであった。後ろで束ねているはずが何本もほつれ、額やこめかみのあたりからだらしなく垂れている。

 その、長く伸びた前髪の下で、切れそうに細い眼差しが鋭く光っている。

 まるで凶暴な獣のそれにも似た視線を浴びた若者は、たちまち顔を青ざめさせた。


「……」


 身体が硬直したようにその場から動けずにいる。

 男は眼球だけを右から左へゆっくりと動かして


「これで五人目。次はどいつだ? 斬られたい奴からかかって来い」


 二人を取り囲むようにして、同じような武家の身なりをした若者達が十人ばかりいる。が、そのうち数人はすでに肩や腕を押さえてうずくまっており、残っている者はそれぞれ木刀を構えているものの、すっかり腰が引けていた。これから喧嘩をしようという人間の姿勢ではない。


「……喧嘩を売っておきながら、自分から俺の相手になろうという奴は誰もいないのか? なら、こっちからいくぞ。受け損なえば死ぬと思え」


 右肩を沈めた居合いの姿勢を保ちつつ、すっと腰を浮かせた男。

 もう五人ばかり打ち倒しているというのに、誰一人その抜く手を見た者はないのだ。構えといい業といい、かなり剣の修行を積んだ人間のそれであった。


「……ひっ!」


 若者は後退りしようとして地面に尻餅をついた。

 往来に、殺気混じりの冷たく硬い空気が漂っていく。  

 男が本当に斬るつもりらしいということを、その場の誰もが察していた。逃げようにも、男の放つ殺気が一人一人の全身に見えない糸のように絡みつき、身動きひとつとることができない。


「――あら? 皆さん、こんな道の真ん中で何をなさって?」


 と、不意に男の背後から若い娘の声がした。

 その声で、若者達は呪縛から解き放たれたようにそちらを向き


「姫乃さん!」


 口々に娘の名を呼んだ。

 上から下まで隈なく均整の取れた身体を太股が露出するほど丈の短く袖のない女物武家衣装で包んでおり、長く伸びた髪を薄桃色の化粧布で束ね、背中に垂らしている。あごがきゅっとくびれた小顔には大きく活き活きとした目、そして小さく結ばれた唇。男なら誰もが振り返り見てしまうような美しい娘である。ほっそりとした両腕に抱えられた大きな笊に、どっさりと菜が積まれている。

 突然の闖入者に、男は冷酷な相好をやや不快そうに歪めてゆっくりと振り向き


「……邪魔をするな、小娘」


 短く言った。

 すると、姫乃といった娘はちょっと困ったような顔をして


「まあ。邪魔とは失礼じゃありません? 私、ただ通りかかっただけなのに。――それよりも」


 男の向こう側にいる若者達をぐるりと見回し


「見たところ、笹川道場の皆さんに酷いことをなさっているんじゃありません? それなりに腕の立つ方とお見受けしましたが、習い極めた剣技で人を傷つけるなんて、剣の道に悖る行いですわ。剣は人を活かすためにあるべきものです」


 口調こそおっとりとしているが、ぴしゃりと決め付けるように言う。


「何を言やがる、小娘。喧嘩を売ってきたのはこいつらの方だ。みすぼらしい身なりの俺を一目見るなり笑いやがって。恥を雪ぐために剣で白黒をつけているまでのこと。余計な詮索は止してもらおう」

「違いますよ、姫乃さん! 我々は詫びたのに、この男が譲らないんです! しかも、腰抜け武司だのなんだの、さんざんに罵ってきたんですよ! よりによって、噂に聞く国島の道場町も大したことないだなんて、暴言まで吐いたんです」


 男の言い分を聞いた若者の一人が叫んだ。

 武司とは武を司る者、という意味で、武門の家系――つまり武家――にある者を指す。武司は主と民のために日夜心身を鍛錬すべき立場にあり、恥を嫌い名誉を重んずる。その武司に向かって「腰抜け」などと浴びせるのは、相当な侮辱であるといっていい。


「……わかりました」


 姫乃は頷くと、品よく屈み込んで笊を地べたに置いた。そうして、傍らに転がっていた木刀を無造作につかんで立ち上がり


「笹川道場の皆さんのご無礼は私からもお詫びします。……ですが、国島道場町に暮らす方々を嘲るような言い草は許せません。その意味で無礼なのはあなたも一緒ですわ。剣で片を付けたいというのなら、私が一手お相手つかまつりましょう」


 構えた。

 といっても、両手でぶらりと木刀を握っているに過ぎない。

 それを見た男は片頬に侮蔑の笑みを浮かべ


「止せ、小娘。この町の誇りを汚されたとて、お前にどういう不利がある訳でもなかろう。悪い事は言わないから、大人しく帰れ。ここは俺と、この腰抜け武司共の問題だ」


 が、姫乃もまたにこと微笑を返し


「女相手に振るう剣はないとでも? 修行中の身にある若者を力任せに叩き伏せる剣はお持ちだというのに、おかしな事を仰るのですね」


 弱い者苛めしかできないのか、と言わんばかりの言い方である。

 これには男も怒りを露わにした。

 彼女の方へ向き直るとすっと右肩を落とし、手を刀の柄にやった。


「……もう一度だけ言っておいてやる。ふざけた真似は止せ、小娘。嫁にいけない身体になるぞ。大言したからには覚悟があるのだろうな?」

「あら、ご心配なく。私」


 俄かに、姫乃のぱっちりとした大きな瞳がスイと細くなる。


「――嫁にいくお相手がおりませんので」




「で、姫乃。何でその喧嘩に負けた男が、うちで飯を食ってるんだ?」


 着座するなり、嫌な顔をしている宗一郎。

 姫乃は両手で飯茶碗を差し出しながらにこにこして


「だってお父様、ここ数日飲まず食わずでお腹が空いていると言うものですから」

「いや、そりゃ誰でも腹くらい減るよ。……じゃなくって、何でわざわざうちの飯を食わせなくちゃならんのだ? しかもよりによって、お前との喧嘩に負けた男だぜ?」


 と、目の前で飯をかっ込むのに夢中になっていた男の箸がぴたりと止まり


「……負けた訳じゃない。抜けなかっただけだ」

「それを負けってんだ。要はお前、姫乃の気に呑まれたんだろう。負けじゃねぇか、負け。立派な負けだ。戦の場ならお前、ぶった斬られて死んでるぜ? ああ、だらしがねぇ」


 刹那、男の手が傍らの刀に伸びた。

 が、それよりも早く、宗一郎の手にした箸の先が男の鼻っ柱ぎりぎりに突きつけられている。機先を制された男は身動きもままならず、目だけを動かして宗一郎を睨むしかない。


「甘いなぁ。お前さん、身体中から殺気を垂れ流して歩いてるみたいなもんだぜ。自分を自分の殺気で包んでいる奴に限って、他人の気を読めないのさ。だからお前、姫乃に後ろを取られたんだ」


 一流を編み出した流祖だけに、宗一郎には一分の隙もない。

 やがて箸をひっこめると、何事もなかったように飯を食い始めた。


「……」


 男は不服そうに黙っている。

 ――数刻前。

 往来で笹川道場の若者達を片っ端から叩きのめしている最中、姫乃が不意に現れたことにこの男は気付かなかった。ばかりか、成り行きで立ち合ったものの、ぶらりと木刀を構えているだけの彼女相手に抜くことができない。そうして四半刻ほど睨み合っているうち、急にばったりと倒れてしまった。


「あら? どうかなさいましたか?」

「は、腹が……減って、目の前が……」


 数日というもの飲まず食わずで歩き詰めだったらしい。

 やむなく姫乃は若者達に頼み、男を屋敷――斉藤道場――へ連れ帰ってきたのである。湯を使わせ、それから飯を食わせてやっている。お陰で男は往来にいた時とは違いこざっぱりしていた。

