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アイス・ドールのインプリント

作者: やしろ



 空にはどんよりとした雲が立ち込めている。冷たさを含んだ風が、ときおりびゅうと吹き付けた。

 街の雑踏の中を、ノインはカツカツと歩いてゆく。

 足を進めながらノインは、昨夜の社交界のパーティを思い返していた。そのとき上着の胸ポケットに入っていた招待状は、彼が一人の青年実業家として認められたという証だった。

 ――やっと、ここまできたのだ。

 通りに並ぶ窓に、灰色の雲が一面に映りこんでいる。雲と、ときおり現れる青空と、通りを歩く人の波と、室内の様子が、歩くたび入り乱れて窓にあらわされる。

 ある窓の前を通り過ぎようとし、ノインは、はっとして振り向いた。

 カフェの店内に浮かび上がる、女性の白い横顔。

 ノインは一歩引き返し、勢い込んで目の前のドアを開けた。ドアの上部についていたベルが、ガランガランと騒々しい音を響き渡らせる。

 普段なら、ノインはこんな庶民的なカフェになど入らない。もっと、高級なレストランかバーを選ぶ。しかし、そのときのノインには、そんなことなどどうでもよかった。

 ただ、確かめねば、と。この女性があの人なのかを。

 彼は、トレイを持って奥へ引っ込もうとする女性従業員の腕をひっつかみ、ぐいと振り向かせた。

「――お嬢様!」

 その瞬間、彼は確信した。

「……このようなところで、何を、なさっておいでです」

 怒りと憎しみで、声がわずかに震えた。

「なにって、私、ここで働いているのよ」

 突然の邂逅に目を瞬かせたがそう言って、七年前に別れた、かつて少女だった女性はにこりと笑んだ。

 この人は、アイス・ドールと呼ばれていた無感動なノインに、初めて感情を与えた人だ。

 ――そう、憎しみという感情を。



 ノインは孤児だった。

 そんな彼を引き取って、十五の歳まで育てたのは、ユーベルという名の学者だった。少女セフィリアと出会ったのは、ユーベルに連れられて行った彼女の邸でのことだ。

 欠落しているのかと思うほど感情の鈍磨したノインは、人形のようだと言われていた。氷の人形、アイス・ドールと。笑みどころか、怒りも、悲しみも、ノインは持ち合わせていなかった。

 ユーベルがこの邸にノインを連れてきたのは、彼の将来を憂えてのことだ。ユーベルは邸の主人であるブランを、ノインに引き合わせた。

「私はもうすぐ仕事で外国に行かねばならないが、そのあいだノインを預かってくれるところはないかと思ってね。ただ、この子も、もう十五なのだから、そろそろ独り立ちのことを考えて、どこか信頼できる働き口を紹介してもらえないかと思ったんだが」

「ふむ。見たところ、体力はありそうだな」

「特に訓練を積んでいるわけではないがね、まあ同じ歳の子なら、彼と喧嘩しても敵わないと思うよ」

「それなら、娘の護衛役によさそうだな。比較的歳の近い方が、セフィリアも気が楽だろう。住み込みということで、どうだね」

「おお、君のところで雇ってくれるのか。願ったり叶ったりだ」

 目の前の会話を他人事のように眺めているうちに、ノインの身の振り方は決まっていた。



 セフィリアに護衛を、というブランの懸念は決しておおげさなものではなかった。この辺りではそれなりに名の通った富豪ブランの娘を、誘拐しようと待ち構えている連中がいないわけではなかったからだ。

 忙しいブランが四六時中セフィリアについているわけにはいかなかったし、大人の使用人がついているのにも限りがあった。なにしろセフィリアはまだたったの九つだったのだ。どんなところにも潜り込んでいってしまう、子どもの好奇心と身軽さに対応するためにはやはり子どもが必要だった。常に誰かがセフィリアの傍についている、というだけで、充分抑止力にはなる。

