流転 ある男の生涯
私の子供時代
私は1953年12月17日に、福山市の内科医の長男として産声をあげました。名前は尚己と名付けられました。姉正子は1953年1月12日に生まれています。姉と言ってもほんの少し早く生まれただけなので、あまり年の違いを感じません。3年後に妹道子が生まれ、その3年後にまた妹佑子が生まれました。
私は小さい時から、自己表現が下手で、嫌なことがあるといつも自分の中に逃げこむか、虫を見て心を休めていました。特に父に怒られたときには、怖くてどこかに逃げたくなりました。できれば虫のように、穴に入りたかったのです。この穴に入りたいという気持ちが、これからの私を苦しめることになるとは、その時はまだ分かりませんでした。姉正子は、父に怒られた時、その倍くらい文句を言っていたので、上手く父の怒りをすり抜けていました。黙っておろおろする私に、父の怒りは、いつも爆発していました。 私はそんな父があまりにも怖くて、死のうと思い山の中に何回も入りました。その都度、見つけられ、連れ戻されました。
父は一見おとなしそうなのですが、結構ストレスをため込むタイプでした。だから父は、私に対して過剰に怒って、ストレスを解消していたのかもしれません。私はひどく怒られた時には、だまって自分の部屋に入り一人でしばらく泣いて、その後虫のように布団にもぐり、自分の穴に入りました。そうやって、自分の心の均衡を保っていました。その時、母が一度でも、私を気遣って見にきて慰めてくれていたら、どれだけ救われたことでしょう。
私はみんなから、大人しくてとてもいい子、と言われていました。これがまたまた大きな問題でした。私はいい子でも何でもなかったのです。ただ自己表現が下手で、父が怖かったから、大人しくしていただけでした。でも本当は心の中に、何時も熱いものがうごめいていましたが、子供の私はそれに気付かなかったのです。
私の唯一の楽しみと言えば、虫を見ることでした。特にセミが土から出てくるところなど、今か今かとドキドキしながら待ち、その頭を見た瞬間やった~と、とても感動しました。頭を出した幼虫がとても可愛く愛しいのです。暗い土の中から、明るい光に向かい出てくるという、ドラマティックな現場を、とても、とても待ち遠しく、期待を込めて、見つめていたものです。どこから出てくるかは、土を見ているとすぐわかりました。だからいつも、いつも庭に出てそれを探していました。今から思えば、虫は誰の支配も受けなくて、ただ自然のなすが儘に生きていることに、私はあこがれていたのかもしれません。怖い父の束縛なしに、自由に生きる虫が羨ましかったのです。
幼い時の記憶は父が怖くて、怖くてそれから逃げたかったという思いがすべてです。私の幼少期に楽しかったという思い、両親に可愛がられたという楽しい思い出はまるでありません。私が姉のように言葉が巧みだったら、またいい子でなかったら私の人生は180度違っていたかもしれません。
両親のこと
母は10歳の時浅井家に、養女として迎えられました。養母は悪い人ではないのですが養母自身も嫁いで、姑にいびられ我慢をして暮らしていました。養母は、姑の養母に対する接し方をそのまま養女に向けたのです。養母にとってはいびる格好の相手が来たということでしょうか。
養母の意地悪は、定期試験前の養女に切手を売ってこいと命令をし(浅井家は切手とか、はがきなどを売っていた)、試験勉強をさせないとか、実母が来ていても会わせない、という陰湿なものでした。養女である母は、もともと朗らかで物事を前向きにとらえ、くよくよ考えるタイプではありませんでした。だから養母のいじめに、耐えることができたのでしょう。また戦前のことで、養女が実家に帰るということは、許されることではありません。だからじっと耐え、そこにしがみついていたのでしょう。10歳の子供が、一人の保護者もなく、一人でいじめに耐えることは、並大抵の根性ではできません。それに耐えた母は、いろんなことが重なっていたのにしても、とても忍耐強い心を、持っていたのです。