 娘から一部始終を聞いた宗一郎は、そのことを論ってさんざん嫌味を言っている。

 姫乃は涼しい顔でぱりぱりといい音を立てて漬物をかじりながら


「あら、お父様。私、後ろを取ったつもりはありませんわ。ただ通りかかっただけですもの」

「だから言ってるのさ。剣術使いなら、それくらい気付けってんだよ。忍びの者ならお前、とうの昔にとっ捕まってるっての」


 自分の膳から汁椀を取り上げ、ずずっと啜った宗一郎。


「ああ、豆千の味噌は美味いなァ……」

「お父様、それは畑徳さんのお味噌ですわ。豆千のは買えませなんだ」

「何? 安い味噌だったのか。ううむ」


 父娘が他愛もない会話を始めたのを機に、男はまた飯を食い始めた。

 飯がなくなると、無言ですっと茶碗を突き出す。

 それが何度か繰り返されたとき、さすがに宗一郎が


「おいおい、うちだって朝晩の米塩に余裕がある訳じゃないんだぜ? ちっとは遠慮してもらわんと――」


 苦情を述べると、姫乃は飯を盛った茶碗を返しながら事も無げに


「あらお父様、心配要りませんわ。この方、どこへも行く当てがないそうですから、軒先は貸して差し上げるとして、明日から魚代のおじさまのお店ででも働いていただきましょう? そうすれば毎日、食膳にお魚が載せられそうですし」


 ぶっ、と米粒を噴き出した男。冗談じゃない、という顔をしている。

 が、宗一郎は構わず


「おお、毎日魚を食わしてもらえるってんなら、文句はねえ。それなら居候を許してやらなくもない。しっかり頼むぜ? 骨ばかり張った雑魚は勘弁だがよ」

「ちょ、ちょっと待て!」


 男は慌てて膳の上に箸と茶碗を置くと居住まいを正し


「俺は剣術使いで、これでも元は武家の生まれだ! 町人商人の真似事なんかできるか! 道場掃除くらいはしてやるが、物売りは勘弁してくれ!」


 よほど嫌だというのか、表情に必死さがある。


「あ? お前さん、武家育ちだったのか? 武司がなんだって流浪なんかしてやがる。手癖が悪くて勘当でもされたか? そういや、名前の一つも聞いてやしない」

「違う。好きで流浪の身になったんじゃない。事情があるんだ。――俺の名は田中三平。沼辺氏国府信近州にいた。家は代々武家、父親は国主付の剣術指南役だった」


 信近州というのは、この国島道場町から歩いて四日と離れた土地であり、沼辺氏という国主に治められている。山間に開かれた町ながら四方の物産が集まる位置にあることから商交が盛んな上、文武共に優れた人間が多い土地柄として知られている。その国主に対して剣術を教える役目を頂いていたというからには、田中三平なる青年の生家は相当な家柄であると思っていい。


「……で? そんなご立派な武家のせがれが、何で流浪したんだ? 肝心なのはそこなんだよ。ついでに、どうして商人を嫌うのかも、な」


 宗一郎が尋ねると、急に三平は畳半畳分跳び下がって土下座し


「それは、言えない。――ただ、商人の真似事と、家の事情を話すことだけは勘弁してくれ! この通りだ! そのほかのことなら、やれというなら道場掃除でも用心棒でも、何でもやる――」

「……」


 どうしましょう、という風に父親の顔を見た姫乃。

 が、宗一郎は何も言わず黙って飯を食い続けている。

 あまりにも必死な三平の姿に、彼は何かを察したらしい。

 三平は額を畳にこすりつけたまま、顔を上げようとしない。こうとなれば捨て身の利く男らしい。傲岸な態度ばかりを目にしていた姫乃は意外な気がした。

 しばらくして、宗一郎は箸を置くと湯飲み茶碗を取り上げ


「……朝は屋敷内の掃除、夕は風呂の釜焚き。一日でも怠けやがったら叩き出すぜ?」


 ぼそりと言った。

 あとは、知らんぷりで茶をすすっている。

 滞留を承諾する一言を聞いた男ははっと顔を上げて


「かたじけない。ご厚情、痛み入る」


 古風な物言いで礼を述べた。いつの間にやらあれほど強かった殺気が消え、満面に誠意を漲らせている。殺伐とした表情さえしなければ、存外引き締まった相貌を持ついい男ではないか。


(まあ、お父様ったら。いつもは近所の犬猫ですら屋敷内に入ってくるのを嫌がるのに)


 思ったが、姫乃は黙っていた。父親なりに考えがあるのだろうと思ったのである。

 こうして田中三平なるやや若い剣客は、その晩から斉藤道場に留まることになった。




 夕餉の膳を整えるため、近くの小売横丁へ買出しに出た姫乃。

 両脇に露店が並ぶ通りを、小脇に笊を抱えてぱたぱた歩いていると


「姫乃ちゃん、姫乃ちゃん!」


 背後から呼び止める声がした。

 振り返りみれば、おたねさんが手招きをしている。顔見知りの中年婦人で、日々農民から青物を仕入れて売ることを生業としている。


「どうしたの、おばさん。今日は菜は要らないのよ。お父様、今日の夕餉は魚がいいって――」

「ああ、違う違う。別の話」


 おたねさんは姫乃の手首をつかむと、そのまま物陰へ引っ張り込んだ。

 頭に巻いていた手ぬぐいを取り、辺りの様子を窺うように声を潜め


「あのね姫乃ちゃん、最近、道場町に妙な流浪の武司が来なかった?」

「来ましたよ? 三日前だったかしら? お腹を空かせて倒れてたから助けてあげたんです。今もうちの道場に居候してますけど。――それがどうかしましたか?」


 姫乃が事も無げに答えると、おたねさんは「やっぱり」といった顔をして


「いやね、一昨日あたりから見慣れない武司の一団が姿を見せていてね、しつこく訊き回っているのよ。二十歳を五つ六つ過ぎた年頃の、目つきが鋭い武司を見なかったか、って。こんな町人しか寄って来ない小売横丁をうろつく酔狂な武司なんかいるもんかいって言ってやったんだけどね、あたしゃ」


 てきぱきとしていて勝気なおたねさんは、相手が武司だろうと物怖じしない。

 その光景を想像した姫乃は思わずくすりと笑ったが、当のおたねさんは心配そうに


「笑い事じゃないよ、姫乃ちゃん。ありゃあ、追っ手じゃないだろうかねぇ。斉藤道場にいることが知れたら、連中に踏み込まれるかも知れないよ?」と言ってから、急に思い出したように「まあ、宗一郎さんの腕前ならあんな連中の五人や十人、束になったところで物の相手じゃないだろうけど……」


 心配しているのか安心しているのか、よくわからない。

 念のため聞き込みして回っているという武司達の人相、身なりを聞くと、姫乃はおたねさんに礼を言ってその場を後にした。


(一様に萌黄色の武家装束、拵えは焦げ茶の鞘と楕円鍔、か。確かに、国島領一帯にいるお抱え武司の恰好ではないわね……)


 国主直参である武司達の身なりというのは決まったもので、町人達は皆装束や刀の拵えから「あれは何州某様お抱え武司だ」と判断する。因みに、この東央州を治める国島氏直属武司団の衣装は上が薄空色、下が濃紺である。見た目に若々しく、町人達から評判が良かった。それが萌黄色であるということは、明らかに他国府から来た武司であることを意味している。

 国主が振り出す手形さえ携えていれば国府間での出入りは自由だから、町内を他国府の武司がのし歩いていたところで不都合はない。が、目立つだけの人数が入り込んでいるとすれば、話はどうも穏やかではなくなる。三平の来府と関係があるとすれば信近州沼辺氏お抱えの武司達ということになるが、姫乃にはそれを裏付けるような知識はない。

 ただ、諸々から察するに、萌黄色の連中は信近州の武司達で、彼等の捜し求めているという人物は三平と思って恐らく外れではあるまい。そんな気がした。


(三平さん、何か大変なことをしたのかしら? ひょっとしたら、お国で罪をはたらいて逐電してきたのかも。でも、そんな風には見えないし)


