ヒトの面を被ったモノ
確証が無かったから、貞操を差し出してまで問いただそうとした──否である。
あくまで酔いに任せた気まぐれである。
だから、
「ち」
違う──その言葉は、ただの吐息にしかならなかった。
何が違う?──冷徹な自分が発した、その疑問によって。
〝蜜の罠〟云々は、あくまでユスティの思惑である。だがそんなのは、つまるところルディの都合でしか無い。
アイールにとって、どれほどの違いがあるのだろうか。
アイールの疑念は、そういう事だ。
やはり自分は有能なのだろう、とルディは思う。そんなことが、一呼吸の間に理解出来てしまうから。それを誇りに思っているのは間違いない。
けれど──今ばかりは、どうしようもなく憎かった。
自分の事を、どこか他人事のように考えている。
他人事だから、否応なく見えてしまう。
自分は、目の前の男を欲したに過ぎなかったのだと。
自分は、目の前の男に認められたかっただけなのだと。
故に──アイールの疑念は、その思いを徹底的に踏み躙った。
その痛みは、ルディのあらゆる言い訳を、容赦なく叩き潰した。
「‥‥‥どう思おうと、貴様の勝手だ」
結果として──その痛みは、ルディから一切の躊躇いを払拭した。両の目元から頬にかけて生暖かい感触など、もう気にならない。
「アイール・シドラウス上等兵。間諜その他の容疑で、貴官を拘束する」
支給品の剣を抜き、切っ先をアイールに向ける。
「従わぬ場合は、実力行使も辞さない」
「実力行使、ねぇ‥‥‥」
アイールは、長物の包みを広げる。
「まあ、カス子にしちゃよく考えたようだしな、卒業祝いも兼ねて、もう一度だけ付き合ってやるよ」
露になったのは、長さにして約九十メル余りの、緩やかな曲線を描く曲剣だった。
「言っとくがな、もしこの前やり合った時から全然成長してねえなんてことになったら」
アイールの手が、剣の柄にかかる。
「‥‥‥三秒で息の根止まるからな?」
音が消え、目の前が闇に覆われ、息も止まった。
「──っ!」
比喩ではなく、この時のルディは、意識を失いかけた。
すぐに我に返り、剣を正眼に構える──というより、剣を盾にしていた。
本能的な恐怖が、今すぐ恥も外聞も捨てて背を向けろと、強く叫んでいる。雷征龍の時と同じように。
「どうした、屠龍姫? バケモンでも見たか?」
アイールが冗談めかして言うが、その笑みがルディの恐怖を更に煽ってきた。
今自分が相対しているのは、ヒトの面を被った、ナニかだ。
「‥‥‥現実を、また一つ知っただけだ」
ルディも、思わず笑みを浮かべる。
炉心を臨界駆動させ、更に頭上の月から降り注ぐ紫月精も貪欲に吸収し、全身の月路に余すところなく回し、増幅させる。
今まで何度も、アイールに叩きのめされた。不愉快だが、この劣等種が格上の実力者なのは間違いない──その認識が、すでに甘かったという事を、たった今悟った。
道端の雑草を、気まぐれで引き抜くように。
道端の小石を、気まぐれで蹴飛ばすように。
アイールにしてみれば、ルディの相手など、気まぐれの〝遊び〟に過ぎなかったのだ。
そのアイールが、僅かばかりでも本気になった。少しでも気を抜けば、確実に死ぬ。
だというのに──ルディは、自分が喜んでいる事に気づいた。
恐怖は少しも薄らいでいないのに、嬉々としている自分がいた。
道端の雑草と同じだったルディを、僅かばかりでも認めてくれたから。
道端の小石と同じだったルディに、僅かばかりでも本気なってくれたから。
頬が弛むのを抑えられない。紫の光は、ルディの喜びを示すかのように爆発的に広がり、薄暗い森を強烈に照らしていく。
「こりゃ凄ぇや」
その光は、何度も目にしたはずのアイールですら、思わず目を覆う程だった。
「動く灯飾になるぜ、お前」
「良い得て妙だな」
実際、この光が目印代わりになるだろう。あと三分もすれば、この光を頼りにユスティが来る。傘下の部下達を引き連れて。
「だが、それだけではお互いにつまらんだろう」
「へぇ‥‥‥」
目を開けたアイールが、次に目にしたのは紫に染められた森。
そして──自分を取り囲むルディ達だった。
言うまでも無く、それらは幻──紫月精の認識操作により、相手の感覚に直接見せる幻覚である。通常は、多くても三体程度だが、月煌化によって爆発的に放出された紫月精は、無数のルディを造り出した。前後左右はおろか、木の上にも。
「行け」
ルディの意思を受け、分身たちが一斉に剣を構え、あるいは抜き放ちながら、アイールに襲いかかる。一人目の切り落としと、二人目の突きは避け、しかし三人目の横薙ぎは避けきれず、左頬を掠めた。赤い筋が走り、血滴が飛ぶ。
「「「確かにそれらは幻だ」」」
分身たちが、斬りかかりながら声を揃えて言った。
「「「だが、幻影ではなく幻覚──貴様自身が、無意識に実体と認識している」」」
熱した鉄棒と思い込んだ木の棒に触れて、火傷するように。
毒薬と思い込んだ粉砂糖を口にして、体調を悪くするように。
彼女たちの攻撃は、確かな一撃となってアイールに襲いかかる。
「逆に言や」
と、アイールが横から来たルディの突きをかわしながら、ルディの鼻先に剣の柄尻を叩きつけた。
「俺の無意識が致命傷を与えたと認識すれば、こいつらを消せるってわけだ」
顔面が潰れたルディの分身が、音も無く消える。
幻覚とはいえ、アイールにとっては明確な実体。ならば、アイールの攻撃は確実に通用する。
次々に襲いかかる分身たちは、アイールと交錯した端から致命打を受け、次々に消えていく。しかもアイールは、いまだに剣を抜かないまま。
だがそんな事は、ルディも最初から承知の上。分身はあくまで陽動に過ぎない。
アイールが背を向けるタイミングで、ルディは地面を蹴った。
「っ!」
アイールが、こちらを振り返る。
その目は、確かにルディを捉えていた。
ルディの、目線に合わせていた。
間合いに入り、剣を振り上げルディ。アイールは、そこでようやく剣を抜き、その勢いのまま切り上げる。
ルディは、疾走の勢いも充分に乗せ、渾身の力で剣を突き出した。
双方の剣がぶつかり、甲高い金属音が響く。