43 ただの水が美味いと感じたのは何年ぶりだろう
長かった私の逃走劇もコレにて終了、私の息は荒いものの、どうにか体に力が入るようになってきた。
ヒバリが押し込んだ木の影で、ヒバリに支えられて焼け付く喉にない唾液を送ると、酷く痛んだ。
そしてヒバリと大田が持ってきたライトと、月明かりが丁度良く入る場所のおかげで大田と誘拐犯である秋里の様子が良く見える。
ファーロウは秋里を警戒して見張り、大田は一本背負いした後で誤発されたライフルを思いっきり蹴って秋里から離す。
猟銃ライフルは何の因果か、私とヒバリの方へ転がってきた。
起き上がろうとした秋里を大田が腕を掴み、地面に顔を押し付けるように秋里の体をひっくり返し、手をヒバリの方に伸ばす。
「ヒモ!投げろ」
ヒバリは自分のベルトに装着するポシェットから登山必須アイテムの一つ、ヒモを取り出す。
しかしこのロープは崖を上がったりするナイロンロープではなく、よく目にする舗装用に使われたりする細いタイプのナイロンロープを出して大田に投げ渡した。
山に登るなら応急セットは持ち歩いた方がいい、ロープは骨折した時に枝と一緒に巻いて固定したり、出血を止めるために縛ったり出来る。勿論包帯でもいいが、包帯は傷の衛生に別に持ってきた。
だが、まさか楓を攫った犯人をお縄頂戴の御用に使うとはヒバリも大田も想像すらしてないが、携帯していて良かった。
暴れる秋里の両手をナイロンのロープで固定すると、大田はポケットに入れていた携帯電話を取り出す。
ギリギリ電波は入る、鳳凰学園で携帯電話を使う際に電波を気にして購入したのだけど、鳳凰学園ではちゃんとアンテナが設置されていて使いどころがなかったので無駄にデカイ携帯を買ったと後悔していた。
しかし、今日になって役に立ってくれるとは人生分からないものだ。思いにふける間もなく、諦めの悪い秋里の頭を踏みつけて大人しくさせる。
電話は数回コール音がなってから凪史の携帯に繋がる。
『状況は?定時の時間に連絡しろって言ったよね?』
時間になっても連絡がない二人に、ちょっとホッとした声だった凪史。大田は鼻で笑う。
「そりゃどうも、景気の良い話をしてやろうか?捜していたアホを見つけた。怪我も特になし、それとアホを攫ったヤツも捕まえた」
『喜ばしい報告だ。詳しい事情は迎えを寄越してから聞くよ、もしかして犯人は拘束している?』
楓が無事で安心したのと、たった2人で犯人に向かっていた無謀さを責める口調に大田は肩をすくめ、頭を押さえていても動く秋里を見る。
何とか逃げようともがくのだが。大田が頭を押さえていた足を上げて、思いっきり秋里の背中に叩き付けて押さえた。
常日頃鍛えている大田の脚力に適うはずもない、カエルが潰れたような声を秋里の喉から漏れる。
安全だと確信したヒバリが木の陰より楓を支えて、出てきた。ファーロウも楓の近くに小走りで駆け寄り楓の様子を窺う。
汗と土で汚れているが、酷い外傷はないのに安堵を浮かべる。
それはヒバリも同じだった、でも楓は全力で……本当に全ての力を使って逃げてきたからヘトヘトになり、気を抜くと膝の力が抜けそうなるが、ヒバリに肩を借りて大田の元へ行く。
手首を拘束していたチューブはヒバリが装備してたナイフで切って、秋里とは逆に自由になる。 刻も早く伝えないといけない、まだ秋里に攫われた犠牲者はいるのだから。
「大田、山の中に建物があって攫われた女性が二名いる。早く助けに行ってくれ、と凪史に」
大田は携帯を耳に当てたまま、驚きに目を大きく開いた後に楓の注文通り凪史に伝言する。
『分かったよ、彼女達のいる場所は此方で調べるから君たちは戻ってきて』
凪史は電話しながら誰かに指示を出している声が大田の耳に届く。
大田は電話を切って戻し、秋里を見てため息をつく。面倒ではあるが、コイツも一緒に連れて帰らなければいけない。
楓とヒバリは大田に近づく前に、楓は地面に落ちた猟銃ライフルを拾った。こいつは証拠品、殺人未遂のね。
私の指紋がつくでしょうが、証人のヒバリと大田がいるから大丈夫。
もし加藤家の使用人から凶悪犯が出るのを恐れ、私に擦りつけようとしても、私には次期当主の凪史君がいるから心配はしていない。
大田が足で押さえている秋里と目が合う、やっぱり目は「原罪の霧」の影響がでて気持ち悪い光りを放っていた。
「ああ……残念だ、本当に残念だよ……楓君。君は僕の絵のモチーフとなって永遠に僕の天使になれたのに」
私を見つめ秋里の顔が歪んだ笑いながら言い放つ、私は不愉快さに顔を顰めた。
コイツ絶対自分が悪事を働いた意識がないだろうよ。
「ご生憎様、アンタの自己満足に付き合っている暇なんかないんだよ」
秋里は喉を鳴らして笑った。
「僕と共に居れば苦しみも無い幸せな生活も約束されていたのにね、僕は絵を描かせてもらえばそれでよかったんだ」
楓は自分の血管が切れそうなほど、怒りを覚える。
何だその慈善活動気取りは!!?