その反面、愛する、愛されるという心は、小さい時から感じたことがなかったと思います。幼ない時から、自立させられ忍従を強いられた母は、私のように少し甘えた心を持ち、ナイーブな子供を理解できなかったのです。それが今後問題を起こす、最大の原因である、私の心の中の真っ黒い渦を作る一因になったことなど、まるでわかるはずはありません。このことが、母の死に目に会った時に、私がこの人とは最後まで分かり合えなかったと感じた最大の原因でしょう。
父は医学部を出て内科医でした。父の両親は原爆で亡くなりました。父は、大学の医局員として働いて細々と暮らしていました。その少ない給料で年下の弟の面倒を見ていました。父は常々弟を大学に行かせたいと思っていました。そんな時に婿養子の話が来ました。父はすぐ見合いをしました。父は母を、とてもしっかりしたいい女性と思ったのですぐ承諾しました。話はとんとん拍子に進みすぐ結婚しました。
父には、浅井家を継ぎ盛り立てなければいけないという、使命がありました。運よく男子が生まれたから、とても嬉しかったのでしょう。生真面目な性格だったので、私の教育に必死に取り組みました。父は、いつも家に恥をかかせるようなことをしてはいけない、と言って厳しく私をしかりました。私は、いつもそのことを聞かされ、家も父も怖くて、怖くて仕方ありませんでした。
また父は、母をこよなく愛し、自分の傍から一時も放しませんでした。
両親がいなくて、必死で生きてきた父は、自分の物は絶対に離すまいとする、変なところがあり、特に母は最も愛する人なので、誰にも触れさせたくないという思いがとても強かったのでしょう。PTAの役員会の打ち上げ、町内会の飲み会、同窓会など父は内科医なので参加できないのですが、母にも絶対に参加させませんでした。このような父なので、子供の私にまで男性を感じて、母を私の傍に行かせたくなかったのかもしれません。幼い時に私は、母を身近に感じたことはありませんでした。いつもお姉さんというお手伝いさんに、面倒を見てもらっていました。
母は結婚するまで、誰にも愛された経験がなく父のそんな感情がとても嬉しかったのでしょう。そんな両親ですから、二人は死が分かつまで一緒に暮らしました。それなりに幸せだったと思います。
こういう独占欲の強い父の性格は、しっかり私が受け継いでいました。それは私の前半の人生の失敗につながります。否定していた父の嫌な面を受け継いでいたとは、皮肉なめぐりあわせとしか言えないです。
こんな両親なので、母は父の独占欲の強い愛に満足し、父は母を独占し、従順な母に満足していました。子供の私にさえ彼女の愛を渡すまいとしたのですから。そのような両親に育てられた私は愛に飢えて心の中にぽっかりと暗い穴が開きました。父に叱られたときにしっかり母親が抱きしめてくれれば、その黒い穴が黒い渦になることはなかっただろうし、それによって、人生のほとんどを苦しめられることもなかったでしょう。
中学、高校時代
私は虫を見ることしか楽しみがありませんでした。だからそれ以外の時は勉強をしていました。勉強をして大人しく過ごしているので、両親は安心していました。私は、勉強をすることは嫌なことではなく、知らないことが分かるのでむしろ好きでした。中学校は日本でも有数の、受験校に入学しました。そこで私は500人中の5位になりました。両親はとても喜んだのですが、私はいっこうに楽しくなかったのです。中学時代も鬱々と暗い毎日でした。
中学3年になり、第二次成長期を迎え、身体も心も大人に向かう、難しい時期を向かえました。私は、心の中に抑えていた黒いものがふつふつと動き出すのを感じました。自分でも分からないくらい心の中が乱れ、少し意に沿わないことがあれば、心の中が煮えくり返りました。初めのうちは何とか抑えていたのですが、だんだんそれが難しくなりました。それに勉強するのが、馬鹿らしくなったのです。なんで勉強するのか、自分は親のおもちゃではないから、親の言う通りになんかなるもんかに変わり、遂には親の言うことがすべて嫌になり、それが怒りに変わりました。こんな心の変化で勉強が手につかなくなり、成績はころころ転がるように落ちていきました。高等学校は県立高校に行きました。それでも福山ではよい高等学校でした。
