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コトノハ薬局シリーズ

溶けたサファイア

作者: 九藤 朋

 私が夫である(ひじり)と結婚する前の話だ。


 草が戯れに吹く風に揺られていた。

 鏡のような湖面は不思議と凪いでいる。恐ろしく透明度の高い湖だった。

 ふるさとは、(うつつ)にありて現ではなしと言う。だからこんな夢のような光景があっても驚きは少ない。残酷なくらいに澄んだこの湖を私に見せて、聖はどうしたいのだろう。この湖を見ていると、胸がつかえて苦しくなる。なぜか無性に泣きたくなるのだ。


 お泣きになればよろしい。


 私の心を見透かしたように聖が言った。(ささや)き声は泡沫(うたかた)(さら)われ消えた。

 私は意地になったように唇を引き結んだ。決して涙は見せない。それが聖に示すことの出来る、私の精一杯の矜持(きょうじ)だった。聖の細い嘆息(たんそく)が聴こえる。私の愛しい命の灯火(ともしび)が聴こえる。鏡の湖面に私の心が映し出されている。それは知っている。私はほんの少し聖を恨んだ。


 私に涙は許されていません。


 そう答えた時の、聖の顔を何と言い表せば良いのだろう。

 憐憫(れんびん)のような。痛恨のような。恐怖のような。それらがないまぜになって、普段は無表情である男の顔を彩っていた。


 僕しかいないのに。


 呟きは、ちょっと()ねた子供にも似ていた。私の心が柔らかくなる。


 だからですよ。


 聖は私の隣に並び立っていた。

 あの頃の私たちには相応しい立ち位置だった。互いの顔が見えない。弱さを許さないし許されない。聖が、私に歩み寄ろうとして、止まる。拳が、二つ三つ空いた距離。家で焚いている(げっ)(とう)(こう)の匂いが、こんなところでも揺らめく。


 僕ではいけませんか。僕は、貴方のことが。


 ざあ、と強い風が吹き、湖がざわめき立った。コトノハの続きも吹き飛ばされる。私はそれで助かったと思った。まるであべこべな心持ちで。続きを切望していたのに投げ打った。私の為であれば臓腑(ぞうふ)の全ても捧げる男に、一体、何が言えるだろう。何が癒えるだろう。狂おしい程の熱情は私も同じだったから、だから殊更に息苦しかった。もしも。


 もしもその時が来たら、私を離さないで。


 ぎりぎりの心情を吐露(とろ)すると、聖の赤い双眸(そうぼう)が見開かれた。返事は聴かなくても解っていた。解っていると解っているだろうに答えるのが聖だ。


 決して離しませんよ。


 私は微笑を浮かべた。泣き顔と区別がつきにくかったかもしれない。



 今は昔の物語。

 凍ったサファイアのようだった私の心は、同じように凍ったサファイアのようだった湖をなぞらえて溶けた。

 私と聖は互いを(ゆる)し合えた。共に手を(たずさ)えて生きている。湖面のように満ちた幸福。


 (つり)(しのぶ)が鳴る。

 月桃香が匂う。

 サファイアは溶けた。




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