 そして意外にも、セフィリアはノインを気に入った。

 大人には、何を考えているかわからない子ども、にこりともしない子どもとして不気味がられていたノインだったが、嫌悪や反発の感情すら持たない彼は、セフィリアの要望に容易に従ったからだ。

 感情は錆付いたナイフのように鈍かったが、ノインは決して愚鈍な少年ではなかった。自分の雇い主がブランであることを第一に理解しており、その命令とセフィリアの「お願い」が矛盾する場合には聞き入れようとしなかった。彼はプログラムされた機械のように頑なだったので、セフィリアも情に訴えることはできず、おとなしく聞き分けた。

 そうして彼は、セフィリアの隣という、確固たる場所を手に入れた。



 破局は、四年後のある日、唐突に訪れた。

 その日もセフィリアにせがまれ、ノインは彼女を連れてヒースの丘に足を向けた。

 見渡す限りエリカが咲き誇り、薄紫の絨毯が敷かれているかのようだ。風は冷たく吹き付けていたが、空は、雲ひとつない、抜けるような青空がどこまでも広がっていた。その解放感は、自分たち二人だけしか存在しないような錯覚を起こさせた。

「……このヒースはもう見納めなのね」

「来週だろうと来年だろうと、見ることはできると存じますが」

 セフィリアの言葉に、ノインは訝しげに応じた。

「ううん、あのねえノイン、私たち引っ越すことになったのよ」

「そうですか。どちらへ?」

「ノインに……言う必要はないわ」

 躊躇いがちに滑り出た言葉に淡い疑問が浮かんだが無表情のまま、ノインはセフィリアをじっと見つめた。使用人に、すべてを告げる義務はないと思っているのだろうか。

 きっ、と顔を上げて、こちらを見返したセフィリアの目には、強い拒絶の色が浮かんでいた。

「だって、行くのは私たちだけだもの。ノインは必要ない、要らないのよ」

 たったそれだけの、情のない一言で、セフィリアはノインをあっさりと切り捨てた。

 ――まるで、要らなくなった玩具を捨てるように。

 その瞬間、ノインのプライドは確かに傷ついた。

 そして彼女らが去ったあと、くすぶった火が燃え上がるように、ノインの心にじわじわと憎しみが生まれた。その火はいまもくすぶり続けている。

 彼に初めて感情を与えた者の名を、彼は決して忘れない。



「私に、感情などないとお思いでしたか。生憎、そうでもなかったようですよ。私はあなた方を憎みました。その気持ちをバネにここまで出世しましたがね。まったく、あなた方のおかげですよ」

 そう言って、注文のコーヒーを出したセフィリアを見上げたノインの目には、優しさの欠片もなかった。

 彼はセフィリアたちが邸を出て行ったと同時に、あの街を遠く離れた。彼らがいなくなったあとも囁かれるであろう、彼らについての噂話など聞きたくはなかったからだ。

「既に私も使用人ではありませんし、突然私を捨てた理由を伺いたいものですがね」

「……そうね」セフィリアは溜息を吐いた。「父は、事業が破綻して破産したの。あの日は、抵当に入っていた邸を今にも追い出されようかという頃だったわ。あなたたちをその先もずっと雇う余裕なんて、私たちにはなかったのよ」

「……へえ」

 思ったよりも冷たい相槌の声が咽喉から出た。その話を聞いて、なんの感慨も抱かなかったことは、我ながら意外だった。憎しみは、今も薄まりはしない。自分がそんなにも強い感情を持つことができるとは、ノインは思っていなかったのだ。

「私をあのように追い払ったのは、プライドのためですか、同情されたくなかったからですか。それで私がこのように出世して、あなた方が落ちぶれたままだとは、とんだ喜劇ですね」

 ゆっくりとコーヒーを啜るノインを、セフィリアは唇を噛み締めたまま、黙って見つめている。

 実際、お嬢様だったセフィリアがこんなところで働いているのは、その後の生活も上向きにならなかったからだろう。話を聞けば、ブランは身体を壊してフルタイムでは働けなくなり、優雅に暮らしていた奥方も外に働きに出ていると言う。そしてセフィリアは働きながら大学に通っている苦学生だった。