 その三平は今ごろ、斉藤屋敷の片隅で大汗をかきながら風呂釜を焚いているだろう。

 転がり込んできてからというもの、宗一郎から言いつけられた通り屋敷内の仕事を黙々とこなしている。それはいいとしても、相変わらず自分の素性について口にしようとしないのだ。

 一度、きちんと事情を説明してもらった方がいいのかも知れない。

 とつこうつ考えながら歩いていると、あちこちから声をかけられた。

 誰も彼も顔見知りの町人達だが、開口一番にされるのはやはり例の聞き回りの話である。不穏な連中が嗅ぎ回っているようだが道場町は大丈夫か、と心配をしてくれているらしい。道場町には斉藤宗一郎のそれを含め剣術道場が十幾つばかりあるのだが、門下生を総ざらいすればざっと千人にはなる。彼等の三食を賄うことによって小売横丁は潤い、かつ大勢の剣術屋によって治安が日々守られているという安心感が町人の一人ひとりにある。武の鍛錬に励む者達は、決して物盗りや狼藉をはたらかないからだ。

 彼等が道場町に暮らす武司や門下生達を気遣っているのには、そうした事情がある。

 声をかけられる度に「大丈夫よ」と返事をしつつも姫乃は、屋敷に三平がいるということはそれきり口外しなかった。おたねさんにはうっかり明かしてしまったものの、広めて回ってはどうもまずいような気がしたからだ。といって、おたねさんは勘がいいから、斉藤道場に流浪の武司が居付いているなどと不用意に漏らす心配はない。

 萌黄色の武家装束を着た武司がうろついていないかどうか気を付けつつ屋敷に戻ると、丁度宗一郎が出先から戻ってきたところであった。姫乃が手にした笊にある品を目にするなり


「お、姫乃。今日の夕餉は魚かえ? いいねぇ」


 宗一郎は魚が好きで、菜を余り好まない。


「今日は彦助さんが大きいのを選りすぐってくれました。早速煮付けにでもしようかと」


 炊ぎ場へ持って行こうとすると、宗一郎がふと思い出したように


「姫乃。飯の支度の前に、ちょいと話しておきたいことがある」

「はい……」


 二人は座敷へ上がり、向かい合って着座した。


「そういえばお父様、三平さんは?」

「さっき、汗水垂らして風呂焚いているのを見たぜ。うちに来てから文句の一つも言わずに働いているようだから、まあいいだろう。武司のせがれだから、すぐに音を上げるかと思ったんだがな」


 けらけらと笑っている。

 彼の言う通り、三平はここ三日ばかり黙々と屋敷内の仕事に精を出している。かと思うと、朝は夜明け前から起床して何百回と素振りをするのである。夜は夜で、夕餉の後にまた素振りを欠かさない。その精励ぶりを見た姫乃は、笹川道場の若者達が束になっても彼に敵わなかったのがわかるような気がした。打ち込み様が尋常ではない。強い筈である。


「いいことじゃありませんか。道場での立ち合いだけが剣の修行じゃないですから」

「違いねぇ。――ところで、だ」


 と、宗一郎は話題を改めて喋り始めた。

 聞くところによれば、沼辺氏国府信近州では近頃、容易ならぬ揉め事が起きているという。

 急に入り込んできた外府の一商人が物産の買占めを始め、品物が極端に回らなくなってしまった。ばかりか、今まで商人寄合に与えられていた物産売買のお墨付き――専売手形――が国主の命によりその商人の手に渡ったことから商人達が憤激、こぞって国府役所へ押しかける騒動となった。

 が、国府役所ではそのことあるを期していたのか人数を張って待ち構えていて、商人達を一気呵成に追い散らしたらしい。執拗に食い下がった商人の何人かは召し捕られ、牢へ放り込まれたとも言われている。


「それじゃあ、お父様……」

「ああ、大岡さんに聞いたから間違いない。恐らくあいつの家は領内のごたごたに巻き込まれちまって、それでこっちへ逃れてきたんだ。先日来信近州到来物の物産が滞っているって風の便りに聞いていたから、何かあったなとは思ってたんだよ。だからこの前、豆千の味噌が買えなかったってのはそれさ。こっちにゃ一切入ってきてねぇんだからな」


 国府役所に出入りを許されているだけあって、宗一郎は早耳である。

 彼は大岡さんなどと気安く呼んでいるが、その人物は国府内物産小売方取締役筆頭という途方もない役職の人間である。東央州を出入りする物産の流れから府下での町人達の商売に至るまで、不備や不当不正がないように日々取り締まる役所なのだが、それだけに他国府の動きにも十分詳しい。

 豆千は信近州で老舗の味噌倉で、宗一郎はその味噌を使った汁物を好んでいる。それすらすぐ口に入らなくなったというのだから、同州での騒ぎの大きさが知れるというものである。


「それでお父様、そのことと関係あるのですが――」


 と、姫乃は小売横丁で仕入れてきた萌黄色の武家装束を着た武司団について話して聞かせた。

 宗一郎は顎を撫でながらふむふむと聞いていたが


「ああ、そりゃ間違いねぇや。信近州のお武家様達だよ。田中さんを追ってるんだ。こいつはいよいよきな臭いな。あの野郎、田舎で何を仕出かしたことやら……」

「でも、どうして東央州に入れたのかしら? 手形がなければ止められるのに」

「そりゃあれだよ、恐らく親父さんの手形でも持ち出したんだろう。国府役所から手形差留状が回る前に門関を抜けたんだな。ご苦労なこって」


 何が面白いのか、仕方がなさそうに笑っている。

 姫乃は畳に片手をついて上体を乗り出し


「どうしましょう、お父様。このままではきっと、良くないことが起こりますわ」


 暗に、三平から事情を聞いては、という含みだったが、宗一郎は首を縦には振らなかった。


「まあ、今は待とうぜ。問いただしたところで、どうせ答えねぇさ。――それよか、信近州府内のごたごたと剣術指南役田中家のつながりを詳らかにした方が早そうだ。ちょいと話を仕入れてみるから、それまでは姫乃」

「はい」

「あの田中さんを屋敷の外へは出すなよ? 萌黄色のお武家達と顔でも合わせようものならお前、その場で斬り合いが始まっちまわぁ。道場なら好きなだけ貸してやるから、中で稽古してろって言っておきな。表で真剣振り回してたら勘付かれるからな」


 素直に頷いた姫乃。父の言う事はもっともだと思った。

 すると、背後の廊下を三平が丁度通りかかった。

 日課の素振りをするつもりらしく、愛刀を担いでいる。

 すかさず宗一郎が


「おい、田中さん!」


 呼び止めると、三平はつと足を停めて二人のいる座敷の方を見た。


「今日から道場を使っていい。だから、稽古は道場でやりな」

「え……よろしいのですか?」

「俺はそう言ってるんだぜ?」


 微かだが、嬉しそうな顔をした三平。

 余所者に道場を好きに使わせるという事は、半ば「信用している」と言っているのと同じ意味であるからだ。嬉しがらぬ筈がない。 

 



 日を置かずして、市中では宗一郎が言った通りの様相を呈し始めた。

 信近州を産とする品、例えば水菜をはじめとする青物、豆、蕎麦、橙柑といった物が出回らなくなり、残り少ない品物には驚くほどの値が付いたりした。東央州は海に近く魚介の類には困らないものの、畑や山の産物に乏しい。町人達の間で不満が高じない筈がなかった。

 国府内物産小売方取締役所の者は東奔西走して事態の収拾に努めたが、如何せん、不足物産の多くは信近州からの入りに頼るところが大きい。周辺国府のそれらを掻き集めても、府内の町人全ての口に入る分など到底まかないきれないのだ。東央州領は各国府の中でもとりわけ大きく、それだけ府内人口が多いということもある。


