第3話:人間界からの「拉致(ヘッドハンティング)」
魔界の薄暗い作戦会議室。
魔王ヴォルガディスは、アルバスが掲げた新たな作戦書を凝視していた。そこには『人類文化中枢への精神汚染計画』という、見るからに邪悪なタイトルが躍っている。
「アルバスよ。舗装路の次は『精神汚染』か。具体的に何をするつもりだ?」
アルバスは眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、一枚の人相書きを机に置いた。そこに描かれていたのは、包丁……ではなく、泡立て器を手にした一人の男だった。
「魔王様。人類の戦意を根底から破壊するには、剣ではなく『依存』を与えるのが最も効率的です。この男、人間界で『神の舌を持つ菓子職人』と謳われるピエール。この男を魔界へ『拉致』し、その異能を我が軍の管理下に置く所存です」
「ほう、拉致か。よい響きだ。菓子職人の才を根こそぎ奪い去るというわけだな」
「左様です。人間界から食の知覚を奪い去り、魔界独自の『抗えぬ甘美なる毒』……すなわちスイーツを開発します。一度これを口にすれば、人間どもは味覚を支配され、この快楽なしでは生きられぬ家畜へと成り下がるでしょう。彼らは自らの尊厳を投げ打ち、魔族が作る一欠片の菓子のために、我らに跪いて慈悲を乞うようになる……。これぞまさに、胃袋を介した魂の略奪です」
ヴォルガディスは大きく頷き、感銘を受けたように拳を打った。
「なるほど! 恐怖で縛るのではなく、欲に溺れさせて屈服させるというわけか。武人の誇りを捨てさせ、甘露を求めて我らに媚びへつらわせるとは……。死を与えるよりも遥かに重い絶望。お前はどこまで残酷な男なのだ、アルバス!」
「クク……。お褒めにあずかり、光栄です」
もちろん、アルバスが言う「拉致」とは、人間界では到底不可能な好条件を提示して「引き抜く」ことであった。
(……ようやくピエールを呼べる。彼なら、エリナ様が愛してやまない『苺のコンフィチュールを添えた白銀のシフォンケーキ』を完璧に再現できるはず。すべてはエリナ様の『美味しい』という一言のため……!)
***
その数日後。人間界の王都にある、超一流店『ラ・プランス』の厨房。
パティシエのピエールは、目の前に突如現れた漆黒の鎧の集団と、魔族と思われる青年に腰を抜かしていた。
「ひ、ひぃっ! 魔王軍!? 命だけは……命だけは助けてくれ!」
「命など奪いませんよ、ピエール殿」
アルバスは至極丁寧に、だが逃げ場を塞ぐようにして、一通の契約書を差し出した。
「我が軍に、あなたの腕を買いたいのです。給与は人間界の五倍。完全週休二日制。魔界の最高級果実を使い放題。さらに、あなたの創作意欲を刺激する最新の魔法調理器具も完備しています。いかがですか?」
「……えっ?」
ピエールは目を白黒させた。拉致されると思っていたのに、提示されたのは人間界のどんな王侯貴族も出せないような「超ホワイトな雇用条件」だったからだ。
「さあ、決断を。拒否されるなら、この場で……」
「い、行きます! 行かせてください! ぜひ魔界で修行させてください!」
こうして、人間界から「知能」がまた一つ、平和的な合意によって消え去った。
***
魔界の城内に新設された、眩いばかりの『魔導キッチン』。アルバスはそこで、極秘の資料をピエールに突きつけていた。
表紙には、愛らしい笑顔の聖女が描かれた雑誌――『月刊・聖女』。
アルバスが人間界の極秘ルート(という名の熱狂的ファンクラブ)から毎号取り寄せている、もはや聖書とも呼べる情報源である。
「聞け、ピエール。お前に命ずるのは二点だ。まずはエリナ様が愛してやまない至高の『白銀のシフォンケーキ』を完璧に再現すること。そしてもう一つ――この最新号の特集記事『聖女様の最近のマイブーム』によれば、今の気分は『甘さ控えめで、レモンの皮の香りが微かに抜けるような爽快感』だという。これを踏まえた『新たな傑作』を考案し、三日以内に形にしろ」
「は、はい! しかし……軍師様。あなたはなぜ、それほどまでに聖女の好みを気になさるのですか?」
ピエールが戦慄しながら尋ねる。
アルバスは、まるで人類の滅亡を宣告するかのような冷徹なトーンで答えた。
「……敵を支配するには、その『核』を熟知せねばならぬからだ(※訳:推しの好みを把握するのは、ファンの最低限のマナーだからだ)」
その報告を受けた魔王ヴォルガディスは、魔界中に漂い始めた甘い香りを嗅ぎながら、満足げに微笑んでいた。
「クク……知能を奪い、精神を汚染する『魔のお菓子』か。恐ろしい、恐ろしいぞアルバス!」
――そう、魔王は純粋バカだった。
もっとも、一番恐ろしいのはアルバスの「収集能力」と「愛の重さ」なのだが。そして魔界は、着々と「スイーツ天国」への道を歩み始めていた。
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