高校に入ると、不安定な気持ちが一層強くなりました。心の中の黒いものがだんだん膨れ上がり、大きな渦になりました。私の心は、その中で右や左に揺れ動いていました。私は自分の気持ちを自分で制御できなくなりつつありました。その時は、まだ家ではいつも黙って話をしないことで、何とか体面を保っていました。クラスでも無口な暗い生徒だったと思います。
それが同じ匂いを持ったものが集まるとはよく言ったもので、何となく同じような問題を抱えた者たちが、たむろするようになりました。ある者は父親が女性のところに行って帰ってこない、またある者は弟ばかり可愛がられ家では一人ぼっち、またある者は過大な期待をされそれに押しつぶされそうになっている、またある者は兄がとても優秀でそれと比較され劣等感の塊になっている、またある者は親が口うるさく一挙一動を指示されるもの、などなど、いろんな問題を抱えているものが集まり、私もその仲間に入りました。
初めのうちは、学校でグダグダ愚痴ばかりを言っていたのですが、いつの間にか放課後、町をうろつくようになりました。そのうち他校の女子生徒と知り合うようになり、友人の家がたまり場になりました。
高校1年の1学期くらいでした。私は、黒崎文子という私立高校の生徒と親しくなりました。文子の父親は女性を連れて来て母親を追い出したそうです。その時文子は、小学校4年生でした。文子は幼い妹や、弟の面倒を見たそうです。そのうちに、継母に男の子ができました。その子を可愛がり自分たちはいい加減に扱われたそうです。それで文子は、家では父親が殴るのでいい子にしており外ではかなり荒れていました。その時私と出会ったのです。私の心の中の黒い部分と、文子の満たされないものが共鳴したのでしょう。私は文子を始めて抱きました。これが私の初めての経験でした。その後何回か文子と体を合わせたのですが、文子が私につくしてくれればくれるほど、私の心は離れていきました。間もなくその女性とは別れました。
家ではだんだん父の言うことを聞くのが煩わしく、母の顔を見ることさえ煩わしくなり、できるだけ家族と会わないようにしていました。食事も家族が食べない時に食べ、家に帰るのもできるだけ夜遅く帰るようにしました。それでもたまに父と会うことがあると、父は「遅い」とか「だらしない」とか「家の恥になることをするな」とか文句を言うので、私は黙って父をにらみつけて肩を揺らしながら、自分の部屋に入りました。この時期はまだこのくらいですんでいたのです。
一方私達グループは、もっと刺激が欲しくなり誰かが万引きをしたらどうかと言いだしました。女子高校生との遊びにも飽きてきたころなので、みんな同意しました。初めは、小さいものを取っては喜んでいたのですが、それではだんだん満足できなくなってきたのです。盗み方も巧妙になり、金銭的に高いものを、盗むようになりました。その方がスリルを感じるからです。決して盗むものが欲しくてしているのではないのです。盗む時のスリルがたまらなかったのです。私の心はそんな時とても昂揚して、あの嫌な渦がなくなるのです。私は結構巧妙なことを考えて、いつの間にか指示していました。そしてそのグループの中では、リーダー格になっていました。
でもでも問題行動がエスカレートすればするほど、心の中でどうしようという後悔の念と、これからどうなるのだろうか、という恐れが浮かんできました。もう一方では、なるようになるという居直った考えが、黒い渦の中からぐつぐつと出てきました。私の心は自分を失って、黒い渦の中を漂っていたのでしょう。
家では反抗がだんだんエスカレートしました。ある時、遅く帰ったのに父がまだ起きていました。父が「帰りが遅い、もっと早く帰れ!」と言ったので「何が悪いのか、誰のせいで遅く帰っているのかあ!」と結構低い声で脅す様に言い返しました。私が言い返した時に、父の目の中に恐れの色を見てからますます反抗が激化しました。初めは口で言っていたのですが、私はもともと表現力がなく語彙が少なかったので、遂に手が出て、バットで家具を壊していました。様々なものを、傷つけたり壊したり投げたりしました。母は、ただおろおろするだけで、何もしませんでした。父は何かわからないことを言って、わめいていました。私はまだ少しの理性があったので、両親には手を出しませんでした。ものを壊して、自分の部屋に入って気を静めていました。その頃は、父も以前のように激しく怒らなくなっていました。もっとも怒ったとしても、私は聞かなかったでしょう。その頃の私は、ものを壊しても、両親に悪態をついても、女学生を抱いても、友人とつるんで悪いことをしても、心の中の黒い渦は一向に収まりません。その一瞬、その一瞬、は忘れることができるのですが、黒い渦はすぐ顔を出します。毎日自分で自分を持て余し、どうしたらいいのか、全く分からくなってきました。もがけばもがくほど、黒い渦は大きくなっていきました。真っ黒い海の中の渦に、私は溺れていくような毎日を送っていました。