「――やだ! お味噌、もうなくなっちゃったんですか?」

「ごめんよ、姫乃ちゃん。もうずっと豆が入ってきてないんだよ。……斉藤先生、怒るかえ?」


 行きつけの物産屋「畑徳」の親父が申し訳なさそうに言った。宗一郎とは古い付き合いの人間で、彼の味噌汁好みをよく知っている。

 姫乃は人差し指で頭を掻き掻き


「真っ先に豆千さんのお味噌が買えなくなったから、畑徳さんももしかしたら、とは思ったんですよねぇ。もっと早めに買っておくんだったわ。……お父様には、吸い物で我慢してもらいますから」


 苦笑した。

 が、親父は笑わずに渋い顔で


「斉藤先生に我慢いただかなきゃならないのは味噌だけじゃないんだよ、姫乃ちゃん。豆が駄目だからね、河中橋の幸助さんも当分商売にならないってさ。……こうなりゃ何もかも、なんだわ」

「う……」


 固まっている姫乃。

 河中橋の幸助というのは豆腐売りの親父のことで、この豆腐もまた宗一郎の好物といっていい。

 畑徳の言う通り、信近州の物産流れ留めは宗一郎にとってつくづく良からぬ結果を招きつつある。脳裏に、苦情を言う彼の顔が浮かんできた。


「それにしても沼辺お抱えの武司の人達、何をやってるんだろうねぇ。お国元で物の値段が吊り上がってみんな困ってるっていうのに、相変わらずこの界隈で人捜しみたいだよ。いったい、どこの誰を捜しているんだか……」


 言いかけたところで、畑徳の親父は急に口をつぐんだ。

 その、萌黄色の武家衣装の武司が姿を現すなり、姫乃の背後で立ち止まったからである。あちこちを見回しつつ、やがて二人がいる方へと目線を向けた。

 姫乃は振り返らない。が、男の様子は気配でわかっている。

 黙っていると、そのうち男は走り去って行ってしまった。


「……噂をすれば、だ。あんな物々しい面つきで毎日横丁をうろつき回られちゃ、たまったものじゃないねぇ。じきにあれだよ、おたねさんや彦助さんなんか、沼辺のお武家様達をとっつかまえて文句の一つもぶつけるんじゃないかと思って気が気じゃないよ。そうなりゃ大変なことになる」


 そうだろう、と姫乃は思った。

 ただし、大変なのはおたねさんや彦助ではなく、信近州の武司どもである。横丁の住人達は皆、血の気が多く喧嘩っ早い。相手が武司だろうと容赦しないから、寄ってたかって袋叩きにした挙げ句、橋の上から川にでも放り込みかねないのだ。げんに、そういう目に遭った他州の武司が何人かいる。 


「ま、ここは一つ、国府の大岡様を信用して待ちましょう? こんな事がいつまでも続くとは思えませんもの」


 姫乃は話に目処をつけて立ち去りかけたが、つと足を停め


「……お味噌、出来たら一番に教えてね? 一日も早く、食膳に味噌汁をつけないと」

「ああ、わかってるよ。真っ先に斉藤先生に召し上がっていただけるようにするから」


 畑徳の親父は言ってくれたが、しかしいつの日になるかわかったものではない。

 宗一郎は国府役所に赴いて行って事の真相を聞き回っているようだが、何しろ他国府の話である。依然として、信近州物産流れの動きはつかめないようであった。昨晩聞いた話では、近隣国府から再三にわたり物産流留を解除するよう信近州国主沼辺氏に対して願状が届けられているものの、当の沼辺氏はどういうつもりなのか全く腰を上げないらしい。この態度に立腹したとある国府では、逆に信近州への物産流し入れを差し止めるという。こうなれば国府同士の喧嘩も同然ではないか。


(……困ったわぁ。お父様のためのお味噌はともかくとして、もうすぐお母様の命日だっていうのに、これじゃ橙柑をお供えできないじゃない)


 橙柑は信近州で採れる果実である。

 彼女が十歳の時に病で他界した母、琴乃が大好きだったことから、正と月の命日には必ず仏壇に供えることにしていた。が、品物自体が入ってこないとあってはどうすることもできない。姫乃にとっては宗一郎の味噌汁よりも、母のための橙柑が手に入らないことの方が、よほど憂鬱であった。

 暗い顔で家路を急いでいると


「姫乃さぁん!」


 笹川道場の前を通りかかった時、中から門下生達がぞろぞろとやってくるのに出くわした。


「あら、皆さんお揃いでどちらへ?」


 尋ねると、香田佐市という姫乃より身体が一回りも大きな若者が一歩前に進み出てきた。彼は笹川道場門下生筆頭席として、もうすぐ師範代に格上げされることが決まっている。


「もうすぐ、国主様が皇都からお戻りになられるんです。笹川先生と斉藤先生のご配慮で、我々も門関からの護衛の人数に加えていただけることになりました。その件で国府役所にてお話があるとのことでして、今から一同で伺いに行くところです」

 悪い話ではない。国主の護衛を任されるのは、武司にとってこの上もない名誉なのだ。

 笹川道場に通う若者達は皆国府付武司の家に生まれ育った者ばかりだから、剣術の修行が進むとこういう幸運に恵まれることがある。笹川道場の主、笹川有衛門はかつて国府剣術役所指南役を務めていた。老境に入った今は役目を退いているものの、当時のつながりからこうした話を持ち込まれることがあった。

 気持ちが落ち込んでいた姫乃もこれには表情を明るくして


「そうなの。それはご名誉なことでしたね。皆さんの逞しい姿をご覧になれば、桜音様もきっとお喜びになると思いますわ」


 そう声をかけてやると「はい!」と一同から元気な声が返ってきた。

 若者達は礼儀正しく各々一礼しながら国府役所の方角へと歩き始めたが


「ああ、そうそう。姫乃さんですね、そういえば……」


 集団の最後に行きかけた佐市が足早に戻ってきて、姫乃にこそっと耳打ちした。


「……三平さんが?」


 斉藤道場の門から出て行くところを見かけたという。まるで辺りの様子を窺う様にきょろきょろと見渡してから、夜盗みたいな足取りでどこかへ出かけていったらしい。


「ええ、見間違う筈はありません。過日、我々一同、あの人に撃ち懲らされておりますから」


 たださえ人並みはずれて相貌の鋭い青年である。一度立ち合っている笹川道場の若者達が見間違える筈はなかった。

 姫乃は小首を傾げ


「変ねぇ。三平さん、外へは出ないようにってお父様から言いつかっていたのに。ご親族のどなたかが入府していらっしゃったのかしら?」


 それならそれで、そうと言ってくれればいいだけの話である。

 こそこそしなければならないということは、もしかすると――と姫乃は一瞬考えたが、すぐに首を振って打ち消した。想い人との逢引を想像したのだが、それは邪推だろうと思ったのである。


「ともかく、我々は笹川先生から、田中さんの挙動について注意していてもらいたいとご指示を受けております。今後も何かあればお知らせいたしますので」


 宗一郎が内々に手を回しているのである。

 居候を始めてからもう何日と経つのに、一向に三平は身上を語ろうとしない。しかしながらこの間の経緯からして、信近州の武司達の捜し求めている人物は彼以外にないと宗一郎も姫乃もふんでいる。迂闊に外へ出回られては敵わないから、親しい笹川道場の面々にも協力を頼んでいたのであった。結果、二人が心配した通り三平は黙って屋敷を抜け出ており、目敏い笹川道場の連中はその様子を見ていた。


(三平さんたら。お父様があれだけ外へは出るなと仰ったのに……)


