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何もかもが簡単なら成長はない

掲載日:2026/04/22

 ネットを見ていたら「万葉集は難しくない」といったエッセイを見かけた。こうしたタイトルの記事を私はよく見る。

 

 「万葉集は難しくない」「ニーチェは難しくない」「ドストエフスキーは難しくない」「カフカは難しくない」「源氏物語は難しくない」「カントは難しくない」………etc.

 

 多分、世の人々にとってありとあらゆる事が「難しくない」のだろうと私は思う。…いや、そうではなく、ありとあらゆるものが「難しくあるべきではない」という事なのだろう。

 

 同じ事だが「賢い人はわかりやすく伝えるのがうまい」という言い方で、わかりやすく伝えない事が非難される事がある。

 

 実際のところ、賢い人が人にわかりやすく伝えられるかどうかはその人のしている事とは直接関係はない。難しい数式でノーベル賞を取った人が、一般向けのわかりやすい入門書を書いたかどうかは、その人の成した価値とは別のカテゴリの話となるだろう。


 しかし現代では「わかりやすく」て「難しくない」ものが好まれる。

 

 それでは、難しくもなく、わかりやすいものに囲まれている現代の人々の価値観とはどういうものなのだろうか。そうした価値観が吟味される事はないのだろうか。

 

 私は大衆というのは自己吟味が欠けているという問題があるのではないかと思う。彼らは反省しない。彼らは他人を反省させる。わからないのはわかりやすく説明できないお前が悪い、というわけだ。

 

 これらの人は数の力で世界に対して猛威を振るっている。しかしこれについては過去に散々言及したので、繰り返さない。

 

 こうした人達は自分が骨折って山を登る事を拒否する。彼らは山が降りてくるのを求める。あるいは山の頂上までヘリコプターで登れば「コスパが良い」だろう、何故わざわざ登らないといけないのか、と言う。

 

 私が彼らに対して思うのは、彼らは自ら移動する事がないので、人生に「道」がないという事だ。彼らは動かない。全ては彼らの所まで降りてくる。彼らはそれを消費する。ニーチェでも何でも、彼らの趣味として消費される。そうしたものは彼らの価値観を補強する為に使われる。

 

 人生において成長するという事は移動するという事だ。移動する為には憧れを持たなければならない。自己を否定しなければならない。自己を否定し、自己を変化させなければ、山は登れない。

 

 ふがいない自分、情けない自分というものを率直に認めなければならない。自分が「足りない」人間だという事を認めなければならない。が、彼らは自己を肯定する。「ありのままのあなたでいい」 ポップソングは絶叫する。「難しい話はやめて」 これもポップソングの歌詞によく出てくる。

 

 今ある自分を否定し、新たな自分になろうと望まなければ成長はない。その為には、憧れの対象が必要となる。憧れそのものは何でもいいのだが、それは高いものである必要がある。

 

 人が人生の中を移動していくのは、絶えざる自己否定の果ての成長があるからだ。しかし何一つ難しいものがない、簡単なものに囲まれた人々には成長はない。

 

 ありとあらゆるものが彼らを甘やかす。権威のある知識人も時には金を稼ぐ必要がある。となるとまずは大衆に媚びる必要がある。そこで、大衆に対して「そのままでいいんだ」というメッセージを込めた入門書を出す。

 

 大衆に対して「学問に王道なし」などとは言ってられない。「「王道」なんて古臭い、ゴール地点までさっさと連れてってくれ」と非難されるだけだ。

 

 こうした人には道がないし、人生における「移動」、「空間」も発生しない。

 

 空間が発生しないという事は、時間が発生しないという事でもある。時間も空間も滞留し、ひとつのところにとどまる。

 

 進んでいく人間は自らを否定しながら前進していく。前進するとは、より困難なものを求めるという事だ。

 

 だが、最後には全ては「平明なもの」となるだろう。私は、そういう気がする。この文章では触れられないが、成長というものは「簡単」→「難しい」→「簡単」と変わっていく気がしている。