ちょうどそんな頃、私達は店の人に目を付けられていたのでしよう。みんな捕まってしまいました。店の人は警察に報告する前に、両親を呼びました。みんなの両親はすぐ駆けつけ、店の人にひたすら謝りました。警察には言わない、学校には連絡する、今まで取ったもののお金をすべて払いに行く、という約束をしてその時は許してもらいました。
店から学校に連絡され、私達は処分が決まるまで、家に待機させられました。その間、私達が初めにしたことは親と私とで盗んだ店を一軒一軒回りお金を払い謝って歩きました。その時私は、何でこんなつまらないことをしたのか、と情けなくなり。今後こんなつまらない事は、二度とすまいと心に決めました。
担任の先生、生徒部の先生が毎日来て、同じことを聞かれ、日記を書かされました。毎日何を書こうか、書くことがない、と困ってしまいには、なんでこんなつまらないことをさせるのか、と逆切れをしていました。だから毎日ぐだぐだと、同じことを言葉を変えて書いていました。また先生が来た時に反省しているような様子もできませんでした。外面は結構突っ張って、どうでもいいような感じにしていましたが、これは私のその時できる精一杯の虚勢でした。だから家庭訪問をした先生には、とてもふてぶてしく見え、日記もまるで反省の意向は見られないように見えたと思います。その時の私の心の中は、これからどうなるのだろうか、どうしようかという、後悔の念が頭の中でぐるぐる回って、とても不安でした。でもその心の中のことは、言えませんでした。自宅待機の時間が、長引けば長引くほど、私の心の中に、あきらめの気持ちがわいてきました。その間毎日いろんな先生が来て、いろんなことを話してくれたけれど、何も頭に入りませんでした。
5日くらい経った時でしょうか、両親と私は学校に呼ばれました。グループの友人たちも来ていました。校長と教頭と生徒部主任と担任のいるところに順番に呼ばれました。私が一番後に呼ばれました。その時、何となく悪い予感がしました。校長が話し最後に「この学校から転校する方が仲間と離れるから、本人のためになるだろうという結論になりました」と結論を告げられました。その後、校長は何とか言葉をつないでいたけれど、私は何も覚えていません。その時は頭を金槌で殴られたような気持ちで、一瞬目の前が暗くなり気を失いそうになったのですが、必死で耐えました。父と母は観念していたようで、今までのお礼を言ったような気がします。私は、どうやって家に帰ったのかもわからないくらい、心の中は乱れていました。後でわかったのですが、退学させられたのはたまり場を提供していた友人と、私の2人だったようです。他のみんなは自己弁護をして、上手くすり抜けたのでしょう。まあうまくやったものが、残るということでしょう。
その後すぐ、父は高校の教員をしている叔父に(叔父は父の弟です)来てもらいました。父と母と叔父と3人で、長い間話し合いをしていました。私はふてくされて、自分の部屋に居ました。これからどうなるのかという不安で頭が一杯です、それと同時にくだらないことをしてしまったものだと、とても後悔していました。この経験は、これからの私の生き方を変えるきっかけとなりました。
3人の結論が出たようなので、私は呼ばれました。叔父は事件が発覚した時すぐ、東京の友人に連絡を取ってくれていました。その友人は東京の中高一貫の男子高校の教員をしていました。国語の教員で、剣道部の顧問をしています。私はそこに下宿をして、その高校に通うことになりました。