 約束を破られたことに腹立ちを覚えたが、ここで怒っても仕方がない。

 とりあえず佐市には礼を言い、姫乃は屋敷へ戻った。

 ――その夜。

 目の前の膳部を目にした途端、宗一郎は案の定眉をしかめ


「おい姫乃、今日も吸い物かい。たまにゃ味噌汁が飲みてぇよ、俺は」

「我慢して、お父様。お味噌がどこにもないのよ。畑徳さんから聞いたけど、信近州のお味噌はもちろん豆の値も跳ね上がっているんですって。だから、お豆腐もないの。豆だけじゃなくて、蕎麦も大変みたい。このままじゃ商売にならないって、小切蕎麦の奥さんもぼやいてたもの。……ああ、水菜も高いんだったかしら?」

「何、豆腐もか! こりゃあ、あれだぜ、間違いなく俺への嫌がらせだな」

「はいはい。早く召し上がらないと、お吸い物が冷めますよ?」


 好き勝手なことを吹いている我が父親を放っておいて、飯茶碗を手にした姫乃。


「専売手形を独り占めしてる商人、加納屋っていうらしいぜ? 野郎、物産の買い占めなんざしやがって。このままじゃ東央州だけじゃななくて、近隣の州土がみんな干上がっちまわあ」


 なおも並べ立てられている宗一郎の文句を聞き流しつつ、正面に座っている三平にそっと視線をやると


「……」


 黙々と膳部の上のものを口に運んでいるのだが、その表情に思い詰めたような苦々しさが滲み出ている。横から聞こえてくる国許への悪口に対するそれではないであろう。胸中から湧き起こってくる何かを無理矢理に押し潰そうとしているかのような、そんな苦渋である。


(三平さん、やっぱり何か気がかりがあるのね。こっそり道場を抜け出したのは、きっとそのことと関係があるんだわ……)


 よほど宗一郎に報告しようかと思ったが、やめておいた。

 姫乃自身、三平が出て行くところを直に見た訳ではないのだ。

 笹川道場の連中を信用していないということではないが、よくよく確かめもせずに言うのは告げ口をするようで、どうも極まりが悪い。




 ふと顔を上げて障子の開いた隙間から外をみると、細い糸のような雨が降っている。そのせいで黒い闇が、うっすらと白く染められたようにぼやけていた。


「あらやだ。お父様、濡れ鼠にならないかしら?」


 呟いた姫乃。

 宗一郎は国府役所に用事があると言い残し、昼も遅くなってから出たまま戻っていない。

 これは迎えに行った方がよかろうと、姫乃は針物を畳の上に放り出して立ち上がった。

 玄関へ出ようと障子を開けたところへ


「姫乃さん、雨です。このままだと、父上殿が……」


 丁度、三平がやってきた。

 道場で日課の素振りを終えてきたのか、愛刀を提げている。


「ええ、急に降ってきましたね。私、国府役所まで迎えに参りますから、留守の番をお願いします」

「しかし、夜も遅い刻限です。若い婦人の独り歩きは止した方がいいでしょう。私が――」

「三平さん」


 行ってきます、と言いかけたのを押さえるように姫乃はぴしゃりと言い


「お父様から他行せぬようにと申し付けられていたでしょう? 私が参ります。夜も遅いとはいってもここは道場町。一声上げれば道場という道場から多すぎるだけの人数がやってきますわ。心配なら要りません」


 無断他行の一件をちらと思い出し、ついそのことを口にしそうになったが黙っていた。

 有無を言わせぬ口調に、三平は一瞬戸惑った顔をしたものの


「はあ、承知しました。夜道、くれぐれもお気を付けて」


 頷いた。

 彼が素直に応じたため、姫乃はいつもの人懐こい笑顔に戻って


「じゃあ、お願いしますね。お腹も空いているでしょうから、お父様が戻ればすぐ夕餉にします。今宵は房海州から入ったばかりの大きな青魚ですよ。一尾づつお付けしますからね」


 そう伝えてやると、三平も微笑を浮かべた。物の好き嫌いをほとんど口に出さぬ男だったが、物食いの様子を見ているとどうやら宗一郎同様、魚を好んでいるらしかった。

 と、


「――姫乃ちゃん、いるかい! 見回役所の中村だよ!」


 玄関先から威勢のいい男の声が飛んできた。

 出てみると、門のところに中年の男が傘を差して佇んでいる。

 斉藤道場の近所に住んでいる、国府見回役所の役人である。姫乃が幼い頃からの顔見知りで、何かにつけ斉藤親子に便宜を計らってくれる気のいい親父であった。


「あら、中村さん! 今夜はまた遅かったですね。府内で何かありましたか?」

「なぁに、じきに国主様がお戻りになるってんで、警護に出る人の回しがあれこれとね。――それよか、宗一郎さんから言伝だ。おっつけ帰るから、湯でも浴びて待っていろってさ。傘は役所のを失敬するから迎えは要らんって言ってたぜ?」


 いかにも宗一郎らしい言い草である。

 きっとその通り役所備え付けの傘を拝借しようとして、国府役人に苦情を言われるのであろう。そういう父の姿を想像し、姫乃はくすりと笑った。


「まあ、そうでしたか。わざわざ、すみません。今、迎えに出なくちゃ、と思ってましたの」

「そうかえ。なら、丁度良かったな。美しい娘を一人で夜歩きなんかさせちゃ、武司の面目が廃るってもんだ。――じゃ、確かに伝えたぜ? 風邪ひくなよ!」


 言い残し、中村の背中は闇の中へ消えていった。

 宗一郎を迎えに出る必要はなくなった。

 ならば言伝に従って、先に湯を浴びていた方がいいと思った姫乃。

 夕刻の早いうちに三平が焚いてくれているのだが、宗一郎の帰りを待っていては折角の湯が冷め切ってしまう。それよりも魚を焼いておきたいところだが、焼き置きした魚などを食膳に載せれば文句を言われるのは目に見えていた。宗一郎が納得しないのは、温い風呂よりも冷めた焼魚の方である。


「姫乃さん……どうしますか?」


 中村とのやり取りを聞いていた三平が尋ねた。

 湯を浴むのならば湯桶に湯を張ろうか、という意味である。


「そうね、お願いしようかしら? 三平さんが焚いてくれた湯が冷めたらもったいないですし」

「わかりました。すぐに整えます」


 ――それから少しして、姫乃は湯に浸かっていた。

 湯場は庶民にとって決して手頃な設備ではないが、多くの剣術道場には大抵大なり小なりこれがある。

 その日の稽古で掻いた汗を流すのは勿論のこと、疲労した肉体や関節を湯浴みによってほぐすという発想の広まりがその背景にあった。このため、剣術道場の多い町には燃し木売りと呼ばれる者が盛んに行き来し、焚き木を売る光景がよく見られる。


「――加減はどうでしょうか? 多少温くなってしまっているかも知れませんが」


 湯場戸の向こうから三平の尋ねる声がした。彼は足し湯を沸かすべく、またも大汗を掻きながら火を起こしている。宗一郎のために、新しい湯を沸かしておかねばならない。


「ありがとう、三平さん。丁度いいですよ。私、熱い湯は苦手ですもの。お父様ったらどうしてあんなに熱いのが好きなのか、よくわかりません」


 くすりと笑った姫乃。

 湯場は板で囲っただけの簡素な造りだが、屋根がかけられているため雨に濡れることはない。焚き釜の側の湯場戸に小窓を設けてあるのだが、姫乃は気にも留めていなかった。その気になれば外から覗けてしまうのだが、三平という男が普段から漂わせている武司らしい物堅さを彼女は手もなく信用している。

 彼が張ってくれた湯はやや冷めかけていたが、ぬるま湯を好む姫乃には丁度よく感じられた。

 湯の中で肩や腕、脚と丹念に揉み解していく。

 姫乃がまだ幼い頃、母の琴乃は一緒に湯浴みしながらよく言ったものであった。


「女の人はね、熱い湯に浸かっちゃ身体に良くないのよ。少し温いお湯に浸かってね、こうしてゆっくりと身体をほぐすの。そうすれば、疲れが取れやすいのよ――」


 母が教えてくれたことを忠実に守り続けている。

 いきおい長湯になるから宗一郎などは眉をしかめるが、こればかりはやめる気がしない。


(お母様、身体が弱かったものね。あと少し長く生きていてくれたら、大好きな橙柑を山ほど食べさせてあげられたのに……)


