第三話 再開と故郷
すべてが遅く感じられる時間の中で、手強い問題にぶち当たっているときはその流れが早く感じられるということは誰しもが経験したことがあるだろう。それは緊急の仕事であったり、試験問題を解くときであったり……人の体というものは気まぐれである。
以前、エルが館に居るときは、時間は有り余るものであり、早く過ぎ去るものであった。一縷の望みをかけて、時には諦めるまで、時にはやめさせられるまで。ともすれば空疎になることを認めてしまいそうになる自分の人生を、彩るためにがむしゃらに過ごす日々だった。
夢の中でエルは、過去の自分を上から眺めていた。一人一人と減っていく周りの人を追わず、徐々に自分の世話をし始めると、以前は彼と親しく話していた侍従に嫌みを言われて廊下をすれ違うこともあった。
そして一人になり、彼は寝ることが多くなった。そのうち寝ることにも飽きを感じ初めて、彼は、倉庫から本を拾ってきて読み始めた。そして、おもむろに読んでおもむろに寝て、周りの視線やいやがらせに耐えながらご飯を食べて寝る。ただただ長い一日だった。……場面が変わった。荘厳な部屋と、成人の儀を執り行うきれいに飾り付けられた妹を見て、彼は悟ったのだ。
終わった
この時点で、唯一彼のアイデンティティとなっていた家督継承権は失われた。そして、その後に昼寝をしていた彼に何年かぶりに声を聞いた執事があの言葉を告げたのだ。
「すいません、もうそろそろ時間ですので……」
エルはその言葉を聞いて、文字通り飛び起きた。彼の手が震えていることと、目の焦点が合っていないのを見て、職員は何を勘違いしたのか、一瞬だけ憐れみの視線をエルに浴びせ、すぐに顔を取り繕い、エルを傷つけないかのように優しい声色で言った。
「あー……頑張ってください。大丈夫、明日の筆記試験はそんなに難しくないですよ。今日はしっかりとご飯をとって、夜更かしをしないようにすれば大丈夫です」
そういって職員はエルの肩に手をのせる。その感触で目の焦点を戻したエルは、慌てて感謝の言葉を告げた。そして、エルが片付けを始めたのを確認して、閲覧室から出ていく。片付けの作業をしながら閲覧室を眺めていたエルは、窓に飾られている花が、夢の中の式で使われていた花と同じだということに気がついた。
「もう、あれから3年になるのか」
半ば追い立てられるようにしてギルド書庫を出たエルの足取りは重い。今の状況に後悔を感じないということは無かった。その後ろ向きな思考を表してからか、気分も重くなる。視界が狭くなる……いつもできている簡単なことが出来なくなっていき、周りの空気を読めていないことになかなか気付かない。最初にエルが町の様子に違和感を覚えたのは、ギルドを出てしばらくした所にある酒場の人の数が少ないことだった。そして、この一週間でお互い顔を知っている程度にはなった酒場の店員がこちらを見て、小さく手招きしたのを見てからその疑問がさらに深まる……テーブルの上に食べている途中の皿がのっているのに、ビールの瓶は一つもないのだ。近づいてきたエルに、酒場の店主がささやいた。
「お前の宿に亜人排斥を訴える集団が向かった。酔っ払いじゃない、素面で、大勢だ」
居てもたってもいられず駆け出したエルが異変に気づいたのは、いつもより多い人混みを抜け、宿の扉を開けてからだった。罵声と、何かを殴る音。時々聞こえる笑い声は、一時エルが聞きなれた音で、否応なしにさっき見た夢がフラッシュバックした。
「亜人はな、そうやって蹲っているのがお似合いなんだよ!」
打撃音、その光景を見て、エルは、彼が自覚しないままに一歩後ずさった。泳ぐ目が、真横に人がいるのを見つける。
突然、その人がエルの方を向いて、微笑んだ。
「ここにいたのか‥…駄目じゃないか、夜遊びをしちゃあ」
気付かなかった、いや、気付きたくなかったのかもしれない。その声は確かにフェアラスのものだった。顔も変わっていない。だが、その目は虚ろで、涎を拭かずにいるその様子は、ただただエルに恐怖を与えると同時に、ある程度の察しをつけさせた。エルに時間はなかった。フェアラスは明らかに限界一歩手前であり、かといって、周りの人々は亜人側に味方をする動きはない。動けるのは彼だけであった。
この状況からエルが察したのは、この事件が単にちんぴらの集団による短絡的なものではなくて、鍛えられた大人一人の正気を失わせる手段を相手が用意しているという事。また、用意できたということである。そしてこの大きさの人だかりができるまで巡回がきていないということは、この計画的な犯行が多くの下調べをもってされていたということ、そして、宿に出入りする人が監視されていたと十分に考えられるということだ。
エルは、自分の足がすくんでいることに気づいた。
「ん?」
フェアラスの声に反応して、暗い金色の髪をした、やや痩せ型の背の高い男がエルの方へ顔を向ける。固まっている彼を見て、男は人好みのする優しい笑顔を浮かべた。
家庭内では--もし家庭を男が持っているとすれば--いい人なのだろうな、そんな事をエルは思った。だが、彼の後ろには未だに暴行を受けている少女がいて、フェアラスをこんな状態にした集団の一員でもあった。
「あの、ここで宿を取っている者なのですが……どうかしたのですか?」
逃げてはいけない、逃げた瞬間、エルに対する相手の印象は大なり小なり悪化する。状況からして亜人側に明らかに味方するわけにも、自分の信条を考えると見て見ぬふりもできない。
案の定、その言葉に反応しかけた男が、咄嗟にリーダー格と思われる横の男へと耳打ちをした。そして、された男はエルをみて、納得したように頷いた。