仕方のないことなのですが、私の心の中には、ここでまた両親に捨てられたという暗い渦が膨れ上がり、黒い深い渦に飲み込まれたのです。今度はうねらなく固く張り付いたような渦になりました。
転校して
私は高校2年から東京で新しい生活を始めることになりました。母と一緒に、叔父の紹介してくれた下宿先の家に行きました。中野区の簡素な住宅街です。生家と違いごく普通の建前の家でした。私は2階の6畳の部屋を与えられました。その家は小学生の男の子と、中学生の男の子がいました。私が下宿したために、二人の子供は一緒の部屋になりました。それでなくても肩身が狭いのですが、こんな状況を見たらますます肩身が狭くなりました。でも仕方ありません、これは自分が招いたことなのです。私の心は小さく固まりました。この頃からますます私は自分の中に、閉じこもるようになりました。
新学期になり、母と一緒に登校しました。その学校は男子校で中高一貫の学校でした。私は坊主頭にして(みんなそうでした)、ここでかなり制約されて生活をするのだなあ、と半ばあきらめの気持ちでした。
事務員に案内されて応接室に入ると、校長が、教頭、生徒指導部長、学年主任、と次々に紹介しました。母は大柄な体形なのですが、その時はとても縮こまって小さく見えました。その時だけは、母が可愛そうに思えました。私はその時でも虚勢を張って、大きな目を倍くらい開いて前を向いて少し頭を下げました。
校長からいろいろ話を聞かされたのですが、何も耳に入りませんでした。次に生徒指導部長から、校則について長々と聞かされました。私は淡々と生活しようと考えていたので、そんな話を聞かなくてもよいと、心の中で思っていました。担任から、明日からのスケジュールを聞き、資料をもらい、生徒手帳と校章をもらいました。教科書は、指定の書店で、今日中に買っておくようにと、言われ購入用の冊子と、本屋の地図をもらいました。学生服は、すでに親が用意していたのでそれを着ていました。
その後、担任と学校を見て回りました。建物はとても立派でしたが、校庭などフリースペースが、以前の学校よりかなり狭く感じました。私はここで、目立たなく、静かな学校生活を過ごそうと、心で反芻しました。そしてあの黒い渦は心の奥深くに沈めました。
次の日、クラスで紹介をされました。転校理由は伏されたままです。座席について少し経つと、調子の良い生徒が、私にちょっかいを出しに来ました。私は言葉もまだ広島弁なので「はい」とか「いいえ」しか言いませんでした。彼はそのうちいなくなりました。私は、何か言わなければいけないかなあ、と思っていたので内心ほっとしました。
それからの学校生活は、私にとって忍の一字というのがぴったりの生活でした。家でも無口、学校でも無口でした。私は元来無口な方なので、あまり苦痛とも感じません。その頃は学校に慣れる、東京に慣れる、言葉に慣れる、新しい家庭に慣れる等々大変なことがのしかかり、毎日をそつなく過ごすのが精一杯でした。
私は授業が終わると、いつも校庭に出てボーと、クラブ活動を見ていました。そうやって下校時間になると家に帰りました。家には5時頃に帰り着くので、夕食にちょうどよかったのです。下宿先の家族と一緒に夕食を食べ、その後自分の部屋に入って宿題だけ済ませ、後は音楽を聴いていました。学習意欲は全くわきません。この時、自分の将来を真剣に考えたら良かったのですが、毎日を生きていくだけで精一杯で、そんな余裕はありませんでした。肝に銘じていたことは、これからは非社会的な行動はすまい、ということでした。私にとって福山での出来事の代償は、とても大きかったです。このように青春の楽しかるべき日々を、無為に過ごしたのです。
大学生活
大学は高校の同系列校に入りました。親は私のことに口を出さなくなったので、自由に学部を選べました。このことは私の大学生活を、とても楽しいものにしました。私は虫と同じくらい魚も好きだったので、迷いなく水産学部を選びました。この選択は、私が好きな魚のこと、またそれに伴う様々なことを学ぶのでとても興味がありました。私の好奇心は満足し、それと同時に、知識を得ることの喜びも感じました。その時、人生初めて暗い私の心は落ち着きとてもよかったです。まだその時はわかりませんでしたが、ここでの魚を扱う経験が、アメリカに行った時、私を助けてくれたのです。クラスの雰囲気は、高校時代のそれとはまるで違っていました。みんな海が大好きで、純真で、たくましい男の世界でした。私の様に心の中に闇を抱えている人など、一人もいないように見えました。40名の2クラス編成でした。A、Bとありました。私はAクラスでした。下宿も6畳一間のところに変わりました。はじめての一人暮らしで、初めて一人になったという、開放感を感じ心が踊りました。こんなに心が踊ったのは、初めてです。私は、黒い渦のことをすっかり忘れていました。