「ざっけんなよ!!アンタがそう思い込んでいるだけで千奈美さんと紗枝ちゃんがどんなに怯え……ていたかッ!!」
余りにも身勝手な秋里に怒りで言葉が詰まった。
(彼女達の疲労が見えてなかったのか!貴様は彼女達の何を見て絵を描いていたんだ!!それにコイツがこんなことしなかったら……私だって銃を向けられる事無かったのに!!)
口に出してこの憎しみを、惜しみなく秋里にぶつけたい。でもコイツには何を言っても通じない。
………怖かった、本当に銃を向けられて。私の異常な勘がなければ足がふっ飛ばされ、最悪殺されていたのかも。
逃走中に分泌された脳内麻薬のドーパミンが治まり、「ハイ」の状態から冷静になって急に恐怖心が襲ってくる。
あの状況下で五体満足に立っていられる今が奇跡のよう。
無理も無い、楓は女性から男性へ性転換した体験や魔法を使う賢者のファーロウと一緒にいても、彼女はただの一般人。
命を懸けて何かと戦った事もなければ、攫われた経験もない。それは全て他所の出来事の世界で起きて楓自身の現実には関係がなかった。
突然わが身に降りかかった不条理さに、理不尽さに、何よりも秋里に罪の意識がないのが許せない。
ヒバリの肩を乱暴に押しのけ、一人で立ち楓は銃を持つ手に力を込める。
様子がガラリと変わった楓に、ヒバリと大田が息を飲む。
だが、1人。秋里は気付かなかった。
そして楓を薄笑いして煽る。
「僕は自分さえ満足したら他はどうでもいい。自己満足?」
声を上げて笑った秋里をヒバリと大田は理解できない生物を見ているような目で見る。楓は少しだけ俯き、歯を喰いしばり握り拳を強く握った。
「そうさ、誰だって自分が幸せになりなりたいだろう?君だって同じさ、そして僕の絵だけが美しい完璧な世界ッ!!」
だからこそ君をその世界に入れてあげるのは僕の「慈悲」だと、主張する秋里に。
楓の頭の中では「何か」の糸が切れた音が聞こえた。
「…………それは素晴らしいこった。スターリンもビックリするだろうよ」
暫し沈黙の後、皮肉のように楓が笑い猟銃ライフルを肩に担ぎ。
「お前と同じく……自分の満足が得られたらそれでいい」
今度は猟銃の銃口を秋里の額に向けた。
秋里は驚き、楓の顔を見上げる。だが、そこには楓は居なかった。
居たのは楓の姿をした闇がいるだけ、先ほどまでの勢いは無く秋里の全身に冷や汗が流れはじめる。
少し開けた場所で月明かりが注ぎ、ヒバリと大田のライトだけが光源のはずが楓の瞳だけギラギラと闇の中で獣のように反射しているようだった。
天使と天使だと思っていた楓が、今は逆に悪魔か物の怪の妖に以外の何者でもない。
なのに妖美なほどに甘く美しい、一歩踏み出せば彼の闇に飲み込まれる。飲み込まれたら最後、きっと帰れなくなるだろう。
名状しがたい存在と化した楓から、神に感じるような畏怖と敬意すら感じさせ。あの瞳で見られていると膝を着き魂すら捧げたくなる。
「なあ?何か言え」
悲鳴すら出せない秋里に楓はつまらなく、反応を楽しむように銃口を秋里の額に引っ付けて少し力を込める。
「……水を差すようで申し訳ないが、その銃は弾切れさ」
地面に伏せられている秋里の体制から自然と上目遣いになり、無理に笑おうとして失敗している彼を楓は鼻で笑う。
「ご冗談を、一発のこっているだろ?」
私は知っている、私の勘が六発装弾できるライフルだって教えてくれた。私に二発、ファーロウに一発、そしてヒバリに一発と暴発でさらに一発の弾を使用した。
教えれば幼稚園に通う子だって出来る計算だ、六から五を引けば残りは一。
最後の一発は私の手に握られている。しかし私の勘の存在を秋里が分かるはずも無く。
「その銃は僕のだ」
だから僕のが詳しい、と続けようとする秋里に、今度こそ楓は声を出して笑った。
「ハッじゃあ試してみるか?アンタは俺に躊躇もなく発砲したんだ、文句は言えないよな?」
「楓ぇ!」
横に居るヒバリは流石に焦った声を出して楓を止めようと名を呼ぶが、楓は一度視線をヒバリに向けただけで直ぐに秋里に釘付けになる。
「怖いか?恐ろしいか?アンタが千奈美さんと紗枝ちゃんに与え続けた苦痛に比べたらまだ可愛いものだ」
私の頭の中で、引き金を引いてやろうか?と唆す声がした。