「彼は旅人だ、7日前位にそこの男と門を通っているのを見た」
大柄で、白金の色をした髪の、どっしりとした声がエルの耳に届いた。それを聞いたやせ形の男が少し険しい顔をしてエルの方へ向き直る。数秒の沈黙の後、ぐったりと倒れている彼女を指差しながらいかにも深刻そうに彼が口を開いた。
「君、この子についてどう思うかね」
前置きも何もないその言葉に空気が重くなり、店のなかにいる全員が一人の少年の方を向く。すがるように金色の瞳を少年に向けた少女とは対照的に、その目は一様に狂気の色を帯びていた。そんな中、エルはまるで手の指の本数を尋ねられたかのように事も無げに返答しようと努めた。
「どう、とは。亜人でしょう?おそらく兎族のではないですか」
その言葉に、男は微かに苛立ちを含んだ声で、聞き返した。
「だから、亜人がこの場にいて、こうなっていることに君はどういった風におもうのかね」
同時に、鐘が鳴る。少年が再び口を開いたのは、音が止んだ後であった。この無駄な時間に耐えきれなくなったのか、男達のうち一人が舌打ちをして再び彼女の耳を掴もうとした事をエルは見逃していなかった。
「亜人に対する扱い方は領地によって様々だとは思う。僕の領地では虐げられていたし、大多数はそうだと思う」
一般的な、騒動に巻き込まれたくない人が言うそのセリフ。エルがそこまで言うと、男たちの間に安堵が広がるのが見えた。自身の無力さをかみしめながら、理性的な自分はこの事件への無関与を勧める。エルは一歩足を踏み出した。それにつられて、数名の男が後ずさる。何をそんなにおびえているのだろうか、エルはいぶかしみながらも一拍の間を置いた後なにかを噛み締めるようによく通る声で言葉を紡いだ。自分でも何をしようと言うのか理性的に考えているわけではない。
ここで死んでも困ることは何もないのだ。宿屋の人の命は助かるし、大勢の前で旅人を殺した彼らには多少なりとも罪が科せられるだろう……
「(自棄になるってことはこういう事なんだろうなあ)」
何せ、自分にはこの事に関わる責任も義務も、権利すらもないのだ。ならいっそ、やるところまでやろうか……
腰の剣に手をかけたエルを、男たちは驚愕と、信じられないとでも言いたげな疑いのまなざしで見つめる。それでも、エルの空気の変化を感じ取ったのか娘をなぶり続けていた残りの男たちもこちらを向いた。
「はいはい、こんばんはー」
出し抜けに、街の紋章が刺繍されている革鎧を身に付けた男が宿屋に現れた。その場にいる全員に見せびらかすようにして宿の中を見たその男は、大きく手を叩いて告げる。
「亜人はどうなろうといいんだけどね、元同僚が叩きのめされた挙げ句に冒険者志望の外の人に危害が出るようなことになったら困るんだよね。目標を達成させられなくて悪いけど、ここはお引き取り願えるかな?……それとも、巡察官とやりあうかい?」
そういいながら先程のエルと同じようにゆっくりと男が足を踏み出すと、暗い金髪の男は力なく頭を横に振り、時間切れか、と一言呟いた。
「全員撤収だ。……クソ、その坊主に一本取られたなこりゃ」
その言葉に、襲撃者のなかで一番年の若い男が納得いかないといった表情で、亜人に一発蹴りを入れた。それを最後にぞろぞろと男たちが宿を出ていった後、途中から入ってきた男も踵を返す。その様子を見たエルは、慌てたように男を呼び止めようとした。その男は呼び掛けを無視していたが、宿から出ようとした時にぽつりと呟いた。
「借りは返した。貸し一つだとそのバカに言っておいてくれ」
そういって男が宿から出ていくのと、兵士が宿に入ってくるのに、時間差はほとんど無かった。
形式的とも言える事情聴取のあと、薬によって少し正気を取り戻したらしいフェアラスは兵士とともに去って行った。店内は荒れたままであり、ファーリアとその娘の元気もない。かける言葉もなく立ちすくんでいると、娘は奥へ引っ込んでしまった。ファーリアはそれを見て、自身の傷を治療しながら話し始める。
「仕方ないのさ……領主さまと王様がいくら平等宣言をしても、私たちは悪い亜人で、人の出来そこないさ。マシになったとはいえ節々にその悪意は見えるから」
男たちを前にして何も出来なかった自分が彼女を慰め、元気づけても良いのだろうか。エルは動く事が出来ない。先程の生々しい打擲音が脳裏をよぎる。そんな彼を見てかは分からないが、ファーリアは笑みを浮かべて言う。
「ありがとう、助かったよ。君が時間を稼いでくれていなかったら娘はもっとひどいことをされていたかもしれないんだ……言いたい事はあるだろうけれど明日は大事な試験だろう? 今悩むべきは明日何が課題として出されるかであって、そのあとにまた考えればいいのさ」
エルはファーリアを見ることができなかった。気づかいは無碍にするべきではないと思ったし、この問題は一市民が口をはさむべきものではないと感じたからである。そして何より、浮かべている表情はおそらく自分のコンプレックスを刺激するものであろうと言う事が容易に想像できたからでもある。
「そう、ですね……」
少しの沈黙のあと、ファーリアはいつもと変わらぬように言うのだ。
「さて、今日の夕食は腕によりをかけたんだよ。なんたって唯一の客の一世一代の山場だからね!」
エルが顔を上げると、ほとんど傷が無くなった女将の笑みが見える。それを見て彼は少しだけ恐怖を覚えるのだ。彼女にも、そう思ってしまう自分にも。
人種とは似通っていながら、人種には無い力を持つ。それらが生活になじむのはいつになるのか。その答えを知っているのは今は誰もいない。