授業は魚介類を中心とする水棲生物について、増殖、漁獲、加工、流通などを基礎から丁寧に説明されました。私は魚が好きなのでここでは真剣に取り組みました。特に好きだったのは、海に潜ってその生態系を見たり、沖に出て魚を実際に取るなどです。ここで魚介類のさばき方鮮度の見方も学びました。これは後年とても役に立ちました。
一方下宿では6畳と狭いので部屋は散らかし放題です。時々私のすぐ下の妹が来て、部屋を片付けてくれたのですが、しばらくするとすぐ散らかり、6畳の狭い部屋がもっと狭くなり、足の踏み場もなくなります。
妹が来てくれた時は、私の好きな夕食を作ってくれるので、とても楽しかったです。特にポテトサラダと、ひじきと、なめこ汁の美味しかったことは、忘れられません。
そうこうしている間に、私は、隣の部屋の宮沢佳子という女性と仲良くなりました。その女性は女子大学に通っていました。特別に好きという訳ではなく、近くにいたから親しくなったというだけです。強いて言えば、セックスの相手くらいのつもりで付き合っていました。佳子は、私のことが好きだったのでしょう。部屋は片付けてくれるし、食事は作ってくれるし、結構いろいろ私の世話をしてくれました。私は彼女の好意に甘えて、楽々と生活していました。でも半面、早くけりを付けなければ大変なことになる、と思っていました。ちょうどその時、親しい学友からコンパに誘われました。相手の女性たちは、有名女子大学の文学部の学生だということです。その時の私は、結構学校の名前にこだわっていました。それと、うまくいけば今の彼女と別れられるという、身勝手な気持ちもあったのでしょう。
私のよく知らない、都心の結構こぎれいなレストランで会いました。相手は6人で私達も6人でした。私は人数合わせのために呼ばれたようです。その中の一組が知り合い同士で、このコンパを計画してくれたのです。私は一目見るなり、心に電撃が走ったような感覚に襲われた女性がいました。これは一目ぼれというものでしょう。私には初めての経験でした。私はごく自然に彼女の隣に座ったのです。(こういう何となく仕組むことは、得意でした)
会を計画した友人の簡単な挨拶から始まり、それから、お互いの自己紹介をしました。彼女は石川陽子という名前でした。食事をしながら懇談会が始まったので、私は陽子に簡単に自分のことを話しました。もちろん嫌なことは話しません。陽子は東京生まれで家から通っているということです。それから延々と陽子の話を聞いたのですが、私は少しも退屈しません。もっともっと陽子の話を聞きたかったです。陽子は話し好きなのでしょう。まあ一般的に言えば、自分の話を聞いてもらっていやな人はいませんよね。私は、今までいろいろあったので、自分のことはあまり話したくなかったです。私が陽子の話を真剣に聞くので、陽子は私が陽子に好感を持っていると思ったのでしょう。私も、陽子が私に好感を持っていると感じました。それから私はそれとなく陽子の電話番号を聞きました。陽子と話をしたいような友人もいたのですが、私と陽子が仲良く話しているので、ほかの女性と話していたみたいです。その後友人の行きつけのスナックに行き、飲んで、歌を歌って、帰りました。この日は私を含め、みんな青春を最大に謳歌したのでしょう。陽子とは、そのまま別れて帰りました。
次の日学校に行くと、みんなが集まって昨夜のことを話していました。私はみんなに羨ましがられ、おだてられ、何となく恥ずかしいような自慢なような複雑な気持ちでした。これは大学3年の冬のことです。
