喧噪の町
ルディは蒼月精で通信機を起動する。中空に画面が投影され、表示された通信対象を選択する。すぐに応答があり、通話の画面に変わった。
『この数日で、散々に叩きのめされたようだな』
画面に現れたユスティは、ルディの顔を見るなり苦笑した。
実際、今のルディは確かに酷い惨状だ。頑丈な野戦服は、場所を問わずに擦り切れ、背中は大きく裂けている。
水棲餓獣のメルマナ、地中から奇襲するモルグ、小型翼竜プロシス、野生のランゴ──ガーマを含め餓獣と遭遇しない日は無く、月煌化も当たり前のように使ったため、負担も消耗も大幅に増えた。体に受けた傷は翠月精で癒したが、連日の戦闘とろくに休めない宿なしの旅は、不慣れな皇女の心身を三日と経たずに疲弊させた。
エルトの町が遠目に見えてからは、記憶が曖昧になっている。つい先ほど気がついた時には、この部屋の寝台にうつぶせに倒れ込んでいた。時計を見れば、正午をとっくに過ぎている。
『ともあれ、五体満足で生きているなら何よりだ。ところで、シドラウス上等兵はどうした?』
「今は出ています。どこをうろついてるのやら」
ルディが目を覚ました時には、既にアイールの姿は無く、書き置きが一枚のみ。
『准将に報告。絶対に外に出るな。窓から顔を出すな』
意外と達筆な字で、そう綴られていた。
「あの男に、何か伝える事が?」
『これ以降は上等兵に全てを一任する──それだけだ。では、貴官らの健闘を祈る』
互いに敬礼し、通信は終了。
「次の定期連絡は三日後だ」
それを見計らったかのように、アイールの声が掛かる。足音も扉の開閉の音も聞こえなかったが、今更驚きはしない。
「それ以外は、通信機も月精も厳禁。月煌化なんざ、論外だぞ」
「月煌化はともかく、月精もか?」
「そうだ。それとこいつだ」
手に取った通信機を懐にしまいながら、アイールは小脇に抱えていた紙袋を放る。受け取ったそれの中身を取り出して、ルディは眉をひそめた。
「これを着ろと?」
見た目は、それっぽい庶民的な服。けれど肌触りは良くないし、裾は擦り切れが目立ち、縫い直しは雑と、お世辞にも良い物とは言い難い。
「ここじゃ〝普通〟だって、何度言わせんだ? さっさと着替えろ、カス子」
と、アイールは部屋を出た。
渋々ながら、ルディは出された服に着替えた。まあ、ボロ布同然の野戦服よりは、よっぽどマシだと思う事にする。
「次はこいつ」
着替えたことを伝えるなり、再び入って来たアイールは、ルディの髪を巻き込んで長布を巻いていく。すると、短いルディの髪は完全に隠れる形になった。
「んで、最後にこいつだ」
差し出したのは、黒眼鏡だった。それをかけると、紫紺の瞳も隠れる。
「こんなもんか」
ルディを上から下まで眺めたアイールは満足そうに頷き、
「んじゃ、出かけるぜ。そこの奴、持ってきてくれ」
部屋の隅に置かれた大きな背嚢と財布を示して、アイールは先に出て行った。
黒眼鏡の位置を気にしながら、ルディは財布を懐に収め、背嚢を背負った。
部屋を出て階段を下りると、広間に出た。立ち並ぶ丸卓とカウンター席から、酒場であることが見て取れる。どうやらここは、酒場を兼ねた宿らしい。まだ日が高いためか、流行っていないのか、客は一人もいない。
「出かけるのは良いが、時間には戻ってこいよ」
アイールと、恐らくここの店主と思われる男が、カウンターを挟んで何やら話していた。
「わ~ってるわ~ってる‥‥‥と、やっと来やがった」
ルディに気づいて、アイールはカウンターから離れる。その流れで、店主もこちらを見やった。
「来た時はやたらボロボロだったから気付かなかったが」
店主は、無遠慮にルディを眺め、
「上玉の嫁さんだな」
「よ‥‥‥っ」
そんなわけあるか──全力で否定しようとする前に、アイールの腕が回り、口元を抑えつけられた。
「手ぇ出すなよ? もがれるだけじゃ、済まねえからな」
冗談めかして、しかし冗談にならない事を言いながら、アイールはルディを引き摺って宿を出た。
外は喧噪の渦だった。
決して広くない街路に屋台が立ち並び、人波でごった返している。こんな状態では、膂力だの反応速度だのに意味は無い。大きな背嚢を背負っているのもあるのだろうが。
「どういう事だっ」
ルディは先を歩くアイールの背中に向かって喚く。この人波を平然と進むものだから、見失わないのがやっとだ。
「何で私が、貴様の〝嫁〟になどになっているっ!」
「その方が色々と誤魔化しが利くって事だ‥‥‥おっと、ここだ」
アイールは、人波から外れて寂れた雑貨店の前で立ち止まった。ルディも、人波をかき分けるようにしてアイールに続き、
「おっと、すまねえ」
旧人の男が、横からぶつかった。彼は適当に頭を下げて、雑踏の中に消える。ルディが文句を言う暇も無い。
「おい」
アイールは、ルディの懐を指差す。
「よ~く確かめてみろ」
「?」
言われたとおり、懐を調べる。特に何ともないし、何も無い。
「え」
何も無い──懐に入れた財布が、無くなっていた。
ルディは体中を調べる。が、やはり財布は無かった。
「! さっきの男っ」
ぶつかった際に、掠め取られたらしい。
「別に良いって。どうせ一メネア硬貨が二、三枚しか入ってねえからよ」
アイールは、自身の懐から別の財布を引っ張り出す。厚みを見る限り、どうやらこちらが本物であり、盗られたのは囮だったようだ。
「安心してる場合じゃねえぞ」
安堵の息を漏らすルディの額を、アイールは財布ではたく。
「お前はスられたんだ。懐に入れてた財布を、だ。しかも、俺に言われるまで、気づきもしなかっただろ」
旧人より圧倒的に優れた月人が──そんな言葉が暗に続いて、ルディの安堵は少しも残らず消えた。
「月精無しじゃ、お前は運動能力が良いだけのただの人‥‥‥そのつもりでいろ」