 

 もっともこの文章で問題にしているのは2番目の「難しい」だけだ。難しいものはこの世に何一つないのだから、これらの人々は移動する事もなく、成長もせず、自己を維持し続ける。

 

 現代社会では奇妙なほどに老いる事が恐れられているが、それというのはそもそも人は「成長しない」という事が当然だからだろう。成熟した人間など想像する事すらできない。だから、若い事に価値があるとされる。

 

 変化がないのだから、表面の肌艶だけは良い方がいい、というわけだ。この社会では老いる事が極度に恐れられている。未熟であるのが当たり前だからだ。

 

 このような社会で人は成長する事もなく、あらゆる簡単なもの、あらゆるわかりやすいものに囲まれて生きていく。彼らは王であり、追従者は掃いて捨てるほどたくさんいる。権威ある者も追従者の一人にならなければ自分のポジションはなくなってしまう。この世界は未熟な人々の群れと、その取り巻きで構成されている。

 

 こうした人々は、成長する事も成熟する事もない。こうした人々に対して他人は自分を投げ出し、彼らの水準に合わせなければならない。それが当たり前となっている。今や厳しい玄人などは嫌われるだけだ。

 

 成熟のない人々は成長しないので、時間というものが積み重なっていかない。彼らにとって老いる事は「劣化」しか意味しない。水準は変わらないので、基本的な能力や容姿の低下がそのままその人間の価値の低下となる。

 

 私として一言言いたいのは、こうした人々には他人の「成長」や「成熟」というものは理解できない、見えないという事た。彼らには「道」がないので、「道」がある人生というものが理解できない。全ては賑やかしの、その場限りのパーティーという事になる。

 

 このような世界の中で自らの時間を作り出し、成長していく事は辛い事には違いない。しかし、そうした事は本質的な意味で「価値」を持つと私は考えている。

 

 何故それが価値なのか? 考えてみるなら、人間存在そのものが過去からの膨大な時間の凝縮としてあるからであり、おそらく人は、自己意識とか知性とかいう形によって、その凝縮そのものを意識し、それ自体を統合し、より高いものに高めていくからであろう。

 

 これは曖昧な言い方となるが、それは例えば、「歩く」という行為が過去からの膨大な時間の凝縮を詰め込んだ叡智的な行為であるのに対し、その事自体を意識して、「歩く」という行為を自らの努力によって再構成する事、これは自然に手を加えるという事を意味する。

 

 ゲーテは花は自然だが、花輪は芸術だ、と言っていた。自然に手を加えるのが人間の本質的な「道」だとすれば、時間を作り出すとは自らの生の自然的時間に人間的な意識や知性を導入して改変していく事を意味するだろう。

 

 私の言う「道」はそのようなものだが、自然的な時間のみを受け取り、それ以上には進歩しようとしない人々には「道」も「時間」も生まれる事はない、と言っておく。人々が老いを極度に恐れるのは彼らには自然的時間しかないからだ。

 

 この世界では成熟には意味がなく、年齢を重ねる事は恐怖でしかない。しかしこのような世界においても私は、自己意識と自然との対話的な協生によって「時間」を作り出していく事は、より大きな時間軸においては意味のある行為だと考えている。


 注:この文章では「わかりやすさ」全体を悪のように書いているが、それは「わかりやすさ」が猛威を振るっているからに過ぎない。実際、この文章の中で私は「登山」や「花輪」の比喩を用いて、読者に「わかりやすく」伝えようとしている。


 「わかりやすさ」それ自体は悪ではないが、それは言ってみれば登山の際の入口近くに置いてある標識のようなものであって、登山のとっかかりとはなっても、山頂を地面に移設するようなものであってはならないだろう。


 注2:同様に「難しい」から即それが良いとは限らない。ただ何事でも熟達していけばそれが初学者からみて「難しい」ものになるのは普通の事だと考える。

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