それからの私は、陽子のことで頭が一杯になり、電話をしては逢っていました。女性との交際が始まると、親からの仕送りのお金が足りなくなり、私は親に実験費がいるとか、校外学習の費用がいるとか、様々な理由を言っては、送金してもらっていました。今から思えば、なんと自立しない人間だったのか、と思います。多くの友人は、アルバイトをしていたようですが、私は何もしていませんでした。親からの送金だけに頼っていたのです。当時の私は、親からお金を送金してもらうことなど、何とも思っていませんでした。むしろ親なのだから当然と思っていました。
下宿も変わりました。宮崎佳子と、別れるためにする転宅です。佳子が学校に行っている時に、転宅を実行しました。大家さんにも転宅先を伝えませんでした。今では、佳子に悪いことをなあ、と思っています。当時の私は、自分のことしか考えられなかったのです。
陽子は、交際している男性がおり、裕福な家庭で育ち、今までいろんな男性と付き合ってきたみたいです。身長は160センチくらい、細身でしかもヒップ胸などはとてもセクシーで立派でした。色白で、顔立ちは細面で、鼻筋はすっきりと通って、ぱっちりした目は、何でも見てやろうという好奇心に満ちていました。チョット文学評論家のようなところもあり、タバコも吸って悪ぶるところもあり、ミステリアスな、魅力的な女性でした。
陽子には、私が温和で、陽子のしたいようにさせ、それでいてやんわりとリードする懐の深い男性に見えたのでしょう。私の胸の底にある、黒く渦巻いているものも、私に陰影をつけ、女性の母性本能をくすぐったのでしょう。だんだん深く付き合うようになり、肉体関係を持つのに時間はかかりませんでした。陽子と私は性の相性も良く、お互いにますます深みに、はまっていきました。
私は、就職を相談しに実家に帰りました。それがまた深く沈んでいた私の黒い渦を呼び起こすことになるとは、その時はわかりませんでした。父は「就職は福山にしろ」と言い、私は「なぜ福山でないといけないのか」ということで、言い争いになりました。その時、父はしきりに浅井家のために、という言葉を発しました。彼は彼で自分の存在意義をしっかり守り、浅井家を盛り立てようと思っていたのでしょう。あまりにもひどく言い争うので、母は父の気持ちを察して、いたたまれなくなり、泣いていました。私達はひどく言い争いました。彼はとうとう「出ていけ、帰ってくるな!」と言い放ちました。母も泣きながら「もう二度と家の敷居は跨がないで‼」と悲鳴に近い声で言いました。それを聞いた私は、心の中の黒い渦が、ごうごうと音をたたてて動きだすのを感じました。私はカバンを持って、家を飛び出しました。それからどこを通ってどうしたのか、全く覚えていません。
気が付けば、海岸に来ていました。お前などなくなればいいのだという、昔聞いたような声が聞こえてきました。そうだ!、お前は生きていてはいけないのだ!、という声も聞こえました。ふらふらと自動販売機に、ペットボトルの水を買いに行きました。少し座って休んでいるとまた「どうしているのか早く飲むんだ!」という怖い声、「飲むのよ、そうすれば楽になるのだから」という優しい声、という様々な声が私の頭の中でぐるぐる回っていました。私は夢遊病者のようにフラフラと水を飲み、今持っている睡眠薬を、すべて飲みました。睡眠薬は、東京で通院していたカウンセリングの医師から、眠れないと言って処方してもらったものでした。「お前は死ぬんだ!」という声が何回も何回も聞こえ、それがだんだん遠くなり、私は深い黒い渦の中に落ちてしまったのです。
次に目覚めたのは病院でした。一瞬何も思い出せません。両親の心配そうな顔が見えました。私はどうなったのだろうかと思いながら、またうとうとと眠りに落ちたのです。結局私が意識を取り戻したのは、1週間後だったようです。
意識は一応取り戻しても、頭の中はまだまだはっきりしませし、なかなか元に戻りませんでした。それから2週間くらいして一応体力は回復しました。親と医師との相談の上、そこで体力回復のリハビリを受けながら、心療内科の先生の入院治療を受けることになりました。私は毎日たくさんの薬を飲み、カウンセラーの先生の面接を受け、心療内科の先生の診察を受け、リハビリをしながら少しずつ生きる意欲が回復しました。結局1ヶ月半かかりました。退院した日だけ家で休み、すぐ東京に帰りました。