「私は薄情なあなた方とは違います。望むなら、経済的な援助をして差し上げてもよろしいですよ。仮にも世話になっていた身ですからね」

 そう申し出るノインの口元には、冷たい笑みが浮かんでいた。



 結局、セフィリアはノインの申し出を断った。

 しかし、ノインはセフィリアの勤めるカフェに通い詰めるようになった。なぜなのかは自分でもわからない。自分がこんなにも忘れえぬ傷を受けたのだから、彼女もそれ相応の思いをするべきだと思ったのかもしれない。

 ときおり、ノインは話を蒸し返し、援助のことを臭わせた。しかし、セフィリアの返事はいつも同じだ。

「なぜ断るのですか、お嬢様」

 いまはもう、彼に対して何の権力も権威も持たない彼女をそう呼ぶのはノインの皮肉でしかない。

「いくら過去のことだとはいえ、使用人ごときに施しを受けるいわれはないと?」

「そんなこと言ってないじゃない!」セフィリアは、はっとするような声を出した。「……ただ、いまは何の関係もないあなたに、お金を出してもらうような理由がないだけよ」

「理由など、作ればいいのではありませんか? 取り入って、財産を手にすることも選択肢としてはありますよ」

 婚姻を臭わせる言葉に、セフィリアの顔は真っ赤になった。それが、恥辱のためであればいいとノインは思う。

 ただ、彼女を傷つけてやりたい。

 プライドを犠牲にして、施しを受ければいいのだ。ノインは薄く笑った。彼の援助なしではやっていけなくなるような屈辱を味わえばいい。

 もちろん、本当に結婚を迫るようなことがあれば、手ひどく拒絶するつもりだった。

 だが、彼女にはそのような兆しの片鱗も見えない。

 ノインの苛立ちは募った。



「ノイン、そろそろやめとけば?」

 そう言って友人のシュルフが杯に伸ばす手を遮り、ノインは琥珀色の液体を飲み干した。

「……もう一杯くれ」バーのマスターにそう告げて、彼はさらに杯を重ねてゆく。

「だから、ほんとにやめとけって」

 シュルフが呆れた声を上げたが、ノインは既にかなりの酩酊感を覚えていた。

 彼が味わっていたのは敗北感だ。自分は成功者なのに、やっとそれなりの力を手に入れたのに、唯一屈服させたい相手は、なにひとつ思い通りにはならなかった。

「……こんなはずではなかった」

 それを言うなら、セフィリアと再会したことがそもそも、想定外のことだったのだ。それがこんなにも日常を侵しているとは思いもよらなかった。

「だいたいおまえ、なにがそんなに気に入らねえの?」

 シュルフが、ちくりと痛いところを突いた。

「当時って、お嬢様もまだ十三だったんだろ。親父が破産して、使用人全部解雇して、いままでの生活が一変するんだぞ。不安に思わないわけないだろ。おまえに嫌われたくなかったとか、おまえの記憶の中ではいつまでもお嬢様のままでいたかったとか、理由はわかんねえけど、おまえに悟らせずにきっぱり解雇を言い渡した、ってのは偉かったと俺は思うよ」

「うるさい」ノインは、さらに杯をあおった。

「だいたい旦那様だって、いくら知り合いの縁だとはいえ、見ず知らずの子どもをいきなり自分の娘と二人きりにするか? おまえが頑なで、友達なんかいなさそうだったから、自分の娘と仲良くさせてやろうとか、そういう優しさだったんじゃねえの」

