閑話 冷徹なる軍師の「陥落」
アルバスが聖女に傾倒するまでの過去のお話です!
それは数年前、アルバスがまだ先代参謀のもとで、冷徹な「軍師見習い」として人間界を偵察していた頃の話だ。
当時のアルバスは、今以上に感情の欠落した青年だった。
「人間など、無能な種族。魔王軍の武力をもってすれば、根絶やしにするなど造作もない」
王都の路地裏から行き交う人々を観察していた彼は、本気でそう思っていた。
彼は、人類の心臓部である王都の社会構造と、その脆さを暴くための最終偵察任務に就いていた。魔族の魔力を隠蔽する秘術を使い、ごく普通の旅人に擬態して街に溶け込んでいたのである。
その日は、王都の広場で大規模な貧民への炊き出しが行われていた。
「……効率の悪い慈善活動だ。弱者を切り捨てぬから、この種族はいつまでも脆弱なままなのだ。救う価値のない命に食事を分け与えるとは、実に見苦しい」
人類の甘さを確認し、冷笑とともに立ち去ろうとしたアルバスの足が、ある一点で止まった。
広場の中央、湯気が立ち込める大鍋の前に、彼女はいた。
聖女、エリナ。
「はい、熱いですから気をつけてくださいね」
彼女は、泥だらけの服を着た戦災孤児と同じ目線にまで腰を落とし、優しく微笑みながらスープを手渡していた。
その時、一人の少年が誤ってスープを彼女の白い法衣にこぼしてしまった。アルバスの周囲にいた魔族の斥候たちは「愚かな、これだから人間は」と嘲笑ったが、エリナの反応は彼らの想像を超えていた。
「大丈夫? 火傷はしていませんか?」
彼女は自分の汚れた服など目にもくれず、真っ先に少年の安否を気遣い、その小さな手を包み込んだのである。
柔軟で、温かく、汚れを一切厭わない。その献身的な慈愛。そして、不安で泣き出しそうな少年に向かって、朝の光を凝縮したような、あまりにも清らかな笑みを浮かべた。
「――っ!?」
その瞬間、アルバスの心臓が、かつてないほど激しく脈打った。魔族の冷徹な倫理観、効率重視の軍略、それまで「人間を滅ぼすべき敵」と定義していた彼の中の理性が、音を立てて崩壊した。
(……なんだ、この光は。魔界のどんな魔石よりも、魔王様のどんな咆哮よりも……心に深く突き刺さる……!)
彼女が放つ「善性」は、闇に慣れきったアルバスの魂にとって、致命的なほどの毒であり、同時に抗いがたい福音だった。
少年の汚れを拭い、再び笑顔を見せる彼女の姿は、アルバスの瞳にはもはや「倒すべき標的」ではなく、この世で唯一守るべき「至高の真理」として焼き付けられた。
だが、彼はただの軍師ではなかった。一度「標的」を定めた後の行動は、冷徹なまでに迅速だった。
魔界に帰還してからの数ヶ月、アルバスは豹変した。彼は軍事演習の合間を縫って、人間界のあらゆる情報を収集し始めた。軍事機密ではなく、聖女の私生活に関する情報を、だ。
魔王軍が誇る諜報網を私物化し、人間界の熱狂的なファンのみが購読するという専門誌『月刊・聖女』の存在を特定。彼は即座に、創刊号からのバックナンバーと最新号に至るまで、魔界の財力に物を言わせて全て取り寄せた。
山積みにされた雑誌を血眼で解析し、彼女が好む茶葉の種類、肌に合う石鹸の成分、そして何より――彼女が疲れ果てた時に、密かに甘い菓子を口にしてはにかむという、人間界でもあまり知られていない極秘事項を突き止めた。
『彼女には、世界で最も甘美なお菓子と、心身を甘やかす世界で最も安全な場所こそが相応しい』
その結論に至るまで、彼は寝食を忘れて数千枚に及ぶ彼女の肖像画と行動記録(という名の資料)を読み込み、分析し尽くした。
そしてある夜、アルバスは父である先代参謀を呼び出した。
「父上、私は決めました。魔界を、彼女の……いえ、敵を誘い込むに相応しい『極上の監獄』へと作り変えます」
父は、数ヶ月間も自室に籠もり切りで(情報収集に)没頭していた息子の瞳に宿った、異常なまでの執念を見て、「おお、ついに人類皆殺しの覚悟が決まったか!」と喜んだ。
だが、アルバスがその時脳内で描いていたのは、蓄積したデータから導き出された「聖女エリナが最も喜ぶ黄金比のスイーツ」を彼女が食べて、「美味しい……!」とはにかむ、4K画質の未来図だったのである。
***
――数年後、現在。
アルバスは自室で、招待状の発送準備を終え、一枚の肖像画(極秘入手した公式ブロマイド)を見つめていた。
「……もうすぐです、エリナ様。あの日のスープよりも温かいおしぼりと、あの日の広場よりも安全な舗装路が、あなたを待っています」
軍師の仮面の下で、アルバスの「陥落」は今もなお、加速度的に深まり続けている。
――そう、この日、一人の冷徹な軍師は死に、一人の救いようのない狂信者が誕生した。後に魔王軍全体を巻き込むことになる、巨大な「勘違い」の歯車は、まだ回り始めたばかりであった。
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