 琴乃が亡くなってから程なく、宗一郎は剣の腕を見込まれて国主付の剣術指南役に抜擢された。

 当然下禄は跳ね上がったものの、それまでは身入りも薄かったために家計が苦しく、橙柑などという高値の品が琴乃の口に入ることは稀だったのである。あと少し長生きしていれば、というのはそのことを意味している。あるいは、もっと効のある薬なども買えていたかも知れないのだ。

 といって、長年剣の鍛錬に明け暮れしていた父、宗一郎をどうこう思うつもりは毛頭ない。

 琴乃は、夫が追求し続けてきた剣の道がどうか正しきものであるようにと願っていたからだ。国主にまで認められたというのは、その証しであるといっていい。彼女が存命していれば宗一郎の立身を、泣いて喜んだであろう。

 何かと父を立てようとする姫乃の気持ちの裏側には、母という人の影響が色濃くある。

 湯に沈めた自分の身体を眺めているうち、姫乃はふと


(そういえばお母様の体付き、ほっそりしてたなぁ……。私もお母様みたいになれるかしら?)


 思ったりした。

 さして広くない湯場の中に、波を立てる湯の音だけが静かに響いている。

 いつの間に止んだのか、しとしとと地面を打つ雨音は聞こえなくなっていた。


(……あら? 雨、止んだのかしら?)


 ふと湯面から顔を上げた姫乃。

 そんな彼女の耳に届いてきたのは、濡れた地面を忙しなく叩くような足音であった。

 三平が燃し木を運ぶのに行き来しているのかと思ったが、妙に足数が多い。

 面妖だと思う間もなく、それが異変であることに気付いた。

 さあっと刀身が鞘を走る音がしたからである。

 急ぎ湯桶から飛び出した姫乃はかけてあった下衣だけを身に纏い、湯場戸を勢い良く開いた。


「まあ……!」


 目の前に、抜刀して中段に構えている三平の背中がある。

 十歩ばかり離れた向こう側では覆面姿が数人ばかり、やはり白刃を抜き連ねて彼と対峙しているではないか。顔を覆う覆面頭巾も衣装も、辺りを包む闇のように黒い。


「姫乃さん、ここは私が。今の間に、この屋敷を脱してください。事の次第を父上殿と見回役人に」


 三平が背中で言った。

 胸中の平衡を保とうとしているようだが、心持ち声が上ずっている。

 が、姫乃はゆるゆると腰紐を結びつつ困った顔で


「事の次第と言われましても、これでは何が何だかわからないじゃありませんか。そちらの皆さんはどこからおいでなのでしょう? 我が家の庭で人斬り包丁の見せ合いは困りますわ」


 いかにも呑気な調子である。

 すると三平、振り向きもせず苛立ったように


「一見してお判りになりませんか? 相手は人斬りに慣れた連中です。ぼやぼやしていると素っ首を刎ねられてしまいますぞ! さあ、早く――」


 急き込むように促したが、言い終わらぬうちに最も手前にいた覆面が踏み込んできた。

 いち早くその気配を察した三平。

 自らもすっと踏み出しざま両拳を上げるようにし、振り下ろされた一撃を鍔元で受けた。

 覆面の踏み込みは浅い。

 背丈のある三平には大した衝撃もなかったらしく、そのまま下から突き上げるようにして白刃を押し戻した。彼の強い膂力に弾かれ、体勢を崩しながら後ろへとよろめいた覆面。

 その隙に、三平の構えは素早く元の中段に直っている。

 よほど修行を積んだ者でなければ、こうは迅速にいかない。未熟な使い手ほど残った念に引き摺られ、次の備えを忘れてしまうのである。


(三平さんったら、意外に冷静なのね。あれなら容易に撃ちかかれないかも知れない)


 背後で姫乃は感心したが、当の三平はそれほど余裕はないとみえ


「さあ、行ってください! この程度なら何とか切り防げますから!」


 早く立ち去れと言わんばかりに声を上げた。

 しかしながら、覆面達は誰も次の太刀を振るわない。姫乃が睨んだ通り、三平をかなりの手足れと踏んだらしい。そのあたり、覆面達もまた軽骨ではなかった。

 張り詰めた睨み合いが続く。 

 両者に許された間合いは僅かしかない。

 一対一であれば踏み込んだ瞬間に勝負が決されるところだが、覆面の押し込み達は多勢である。ここは三平としても、不用意に仕掛けることはできないのだ。

 ずらりと垂直に並んだ覆面達の白刃が、焦れたように揺れる。

 くるか、と思われたが、同時に二人は視線の先で闇が揺らめくのを見た。

 加勢の人数と直感されたが、


「……若い娘の湯浴み時を襲うとは、近頃の武司も廃れたもんだねぇ」


 暗がりからのんびりとした声が聞こえてきた。

 案に相違して、ゆらりと姿を見せたのは宗一郎である。

 白刃を抜きつれた物騒な集団を目の前に、顔色一つ変えていない。どころか、物見遊山にきたように楽しそうな笑みすら浮かべていた。

 姫乃と三平を囲んでいた覆面の半分が、くるりと宗一郎の方へ向き直った。いきおい、取り囲まれたような形になってしまった宗一郎。

 思わぬ助太刀の登場に三平はほっとしかけたものの、つと彼の腰に目線をやって仰天した。

 ――本来そこに差されてあるべき一刀がない。無腰であった。

 素手で刃物を持った一団の前に進み出てくる馬鹿はない。

 慌てた三平、声を励まし


「父上殿、無腰ではありませんか! それでは斬られに来たも同然です! 下がってください!」 


 覆面の人数が間にいるからそちら側へ回り込むこともできない。

 ところが、宗一郎は事も無げに


「へへへ、お気遣いどうも。……だが、刃物がなけりゃ喧嘩できねぇってのは、ちと情けないぜ? 俺の目にゃ、近所の悪餓鬼どもがやんちゃをはたらいているのと同じにしか」


 とまで口にしたその刹那。

 闇に一閃、スイと白い影が走ったように三平には見えた。

 間を置かずして、示し合わせたように覆面達の手から刀が落ち――皆一斉に、手首を押さえて蹲ってしまった。宗一郎が何かを仕掛けたようだが、当の本人はその場から一歩も動いておらず


「――見えねぇなぁ」


 にやにやしながら人差し指で頬を掻いている。

 残っている無傷の覆面達もさることながら、驚いたのは三平も一緒であった。


「……!? 父上殿は今、何を――」


 咄嗟に斜め後ろの姫乃を見やると、彼女は両腕で胸元を隠しつつ


「気流斬のうちの断枝、かしら? お父様ったら、刀の代わりにあんなものを……」


 くすくす笑っている。


(あんなもの?)


