岡目八目
掘っ建て小屋──旧人職員用の宿舎を前にしての、ルディの素直な感想であった。
二階建てで横幅もあるから、決して小さくはない。が、薄板を張り合わせたような構造に、細い鉄骨での申し訳程度の補強──吹けば飛ぶとまでは言わないが、体積に比べると、かえって頼りなく見えてしまう。
「精が出るね、調理士殿」
中に入ろうとしたところで、そんな声を耳にした。
「そっちもな。訓練頑張れよ」
続いて聞こえてきたアイールの声に、ルディの足がそちらに向かう。建物の角からそっと覗きこむと、ゴミ置き場の前で三人の教練生に囲まれるアイールがいた。
労いを返したアイールは、両手のやたら大きな袋をその場に置いて立ち去ろうとした。
「まあ、ちょっと付き合えよ」
その前を、一番体格の大きな教練生が塞いだ。頭一つ分の身長差もたっぷり使って、あからさまに見下しながら。
「んだよ? こっちは急いでんだ」
「そんなに時間はかからないっすよ、上等兵殿」
「と言っても、そっち次第ですがね、上等兵殿」
と、他の二人が巨躯と同様の笑みを浮かべながらアイールの後ろに回り込んだ。特に、〝上等兵殿〟の部分には、明らかに皮肉が込められていた。
アイールのような旧人の職員には一応の階級は与えられているが、実際は教官はおろか教練生達よりも立場が低い。こうした光景は、少し人目の付かない場所に入れば珍しくは無いし、教練校側も大して問題にはしていない。
「あの屠龍姫を圧倒したって、噂になってますよ。劣等種が皇族相手にどんな小細工を使ったかって、みんな知りたがってるんです。ぜひ教えて下さいよ~」
慇懃無礼とは、よく言ったものだ。わざとらしい巨躯の言葉に、他の二人は失笑を隠そうともしなかった。
雷征龍を倒したという〝武勇〟で薄れたとはいえ、劣等にズタズタにされたルディの〝醜聞〟が流れていたは、ついこの前のことなのだ。その劣等が、〝用心棒〟だの〝番犬〟だのと言われているアイールとあっては、否が応でも目立つ。
あの教練生達は、アイールを叩きのめして名を上げようとか考えたのだろう。屠龍姫に勝つ自信は無いが劣等種なら勝てる、ということだ。
「悪ぃけど、また今度な」
当然のように断ったアイールは、巨躯の横を通り過ぎた。
「行って良い」
と、巨躯は振り向きざまに拳を振りかぶり、
「なんて、誰も言ってないだろっ」
アイールの後頭部目がけて拳を突き出し、
「‥‥‥あ?」
次の瞬間には、二ヌーラを超える体躯が跳ね上がり、
「ぶっ」
たった今アイールが置いたゴミ袋に、頭から突っ込んだ。
「おいおい、仮にも本格的な訓練を受けてんだからよ、足元には注意しとけ」
よく言う、とルディは思う。
他の二人の目には、巨躯が空振りした勢いで転倒したように見えただろう。だがルディには、アイールが咄嗟に頭を傾けると同時に、巨躯の足を引っかけたのを確かに見た。
「何してんだお前らぁっ! そいつをやっちまえっ!」
紙くずを頭に乗せたまま、巨躯は二人をけしかけるが、
「く、くそっ」
「何だこいつっ?」
次々に繰り出す二人の拳や蹴りは、どれもこれもが掠めもしない。以前、ルディがやり合った時と同じだ。
苛立ちが募る二人の動きは、みるみる雑になっていく。対して、アイールの動きは緩慢で少ない。しかも、よく見ればその場から殆ど動いていない。
傍で見る立場になって気付いたが──二人の動きは、一枚の羽毛に対して、力任せに殴りかかっている間抜けな道化だ。
(いや、道化というより‥‥‥)
やがて二人は、アイールの前後から挟み、同時に拳を繰り出し、
「ぎゃっ」
「がっ」
アイールが屈んだことで、互いの拳が互いの顔面に突き刺さる結果となった。拳を突き出した姿勢のまま、二人は仰向けに倒れる。
巨躯は目を剥いてアイールと取り巻きを見比べた。この期に及んで偶然と考えるほど、巨躯の頭脳は筋肉に侵食されていなかったらしい。
「おいおい、大丈夫かよ?」
アイールは、倒れた取り巻きたちを助け起こそうとその場に屈んだ。その結果、巨躯からは完全に背中を見せる位置になった。
起き上った巨躯は、音を立てないようアイールの背中に歩み寄り、ゴミ置き場から引っ張り出した棒きれを振りかぶり、
「何の騒ぎだ?」
頃合いと見て、ルディは角から踏み出した。巨躯は、棒きれを振りかぶったまま、凍りついた。
「勘違いの無いよう、念のため言っておくが」
逃げ去った三人が充分離れたのを確認し、ルディは言った。
「私が助けたのは、あの後輩達だ。間違っても、貴様などではない」
「そりゃ残念だ。屠龍姫様がこの卑しき劣等のために命を張ってくれた~なんて思ってたのによ」
心にも無い事を言いながら、アイールは今の騒ぎで乱れたゴミ置き場を律儀に整理する。
「まあいい。妄想だけなら、いくらやっても構わん」
「そらよかった。で、こんなとこで何してんだ?」
「貴様こそ」
アイールの置いた、二つの大きなゴミ袋に目を向ける。
「まだ勤務時間だというのに、仕事場ではなく己が部屋の大掃除か?」
「そこは心配ねえよ。もう俺は勤務してねえんだ」
「‥‥‥勤務していない?」
「言ってなかったか? 今日の早番で、調理士はお終いだ。今日中に島を出にゃなんねえ」
聞いていない──と言いかけて、ルディは思い出した。
「そう言えばストラガイゼルで、もうやめるとか言っていたが‥‥‥それにしても今日中とは、随分と慌ただしいな?」
ヘルトリーに戻ってから、一週間と経っていない。あってないような階級とは言え、仮にも軍属である以上、進退の手続きには相応の時間がかかるはずである。
「実際、慌ててんだ。導率官なんてやったおかげで、色々と予定が狂っちまった。面倒な手続きは、その前に済ませてたから良かったがよ」
「それは大変だな。何だったら、手を貸してやってもいいが?」
「お気遣いはいらね。今終わっちまって、もう手はいらね」
と、ゴミ袋を山に置き直したユーゴは、手を叩いて埃を落とし、
「つうかお前、会食じゃ主役なんだろ。こんなとこでお喋りして大丈夫か?」
「主役という名の見世物だ。下らんな」
「んで、抜け出してきたのか? けど、駆けこみ先の場所を間違えたな。俺はそういうのは受け付けてねえ」
「もちろん、タダとは言わない」
脇に抱えていた包みを広げる。出てきたのは、封の開いていない酒瓶だった。
「宮から送られた祝い品だ。調理士の俸給数年分は、軽く吹っ飛ぶ最高級品だぞ」
「逞しくなったな、お前‥‥‥」
アイールは、あっさり両手を上げた。