遅刻の朝
携帯電話とかが普及する前の話だよ。
その年も、プロ野球の「春季キャンプ」が始まった。
数日後だ。一人の選手がベッドの上でぼんやりしている。
ここは二人部屋だ。しかし、相方の姿がない。
うっすらとだが覚えている。相方が何回も、起こそうとしていたような・・・・・・。
けれども、自分はこう返した。
「あと五分だけ」
「あと五分だけ。次で起きるから」
「あと五分だけ。これが最後だから」
「あと五分だけ。ファイナルシーズン・第一章」
それが積み重なっていき・・・・・・。
ようやく頭が、今の状況を理解する。
(寝坊したーっ!)
朝から『ムンクの叫び』になる。
時計を見るのが怖い。
が、見ないわけにもいかない。
壁のアナログ時計に、おそるおそる目をやる。
見えた時間は、
(午前十時っ!)
午後十時で時計がたまたま止まった、というのはなさそうだ。窓から差し込む光が、きっぱりと否定している。
(ど、どうしよう。監督とコーチに無茶苦茶怒られる!)
とにかく、急いで野球場に行かないと。で、誠心誠意謝るのだ。
とはいえ、まずはおなかに、何か入れておいた方がいい。空腹のままだと、練習に支障をきたす。
遅刻した上に、へろへろと練習していたら、
(本気であるぞ、二軍落ち)
そこで気づく。
テーブルの上に、菓子パンがいくつか置いてあるのだ。
(助かった)
相方に感謝しながら、パンを口に放りこむ。
そのあと、自分新記録のスピードで、用意を済ませた。
部屋を飛び出す。廊下をダッシュした。
このホテルは球団の貸し切りになっている。ホテル内に他のお客さんはいないので、その目を気にする必要はない。
すぐにエレベーターが見えてくる。
(おっ!)
幸運なことに、その一つがちょうど、この階で待機中だ。
(これはついている♪)
世の中、悪いことばかりでもないようだ。エレベーターが来るのを待たなくていい。
ダッシュしてきた勢いそのままに、エレベーターの「下ボタン」を押す。
で、ドアが開いたと思ったら、
「うぎゃああああああああああああああ!」
惨事が待っていた。
その頃、野球場のグラウンドでは、
「あいつ、そろそろ起きたかな」
監督とコーチがにこやかに会話していた。
「うまくいくといいですね」
ホテルのエレベーター、その一つに仕掛けがしてある。
ドアが開くと、中にある野球のボールが、外に向かって雪崩を起こすのだ。ボールの数は二〇〇個。
「あの仕掛け、結構大変だったんですよ」
そう言って笑うコーチは、十分前に野球場に着いたばかり。エレベーターの中にボールをセットするのに、時間がかかったのだ。
この三〇分後、寝坊した選手が青ざめた顔で、野球場にやって来た。
「明日からは絶対に遅刻するなよ」
監督とコーチはにやにやしながら、軽いお説教で済ませる。この選手を二軍には落とさない。これほどショックを受けているなら、このキャンプ中はもう遅刻をしないだろう。
「そうそう、あのエレベーターのことは、他の選手たちに言うなよ」
監督は口止めした。
そのため、他の選手たちには、「この選手の身に何があったのか」はわからない。
それで噂し合う。
――寝坊したら、恐ろしい「ドッキリ」が待っていたらしいぞ。
で、この噂にどんどん、「尾ひれ」がついていく。
――エレベーターに乗ったら、床の一部が抜けたらしいぞ。
――階段の踊り場が、「釣り天井」になっていたらしいぞ。
――タクシーに乗ったら、崖から海にダイブしたらしいぞ。
選手たちは戦慄した。
(これは絶対に寝坊できない!)
その一方で、こんなイタズラが流行する。
同室の選手が使っている目覚まし時計から、夜の間にこっそり電池を抜いておくのだ。
これがプロの世界である。
次回は『大学野球を見に行こう』というお話です。