 何のことかと思いよくよく見てみれば、宗一郎の袂から白い手拭いがのぞいている。それを用いて瞬時に覆面達の手元を襲い、刀を叩き落としたということらしい。

 唖然としている三平。

 手拭い一本で五人もの手から一度に得物を叩き落すなど、尋常の技ではない。


「ちっ!」


 姫乃と三平の側を向いていた覆面どもが、くるりと翻身する。

 思いの外厄介なのは宗一郎だと思ったようである。

 対している宗一郎、五本の白刃を向けられているにも関わらず、ゆったりとした所作で落ちている刀を拾い上げ


「俺の屋敷の庭で、生臭い水撒きは御免なんだよ。どうしてもっていうんなら」


 切っ先を覆面の一人に向けると、カチッと大きく鍔を鳴らした。


「……水杯傾けてからもう一回来いや」


 構えというよりも、ただ刀を水平に持ち上げているに過ぎない。

 ところが、覆面達は刀を握り締めたまま斬り掛かろうとはしなかった。宗一郎が発する不思議な気塊に全身絡め取られたかのようであり、心肝に響くような怖れでも感じたか、身体を小刻みに震わせている者もいる。

 彼等は白刃を宙に漂わせたまま固まっていた。

 やがて一人が


「ひ、退くぞ!」


 泣くような声で下知するや、覆面達は一斉に庭を走って立ち去っていった。

 あとには三平と姫乃、そして宗一郎が残っている。

 彼は逃げた押し込みになど興味がないというように、手にした刀をまじまじと見つめていたが


「これ売り払えば金になるかと思ったんだがねぇ……よく見りゃ無銘の安物だよ。二束三文にもなりゃしねぇ。期待して損したぜ」


 からりと投げ出した。

 そうして履物を脱いで縁側に片足をかけつつ


「おう、姫乃。身体が冷えちゃいけねぇ、もう一回浸かってこいや。それから座敷へ来てくれ」


 言い捨てて中へ入っていってしまった。


「は……」


 三平の顔が、魂を抜かれたようになっている。

 雨はすっかり上がり、ふと夜空を見上げれば厚い雲の切れ間からうっすら月の光が漏れていた。




 冷えた身体を温め直そうと、再び湯を浴びた姫乃。

 風呂から上がり衣装と髪を調えると、座敷へ出向いた。


「お父様、入りますよ?」


 障子を開けると床の間を背に宗一郎がおり、三平が傍らに刀を引き付けつつ対座している。姫乃の姿を認めた宗一郎は


「おう姫乃、上がったか。そこに座って聞いていろ」

「はい……」


 言われた通り、座敷の隅に裾を折って座った姫乃。


「じゃあ、話に入ろうか。――田中さんよ」


 宗一郎が口火を切った。


「はい」

「まず、訊こう。――ここ数日、俺と姫乃が見てないうちに、屋敷の外に出なかったか?」

「……出ました」

「何故出た?」

「……」


 一瞬、躊躇いの色を表情に出した三平。が、問いには答えず黙って俯いてしまった。

 二人のやり取りを聞いた姫乃は不思議に思った。

 三平が秘かに外出していたことは、まだ宗一郎には伝えていない。

 なのに、なぜ彼はその一件を承知しているのか。


「お父様? どうして三平さんが屋敷の外に出ていたと……?」

「造作もねぇよ。どうも田中さんの様子がおかしいと思ったから、笹川のご隠居に聞いたさ。そうしたら案の定、こっそり抜け出てやがったっていうじゃねぇか。だから今晩あたり事があるかも知れないと思って気を付けていたのさ。そうしたら果然、図に当たっちまったがな」


 さすがは宗一郎であると、姫乃は思った。読みが鋭い。

 が、彼は続けて


「ま、あとはあれさ。あれだけうろつき回っていた萌黄色のお武家達が忽然と巷から消えたって、横丁の連中から聞いたもんでね。それってのは言ってみれば、探し人を見つけ当てたってこったろう? こりゃいよいよ何か事が起こるなって思った訳よ。大して小難しい話じゃねぇ」

「あら……」


 拍子抜けした。種を割れば何でもない、密かに当たりをつけていただけのことではないか。

 宗一郎は畏まっている三平を見やってからぼりぼりと尻を掻き


「喋りたくねぇのは重々承知しているし、事がなければ訊くつもりもなかったさ。が、屋敷内にまで忍び込まれたとありゃ、こっちも黙っている訳にはいかねぇよ。武司にとって、屋敷は我が城も同然。これ以上続くとあれば、国府見回役まで届け出にゃならなくなるわさ。そうなりゃ、お前のことも知られちまうぜ」

「……」

「それに、俺は国府役所に出入りを許されている身でね。ちょっとした噂は否応なしに耳に飛び込んでくるものさ。あとはお前……」

 

 俄に宗一郎の眼差しが深くなった。


「俺には姫乃がいる。早くにかみさんを亡くした俺を文句の一つも言わずに支えてくれている、命よりも大事な娘だ。その姫乃を危ない目に遭わせるなんてのは、天地神仏が許しても俺が許さん。言っている意味がわかるだろう?」


 娘の話になった途端、それまでの伝法な風からがらりと口調を変えた宗一郎。

 黙って聞いている姫乃は、胸の内がじわっと熱くなっていくような思いがした。普段はいい加減で自由気ままな宗一郎も、心の奥底では父親としての自覚と思いを持ってくれていることが、あらためてわかったからである。

 が、依然として三平は沈黙を守っている。

 宗一郎はそもそも彼が口を割ることを期待していなかったらしく


「言いたくねぇならこっちから先回りさせてもらおう。――お前さんが来府してきたのと信近州での騒ぎ、何か関係があるんだろ? で、お前さんがこっそり他行していたのは、その一件についてどうしても確かめねばならんことがあったからだ。……どうだい? 当たらずとも遠からず、だろ?」

「……」


 三平は応じない。ただ、僅かに身体を動かした。


「悪いようにはしねぇから、喋ったらどうだね? そもそも、お前さんに道場を貸してやるって言ったのは、外へ出て沼辺の武司共と顔でも合わせようものなら斬り合いになると踏んだからさ。……が、お前さんは隠れて屋敷を出て、それで何かの拍子に見つかっちまった。だから連中、夜這いしてきやがったんじゃねぇのかい? こっちゃとんだ迷惑もいいところだ。姫乃なんか、素っ裸も同然だったんだぜ」


 それは、と言い掛けて俯いた姫乃。

 先ほどのあられもない自分の格好を思い出し、赤い顔をしている。

 それきり宗一郎は口をつぐんだ。言うべき事は言ったという意味なのか、腕組みをしたまま、静かに目を瞑っている。

 座敷の空気が動かない。

 燭台の蝋燭がジッと短く音を立て、炎が揺らめいた。

 三平のだんまりはなおも続くかと思われたが、不意に畳に落としていた目線をあげるなり


「……いや、確かに仰る通りかも知れません」


 口を開いた。

 切れ長のその目は相変わらず鋭さを帯びてはいるが、瞳の内に強い光がある。

 真っ向から宗一郎の視線にぶつかりつつ


「最後まで明かさずにおこうと思っておりましたが、たった今考えを変えました。ご当家にはたださえ寝食の厄介になっているというのに、私の所為でこうして押し入りまでされてしまった。もはやお詫びすべき言葉もないと思っております」


 畳に両拳をつき、ぐっと姿勢を正した。満面に誠意を漲らせ


「これ以上当家にご迷惑をおかけしては、武司の家に生まれたものとしてもはや面目が立たない。なぜ私が国脱けしてきたのかをお話しします。多少煩わしいお話になりますが、どうかお聴き下さいますよう」


 と前置きし、三平は信近州へと流れてきた経緯を語り出した。

 ――彼の父、田中一平が国主付の剣術指南役を務めていたことはすでに明かされている。

 田中一平は卓抜した剣の腕を持っている上に人柄も篤実で、沼辺氏抱えの武家はじめ町人達からも人望があった。三平が自ら進んで剣技を身につけたのも、父の影響であるという。

 つい数か月程前のこと、町下に入ってきた物産商人――加納屋惣兵衛――が商権の独占を狙って沼辺氏家中にいる高位の者に金品を贈り始めた。大黒大介といったその武司は地位を利用して商人達に圧力をかけるようになり、困り果てた商人達は思い余って国主に直訴しようとするのだが、大黒が秘かに揉み消してしまう。

 これを知った三平の父は府内に暮らす町人達の暮らしを守るため、事柄を直接国主の耳に入れようとしたが、いち早く気付いた大黒の手の者によって闇討ちされてしまった。ばかりか大黒は国主に「剣術指南役田中一平は不規を企てておりました故、速やかに罰しました」と嘘の話を信じ込ませ、残った田中一族――長男三平はじめ祖母、母親、それに妹――に対し、領外追放という惨烈極まる処断を下させた。

