裸の少女
痛みと快楽が通り過ぎても、その余韻のせいで力が入らない。そのくせ、頭だけははっきりしていた。
「‥‥‥オンナの経験も相応だったようだな、貴様は」
そう言うルディは、まだ掛布を体に巻いているだけ。対して、アイールは、既に乱れた服を直していた。
情交の経験など無いルディにも分かった。何だか負けた気がして、つい言い方が刺々しくなる。
「そりゃまあ、それなりにな。初物、ゴチソウさん」
茶化すように言って、アイールは寝台から立ち上がる。
「‥‥‥どこへ行く?」
その背中に向かって、ルディは呟くように問うた。
「‥‥‥貴様は、どこに向かおうとしている?」
「どこって」
「答えろ。貴様は──アイール・シドラウスは、何を成そうとしている? その力を、才を、何のために使うつもりだ?」
「ああ、そういうことか‥‥‥」
アイールは、納得したように頷き、
「別に大したことじゃねえよ」
大したことではない──そう言いながらも、アイールに気負いも卑下や自嘲も無かった。ただ自然に、答えが返って来た。
「家族の力になるってのと、もしバカな方向に向かったら全力で止める‥‥‥そんだけだ。じゃあな」
アイールは、部屋を出て行った。その足音が聞こえなくなっても、ルディはまだ動けない。
「〝家族〟、か‥‥‥」
アイールの答えを、繰り返してみる。
確かに、それだけの──とても小さな事である。
それだけのために──アイールは、皇族をも凌駕する力を手にした。その力を手にするために、途方も無い時間と、多大な労力を費やした。
では、自分はどうだろう?
〝それだけ〟と、小さな事と嘲られるほど、自分が成そうとしているのは、御大層なものか?
「‥‥‥何を成そうとしている?」
アイールに投げかけた問いを、繰り返してみる。今度は自分に向けて。
紫月皇になる──以前なら、当然のようにそう答えただろう。
では今は?
以前なら、当然のように出たはずの答えが、今は酷く霞んでいた。
紫月皇になる──それが、他者から与えられた目標だと、気づいてしまったから。
『紫月皇になってどうする気だったんだ?』
かつてアイールに問われた時は、答えられなかった──答えられるはずが無かった。
答えが無い──それが答えだったのだから。
『一人で考えて、一人で決めて、一人で何とかしてきた事が、一つでもあったかよ?』
無い──誰かに、何かに、何とかしてもらってきただけだ。
他者に。才能に。
「はは‥‥‥」
皇族が劣等人種の旧人に叩き潰された──確かに、無視できる些事ではない。
だが、所詮はただ一度の敗北であり個人的な事だ──それだけのことだ。
それだけで──何もかもが覆った。
『何も知らねえ劣等にぶち壊しにされるほど、お前が積み上げてきたモノは脆かったってことだ』
そう──あまりにも脆すぎた。
才能が通用しない──それだけで、向けられていた畏怖と敬意は、嘲笑と侮蔑に変わった。
『知らされてなかっただけでしょ、皇女サマ』
誰も知らせてくれなかった──自分から、知ろうとはしなかった。
与えられるだけだった──自分からは何一つやろうとしなかった。
自分から──何一つ得ようとしなかった。
その事に、気づかなかった──自分から、気づこうともしなかった。
そんな奴が、このまま行けばどうなるか?