「聞きたくない」ガタンと音を立てて、ノインは席を立った。「帰る」

「おお、帰れ帰れ」

 そう言って、シュルフは振り向かずに片手を振った。

 ノインはふらつく足取りのまま、冷たく凍える夜の街に足を踏み出した。自分はなにかを恐れている。それはなんなのだろう、わかりかけてはいたが、まだ知りたくはなかった。

 しばらく歩いていると、前方から歩いてくる人影が、あれ、というように顔を上げた。

 ノインは一瞬、夢かと思った。その人影の正体がセフィリアだったからだ。

「……ノイン! どうしたの? ずいぶん酔っているようよ」

 わからない。どうしてノインを見る彼女の瞳には、憎しみの色や軽蔑の色がないのだろう。

「……お嬢様。寄らないでください」

 拒絶したノインに、初めてセフィリアの目に傷ついたような色がかすかに浮かんだ。しかしそれを見ても、ノインの心にはわずかな勝利の喜びも浮かんではこなかった。

「近寄らないでください。でなければまた、私はあなたを傷つけてしまう」

 ――ああ、本当に自分は酔っている。



「――ねえ、本当に、どうしたの、ノイン?」

 不用意に近づいて、心配そうに彼の頬に触れたセフィリアを、ノインは思わずきつく抱き締めた。

「ノ、ノイン!?」

 驚いて身じろぎするセフィリアに構わず、ノインは腕の力を骨が軋むほどに強くする。

「私は認めたくなかったのです。あなた方が優しかったことを、確かになにがしかの愛情を注がれていたことを。――認めれば、私は、それを失った事実もまた認めなければならない。それが、耐えられなかったのです。私はこの七年間ずっと、あなた方のことばかり考えて過ごしてきました。それが悔しかったのです。私がどれほど執着しても、あなた方は私を必要とはしない、私を切り捨てて行ってしまう。――現に、あなたの心に憎しみの傷をつけることすら私にはできませんでした」

 力なく垂れた腕から解放され、セフィリアはノインの顔を見上げた。

「私はただ、あなた方を愛したかっただけなのに」

「ノイン……」

 セフィリアは、袖口でノインの頬をそっと拭った。彼の頬には、涙の筋が流れていたのだ。

「一つだけ……一つだけ、教えてください。どうしてあなたはあんなやり方で、私を拒絶したのですか。あれが、今生の別れだったかもしれないのに」

「――あなたが、忘れてしまうと思ったのよ。わけを話せばあなたは納得しただろうけど、そのために、なに憂えることなく私たちを忘れてしまえたわ。だから、わざと傷つけたの。なぜ、って思ったでしょう、人の気持ちを知りたいと思ったでしょう。私はあなたに、人に対する興味を持ってほしかったのよ、自分の殻にばかり閉じこもらずに」

「お嬢様……」

「そう、わざと、だったのよ」

 セフィリアの瞳は不安に濡れていたが、しっかりと、ノインを見つめた。二人の視線が交錯する。

「ひどい、ですね。それを悔いているのなら、償いをしたいと思うのなら、私が傷ついた分だけ、私を幸せにしてくださらなくては――」

 そこで、アルコールが回りきったのか、ノインの意識は暗転した。



「うんと濃いコーヒーを、一杯ください」

 ドアベルのガランガラン鳴る音すら頭に響き、ノインは頭を押さえたままテーブルの前に腰を下ろした。

「とんだ二日酔いね」

 呆れたようにセフィリアが、注文の品をテーブルの上に置いた。

「……すみません、昨夜は酔っていたのです。妙なことばかり言いました」

「ねえ私、まだ言っていなかったことがあるの」セフィリアは軽やかな口調でそう言って、ノインの向かい側の席を陣取った。「あなたを傷つけた理由はもう一つあったのよ。私は、あなたを傷つけても――たとえ憎まれても、ノインに忘れられたくなかったの」

 ノインは、ぱちくりと目を瞬いた。

「――だから、昨夜の続きを聞きたいんだけど。幸せにしてくれなくては、って言ったわよね」

 その意図を悟り、ノインの頬は熱くなったが、彼は落ち着いて、ゆっくりと目の前のセフィリアの手を取り上げた。

「セフィリア様。私と、結婚してくださいませんか」

「――よろこんで」

 セフィリアは、花が開くように微笑んだ。

 その顔が見たかったのだと、その笑顔を我が物にしたかったのだと――そう、ノインは思った。



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