甘く囁くような勘とは違い、禍々しい声に私自身耳を塞ぎたいくらいなのに逸らせない。
よく漫画やアニメにある私の格好をした天使と悪魔が言い争う、そんな心境。
私の中で理性と怒りが鬩ぎ合う。
違う違う、こんなの私じゃない、引き金をひいてはいけない。
引き金から指を外したいのに、もう1人の怒りに満ちた自分がいて指を動かせない。
まるでもう1人の私が内側にいて、勝手に体を動かしているよう。
緊張する空気の中、ヒバリと大田は楓を止めたいが、刺激を与えて取り返しがつかなくなるのを恐れ中々手が出せなかった。
実際気配を消して楓から銃を奪おうとすると、全てを把握しているかのように動く寸前で楓はヒバリを睨む。
「君も落ちるよ……僕の所まで」
銃を向けられている恐怖、そして楓の視線を独占できている状況から感動すら覚えた恍惚の表情で楓を見つめる秋里に、楓は目の前が真っ赤になる。
楓が望むのは秋里の懺悔して救いようの無い後悔に苛まれること、だが本人は嬉しそうにしているのが許せい。
理性を失いそうになる瞬間、ファーロウが子猫の手でライフルの銃口にある照星の上に置く。
『楓さん、彼女達を免罪符にして引き金を引く理由にしてはいけませんよ』
決して力で押さえつけず、秋里に標準を合わさせたままで。ただ穏やかに楓が失念している事実を伝える。
普通の人間では、飼い主にじゃれ付いた猫が鳴いたくらいにしか見えないだろう。
暫しの沈黙が1人と一匹に落ちる。
すると楓は目を細めて、ポイッとヒバリにライフルを投げる。
「わっ!」
唐突に凶器の銃を、ボールを投げるような気安さで投げられたので、両手で受け取った。
「帰ってお風呂でさっぱりした後、グッスリ眠りたい」
楓は自暴自棄に独り言を残し、足元にいたファーロウを抱き上げ、小さな猫を抱きしめた。温かい体温と柔らかい毛皮がささくれた心を癒してくれる。
ファーロウを腕に抱いたまま秋里を睨む。
「お前と一緒にするな、お前は自分の欲に負けた只の負け犬だ」
顔を酷く歪めて秋里は楓を縋るような視線を送るが、楓は一瞥して。
「お前とは違う、お前が何をしても私の中には何も残せない。私の世界にお前は要らない」
まるで母親に捨てられた子供のような顔で、秋里は俯いた。
振り返って楓が前に進もうとすると、背後から背筋が慄く寒気を感じる。
秋里から原罪の霧が噴出した、常人には認識できない異世界の災いが渦となって上昇していく。
『楓さん!』
「分かってるわ」
ファーロウが叫ぶ、私は小声で返事をしてファーロウを腕から降ろした。
折角でてきた霧が逃げ出す前に走り寄り。
振り返って秋里の背中を踏みつけた、ついでに逃げようとする霧を手で捕まえる。
「これで俺の分は勘弁してやる」
いつもの楓の顔に戻り、ニカッと笑う。
大田とヒバリには踏みつけで復讐を完了させたように見えた。そして2人は普段の楓に戻ったのに安心する。
2人を他所に、そっと楓が掌を広げると、馬來先輩と同じく小さな黒い球が楓の掌に納まっている。
罪の象徴、人間を落す原罪の霧。誰にも見られないように自分の胸ポケットの中にしまった。
一件落着ムードの中で地面に伏せている秋里を大田は縛った部分を掴み起こし、ヒバリはライフルを点検し始めた。
ライフルの安全装置を作動させるか、装弾している弾を取り出したいな、何て呟くヒバリに大田は止めとけと忠告。
「弄って暴発されちゃあ堪らん、常に空に銃口を向けて歩けよ」
「そうだね」
銃の知識なんてアクション映画程度しかないので、諦める。
「おい新井」
大田はヒバリと同じく腰につけていた物を楓に投げ、楓はちゃんと暗闇だけど受け取った。
な~に大田君、私超疲れてんねん。
受け取った物を見ると水筒だ。
やっほーーーう!!でかした大田。
慌てて蓋を空けて水を一気に喉に押し込む。
五臓六腑に染み渡る!砂漠と化した喉、いや体内はもっと寄越せと訴えるままに楓は喉を潤わせる。
「うまッ水うめえッ!!世界一美味い!!谢谢、スパシーバ、グラツィエ、メルシー!!」
「何で日本語か英語でありがとうが出ねぇんだ?」
呆れた顔で、息継ぎの合間に礼を言う楓に突っ込む大田。
因みに中国語とロシア語とイタリア語とフランス語のありがとうだ。
そんな楓をヒバリと大田が見つめて、声を出して笑った。