「ははは」
屠龍姫だ英雄だと持て囃され、自分からは何もさせてもらえず、他人から何かをやらされているだけの傀儡。
たとえ、元の地位に返り咲き、紫月皇になったとしても──それは、〝皇〟という名の、体の良い手札だ。
「あはははははっ」
もちろん、そんなことは望んでいない。かといって、宮への帰還を突っぱねるだけの理由が、ルディにあるはずも無かった。
『そんなだから、スッカラカンのカスだっつうんだよ、お前は』
「あ~っはっはははははは、ははははははははははははは、ははははは、はは、ははは、ははは、あははははははははは、ははははははははっ!」
滑稽である。傑作である。この上ない喜劇である。
天性の才を持ち、神童と呼ばれ、次期紫月皇筆頭候補と目され、屠龍姫という誉れを得て──なのに、何も無い。
『お前って、マジで〝才能〟しか能がねえのな』
『アンタってね、才能だけが取り柄って類の典型例だわ』
何てことは無い。アイールもエネイヴァルも、ルディという〝人物〟を、よく見ていただけだ。
『天性の才能だの、〝秩序の光〟なんて御大層な名前だの‥‥‥そういう、ご立派なモノを背負わされてるだけの』
蔑んでいるのでも、貶しているのでもなかった。
『ただのカスだ』
事実や真実を告げていただけだ。
「ははははは、ははは、あは、は‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
秩序の光、屠龍姫、英雄──これ以上に、空虚な称号は無い。
スッカラカン、捨て駒、カス子──これ以上に、ふさわしい称号は無い。
何でも持っているのに、何も無い──それが、オルディライア・スピーテルだった。
「‥‥‥何だ、これは?」
笑うべきなのに、笑えない。
笑いたいのに、笑いが出ない。
かといって、泣こうにも涙が出ない
残っているのは、寒々しい空虚だけだった。
「何がいけなかった?」
どうして、こうなってしまったのだろうか?
どうして、今まで気づかなかったのか?
どうして、気づけなかったのか?
「私の何が悪かったっ?」
縋るように、ルディは問う。
「貴方は知っているのかっ! 私は、どこで何を間違えたっ!」
そんな悲鳴のようなルディの問いかけを、
「そんなことは、どうでもいい」
開けられたままの戸板──そこに立っていたユスティは、冷たく切って捨てた。
「それより、何故、止めなかった? 止めようとは思わなかったのか?」
要点の欠けた問いだが、ルディには理解できた。
「‥‥‥同じことであります」
止めようと、思わないわけではなかった。けれど、あの男を止められない事は、嫌というほど知っている。止めたところで、自分がここに転がっただけだ。
「そうか」
特に期待などしていなかった──ユスティの短い相槌には、そんな意図が含まれていた。それが何を意味しているのか、ルディはすぐに察した。
そして、自分の中にあった予感が、当たっていたことを悟った。
(やはり、〝甘蜜の罠〟か‥‥‥)
標的となる人物と深い関係を結んで懐柔、あるいは弱みにする──端的に述べれば、そう言う類の、諜報活動である。
ルディでさえ、この短い期間の間に気づいたのだ。ユスティは、とうの昔に目星をつけていたに違いない。
だから──ユスティは、ルディをアイールに近づけたのだ。導率官だの研修だのを名目に。
もちろん、ルディの成長を促すと同時に、爆発的に広がった悪評から守るという、叔母としての親心もあったのだろうが。
(結局、ここでも〝捨て駒〟か‥‥‥)
どこか他人事のように、ルディは思う。
そんなルディに、ユスティは肩をすくめて踵を返し、
「‥‥‥どこで間違えたか、と貴様は問うたな?」
しかし、すぐには立ち去らず、先ほどのルディの問いを繰り返した。
「あの男にも言われただろう‥‥‥〝それ以前〟だ、と。私も、概ね同感だ」
「‥‥‥っ」
そう──それ以前なのだ。
ルディは、何も悪くないし、何も間違ってはいない。
やらされるだけで、自分からは何もしてこなかったのだから。
「ルディ」
叔母に初めてその名で呼ばれ、ルディの自虐的な思考は途切れた。
「お前は、そのままでいいのか? 本当にそれでいいのか?」
答えを期待してなかったのか、ユスティは早足に立ち去った。
「‥‥‥」
本当にそれでいいのか──ユスティの問いかけが、頭の中で繰り返される。
何度も、何度も、繰り返す。
繰り返しながら、体に巻いた掛布をはぎ取り、脱ぎ散らしていた服に手を伸ばす。手早く着込み、個室を出ると、壁に立てかけられた支給品の剣が目に止まった。
本当にそれでいいのか?
「断じて、否だっ!」
ルディは、剣を強く握りしめると、窓から宿舎を飛び出した。