 憤激した三平は死を賭して復仇を誓った。

 一度領外へ退去した体を装いつつ闇夜に紛れて信近州へ戻り、大黒大介の屋敷へ忍び込もうと試みた。無論、斬るためである。


「……で、失敗したんだな?」

「はい。大黒は思いのほか人数を用意していました。ほとんどは雑兵ですが、えらく腕の立つ者が二、三人いて、とても刃が立ちませんでした……」

「なるほどな。よく生きて逃げ延びたものだ」


 そうだろう、というように頷いた宗一郎。

 いかに手練れの剣術使いであろうとも、一対多数では勝負にならないというのが鉄則である。疲労したところを踏み込まれてしまえば、据え物のように斬られざるを得ない。


「いや、大体のことはわかった。つまりはあれか」


 宗一郎の声がぐっと低くなった。


「……辛くも東央州まで逃げおおせてきたところが、思いがけなく大黒とやらも追って公用で入府してきた、と。国元を離れているのを奇貨にこの際、宿屋敷に斬り込んでやるつもりだったな?」


 先日来、信近州国主沼辺氏お抱えの武司が多数うろつき回っているのは町の誰もが知っている。しかしながら、それが何のためであるのか知る者はいなかったといっていい。

 宗一郎が国府役所に手を回して事情を探ったところ、なんと信近州国府物産流取締役所筆頭大黒大介が極秘裏に入府してきているという。物産差し止めに端を発する一連の騒動について東央州国主へ申し開きをする、というのがその理由であり、憤激した町人達による不測の事態を避けるため隠密に来府した、ということになっているらしい。

 が、実のところ、過日信近州国府役所において容易ならぬ一件が持ち上がり、内々にその始末をつけるべく名目を構えて来府したようだと、顔馴染みの国府役人がこっそり教えてくれた。多くの人々が沼辺氏に好意を持たなくなっていたから、悪意の噂が広まるのは風より早い。どのような一件なのかはわからなかったが、聞いた宗一郎はすぐに三平の顔を想像していた。他に思い当たる節などない。

 ご名答です、と三平は答えてから


「大黒大介密殺に失敗した私が信近州を脱したことが知れれば、追捕の手があることはわかっていました。それで連中の動きをこっそり探ってみたところ、意外なことに大黒が直々に来府しているのを突き止めたのです。この機を逃す手はないと思い、国府宿屋敷を下調べするべく父上殿と姫乃さんが不在の時を狙って秘かにご当家を抜け出しておりました」


 そっと俯くなり、いきなり拳で畳を叩いた。

 細かく震えているその肩に、姫乃は三平の内に宿る激しい怒りを見たような気がした。強い情念を抱えていた以上、宗一郎の言いつけに背いたのもあるいは当然であったろう。三平の父への思いという一点についていえば、姫乃の琴乃に対する気持ちと通ずるものがあるかも知れない。彼女は少しだけ胸が痛くなった。

 振り絞るような声で三平は


「……私はこの身に代えても父上の無念を晴らしたい。卑劣なやり口で父上を斬った連中に一太刀でも浴びせてやりたいのです。思い報せてやりたい。もしそれが叶えられたなら、死んでも本望だと――」

「やめときな。そうなったとして、田中さんの父上は少しも喜びやしねぇよ」


 ぴしゃりと言った宗一郎。

 いきなりはねつけられた三平は不服そうに表情を曇らせた。上体を乗り出し何か言い掛けたが、つと口を噤んだ。相手の言葉に道理が通っているだけに、反論しても敵わないと思ったのであろう。

 思いがけない厳しい一言に、聞いていた姫乃は目を丸くしている。

 しかし、少し違った。


「いいかね、田中さんよ」


 宗一郎はその細い目の端をやんわりと温和に緩め


「ああた一人が斬り死にしたところで信近州の町人達は誰一人救われやしねぇ。だろう? 大黒とやらは父上の時と同じように、あんたを謀反人に仕立て上げて首を晒すに違いない。奴が来府した実の目的は国主様との面会じゃねぇ、あんたを探し出して極秘裏に斬るためだよ。そこへあんたがみすみす斬り込んでしまえば、得をするのは結局大黒さ。ここは少し、落ち着くことだ」


 ゆっくりと、諭す様な口調で言う。


「しかし……」


 三平が何か言いかけたが、まあまあといった調子で宗一郎は


「まず、聴け。俺に考えがある。あんたが死ななくとも事を上手く収める方法がな。だから、軽挙に及ぶんじゃないっていうのさ。悪人相手に斬り死にしちゃあ、それこそ武司の面目に傷がつくぜ? ――不満かね?」


 話の運び方が巧い。

 押しておいて、一転退く。

 さすがはお父様、と姫乃は聞いていて思った。相手の心のつかみ方を知っている。

 案の定「事を上手く収める方法」という言葉に、三平の表情が動いた。


「父上殿、それはいったい、どのような……?」

「おっつけ、話す。工夫と根回しが要るところでね、そいつが済むまでは我慢しな。……兵書にいうだろう? 奇策の始めはまず味方なり、ってね」


 悪戯っぽい笑みを浮かべた。が、出任せを言っている風ではない。

 ここは言われた通り任せておくべき、と思ったか、三平は


「ご厚意、痛み入ります。確かに、これ以上勝手な真似をしてご迷惑などかけようものなら、亡き父からも叱責されましょう。能のない話で汗顔の至りですがここは一つ、父上殿の仰る通りに従うことにいたします」


 ぐっと頭を下げた。

 熱情に激されやすい一面もあるようだが、武家の生まれだけあって物の道理をすんなり理解できる教養を持ち合わせている。心底宗一郎に服している風であるから、以後軽挙に及ぶ不安はなさそうであった。


「わかってくれりゃいいさ。あんたに斬り死にでもされたら、こっちも寝覚めが悪いってもんでね。――で、国許を追われたご家族はどうなさっている? 当州に来ているのはお手前一人だろう?」


 そう尋ねる宗一郎の表情に、いかにも心配そうなものがある。

 なんだかんだいっても心の奥底に篤い人情を具えた男なのだ。ゆえに、町人達からも好かれている。


「幸いなことに、祖母はじめ母と妹は信近州外れの御捨領にある寒村に身を寄せております。かつて大地震に見舞われた折、そこの農民達のために父上が何かと手を尽くしたことがありまして、その恩返しだといって有り難くも寝床と三食を……」


 御捨領とは、土地があまりに悪いため国主から租税を免ぜられている場所を指す。府内でありながら見捨てられた土地であるため、領外追放の沙汰を食った者達が流れ着くことが多い。

 厳密には沙汰に反しているものの、そこは国府役所も心得ている。荒地に居付く人口が増えることによって万が一開墾が進み取れ高が上がったならば、その時は正式な府領の扱いにして徴税すればいいのである。そもそも、領外追放の処分が下されるのは国主お抱え武司だった者がほとんどで、極悪人の類はまずいない。放っておいても何ら害はないのだ。

 そういった、いわば法外の者に手厚い庇護を加えるあたり、田中一平という剣客はよほどの人徳者であったといっていい。さもなくば、日々食うや食わずの農民達がその遺族に対し寝食を施してくれる筈などないのである。心がすっきりと晴れるような、実に麗しい美談である。

 感じ入ったという風に重々しく頷いて見せた宗一郎。

 ふと思い出したように


「もう一つだけ聞かせてもらいたい。お手前の家に伝わる剣術、狼虎一刀流というのではないか? 違っていたら失礼だったが」

「いえ、相違ありません。我が流儀は狼虎一刀流でございます。しかし、なぜこの名を?」

「なぁに、昔諸国を歩いていた頃、信近州で随一の使い手だという剣客と一度だけ立ち合ったことがあったのを思い出したのさ。――居合術の精妙さは天下一品だと思ったよ」


 と言ってから、彼はニヤリと笑った。


「ま、俺は敗けなかったけどさ」

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