自然の摂理
「今日はここで野宿だ。水汲みくらい出来るよな、カス子?」
アイールが示したのは汲み上げ用の桶ではなく、水を溜めておくための大樽の方だった。
ルディは、黙ってそれを持ち上げる。大きさと形のおかげで抱え上げなければならないが、月人の膂力なら小荷物の重さだ。
川べりにやって来たルディは、水をくむ前に顔を洗う──というより、頭から被った。日が落ちかけていることもあって少々冷たいが、今は丁度いい。冷たい水のおかげか、頭の熱が急速に冷えていく。
『出来るよな、カス子?』
冷えれば冷えるほどトーマの冷笑が繰り返され、怒りが沸いてくる。
「劣等が、偉そうにっ」
出来るに決まっている。
ルディは月路に蒼月精を走らせた右腕を、川面にかざす。思い描く形は、1ヌーラ四方の立方体。それを水中に構築し、持ち上げる。
すると──水面が静かに盛り上がり、思い描いた通りの大きさと形の水の塊が現れた。水中に障壁を展開することで、水を切り取ったのである。それを樽の上まで運ぶと、障壁の底に穴を開け、水を流し込む。それだけで、樽は満杯だ。
元々、高い月精行使能力を持っていたルディである。髪を切り落とされたことで、確かに月精術の効果は低下したが、それでも普通に使う分には、何ら支障は無かった。
「ふん‥‥‥っ」
何てことは無い。あとは、これを野営地まで運べば良い。自分なら、満杯の樽であっても造作は無い。
こんなのは使い走りだ。
実に簡単な仕事だ。
なのに、
「何をやっているんだ、私は‥‥‥?」
簡単な仕事をこなしただけで、自分は一体何を安心しているのか。
神童と呼ばれ、次期紫月皇筆頭候補として将来を嘱望されてきた。
そんな未来を、疑いもしなかった。
それが旧人一人に台無しにされ、その張本人にはカス子カス子と散々バカにされ、良いように使われている。
そんな事態など、想像したことも無かった。
想像したことも無いような状況が、今の自分の現実だった。
「‥‥‥っ」
吹いた風の音に、ルディは身を竦ませる。
自分は今、怯えている。
「た、ただの風だ。どうということは」
何とはなしに周囲を見渡して、
「?」
川の上流側数歩の位置にいたそいつと、目が合った。
「っ!」
ルディは、反射的に飛び退いた。
飛び退いたルディを、そいつは黙ってルディを見据えていた。
このエナ大陸を含め、郷星における人類の開拓はあまり進んでいない。それには、広大な大地や、大自然の脅威も、もちろんある。
だが、何より人類の開拓を阻むのが、餓獣と呼ばれる凶暴な生物だ。ランゴのような人類と共生する種も存在するが、多くの餓獣にとっては人類も糧の一つに過ぎない。中には、最新鋭の戦闘艦にも匹敵する強大な種も存在するという。
その中にあって、今目の前にいるのは、まだ可愛い方だろう。
高さはルディの胸元あたり、長さは尻尾まで合わせれば二ヌーラ近く、全身が茶褐色の体毛に覆われた、一頭の六足獣であった。
(確か、ガーマだったか‥‥‥)
以前書物で読んだ知識を、頭の中から引き出しながら見ていると、ガーマはずらりと並ぶ鋭い牙を剥いて、小さく唸った。明らかに、こちらを獲物とみなしていた。
「‥‥‥っ」
何かが触れたわけでもないのに、ざわりとした感触がルディの背筋に走った。思わず腰を探るが、竜車に置いてきた剣が、ある筈も無い。
その一瞬の、しかし決定的な遅れをガーマは見逃さなかった。六本の足全てで跳ね、その勢いで突進する。
月人の目には充分捉えられる動きだが、月精を放つには間に合わない。ルディは中腰の姿勢から拳を突き出した。岩をも叩き割る月人の拳は、矢よりも早く放たれる。そして、まっすぐ突っ込んできたガーマの眉間に向かい、
「え」
ガーマが真横に跳ねたことで空を切った──頭がそれを認識するよりも先に、右脇腹に衝撃を受けた。
「ぐっ‥‥‥」
遅れてやってきた痛みに膝をつきそうになる。見れば、右脇腹は頑丈な野戦服諸共食い千切られていた。食い千切った肉を、ガーマはルディの十数歩前の位置で咀嚼していた。
「獣畜生が」
ガーマの目は、バカにしたそれであった──ルディには、そう見えた。
「舐めるなぁっ!」
怒りのまま全身の月路を開き、炉心を臨界駆動する。
怒りのあまり失念した──月煌化は全身の月路に一度月精を回さねばならず、発動時はどうしても無防備になる事を。
一足飛びで肉薄したガーマは、その勢いのままルディに体当たりをかまし、さらに体重を乗せて押し倒した。衝撃で月煌化の発動が無効化され、ルディの体から紫紺の光が消える。
ガーマは、間髪入れずにルディの喉元を目がけて、その顎を大きく開き、
「ぎっ?」
その短い悲鳴が、ガーマの断末魔になった。
一瞬の硬直の後、ルディに覆い被さるように力なく倒れる。その右耳から左耳にかけて、長い矢が貫いていた。
「うっしゃ大当たりっと」
喝采を上げながら、弩弓を構えたアイールが駆け寄って来た。ルディの方には見向きはせず、声もかけず、ガーマの死体を川に引きずっていく。
そんなアイールの態度に眉をひそめ、立ち上がろうとして、
「~~~~~っ!」
右脇腹の傷に、思い出したように激痛が走った。
ルディは傷に手をかざし、月精を走らせる。発せられたのは、穏やかな翠の光──その力は肉体が受けた傷を癒し、あるいは肉体の持つ能力を高める翠月精である。治癒修復機能を促進されたことで、瞬く間に盛り上がり、傷を塞いでいく。
「便利だな、月精ってのは」
そこでようやく、アイールがこちらに声をかけた。
「だが、そんな力を持っていても俺が割って入らなかったら」
言いながら、アイールはガーマの頭を掴んで引き摺っていき、
「今頃こいつの腹ん中、と」
頭から上半身にかけてを川の中に沈める。
「恩に着たりなどせぬぞ。貴様が勝手にやったことだ」
言われっ放しが癪なので、つい悪態を返す。大人げないとは思うが、どうしてもこの男に頭を下げる気になれなかった。
だが、アイールは気にせず話を続けながら、腰に差していた短剣を抜き、
「ガーマに限らず、餓獣ってのはな本能で生きてんだよ」
水中のガーマの喉元を切り裂いた。
「本能で生きてるから、獲物になるか否かを見分けるのは、死活問題だ。つまりお前は」
開いた傷口から噴き出た血が、川の流れによって運ばれて行く。
「お前の言うところの獣畜生にとってすら、獲物になる弱者ってことだな」