結局、卒業試験が受けられなく、卒業単位不足で1年留年しました。これまた人生の大きなロスでした。病院でのリハビリ、カウンセリングなどで私の中の黒い渦は、一応心の奥底に沈みました。
東京に帰ったその日に、陽子は私の下宿に来て食事を作ってくれました。その優しさが心にしみて、涙が出たのですが、恥ずかしいので、顔を拭くようにして涙をごまかしました。
これは、母親から聞いたのですが、陽子は私が入院して意識が戻らない時も、東京から来ていたのです。意識が戻ってリハビリしている時も、たびたび顔を見せてくれました。私は陽子の顔を見るたびに、自分の生きる意欲がわいてくるような気がしました。それでリハビリにも励めたと思います。
下宿に帰って、陽子の顔を見ていると、そのことを思い出して、私はますます陽子が愛おしくなったのです。しかし私は卒業するために単位を取らなければいけません。後期に試験のある単位も落としているので、後一年かかります。陽子は私より一つ下なので、社会に出るのは一緒になります。
私は23歳になりやっと卒業しました。私は東京で就職しました。どうしても福山には帰りたくなかったのです。陽子は出版社に就職しました。
私は就職したので、陽子の両親に結婚のお願いに行きました。どの親でも、自殺未遂をしたような人間とは、結婚させたくないのが常識です。案の定、陽子の両親はひどく反対しました。私は陽子に、優しい思いやりのある言葉を使い、自分の寂しさを訴え、私の両親の非情さを言い、陽子のいい面を言いました。そうっやって、陽子が私から離れないように、精一杯努力をしました。その甲斐あって、陽子と私はとても太い絆で、結びつきました。
陽子の両親に、結婚の許可を得るには、私の力ではどうにもならないので、私の両親に頼みました。私の両親は、私の自殺未遂から、私の言うことは何でも聞いてくれます。私の両親と陽子の両親は結婚について話し合いました。私は内心、結婚は今でなくもう少し生活が落ち着いてからにしようと思っていました。それに精神的にも、まだまだ安定していませんでした。お互いの両親と私達と話し合いました。結局結婚は、一年後ということになりました。その間、陽子は私の下宿に入り浸り、半同棲状況でした。それはそれで楽しかったです。その一年後、やっと勤めにも慣れ、自殺未遂からも、立ち直れました。しかし、黒い渦は心の奥深くに沈めたままです。
結婚生活
結婚式は、都内のホテルで結構盛大に行われました。自分の結婚式なのに、どこかよその人の結婚式のように思えました。私はこんなに盛大な結婚式は、嫌だったのですが、陽子のたっての希望でした。
結婚生活は、都内の2LDKの立派なマンションで始まりました。二人の給料では、こんな立派なマンションの家賃は、払えるはずがありません。しっかり親の援助を受けました。今から考えるとおかしな結婚生活の始まりです。まったく自立していない者同士の結婚だったのしょう。
結婚当初は二人とも結婚生活がとても楽しかったです。陽ちゃん、尚ちゃんとか呼び合って、いつも一緒に居て、日曜日は毎回二人で出かけました。笑いが絶えない日々を過ごしました。私は彼女といる時が、最高に楽しかったです。私の今までの人生の中で、こんなに楽しいことはありませんでした。家に帰るとお風呂は沸いているし、部屋はいつも綺麗に片付いているし、きれいに飾られたテーブルには、私の大好きな肉料理が小ぎれいに盛られており、そこにきれいに化粧をした可愛い陽子がいるので、私は、会社が終わると一目散に、家に帰っていました。彼女とは性格も合うし、セックスの相性もいいし、このまま努力をしていたら今でもいい夫婦だったかもしれません。(私の黒い渦が無くなっていたら良かったのでしょうが)
3年くらいすると、陽子は子供が欲しいと言い出しました。私はその時まで子供のことなど考えたことがありません。その当時、私はこんな黒い渦を持っているのに子供なんか持てるものか、どうせその子供も不幸になるだけだ、と思っていました。
ある日、陽子が「私は、子供がどうしても欲しいのだけど、貴方はどうしてそのように子供を望まないの?。」としつこく聞きました。その時、私は「欲しくないから欲しくないと言っているのが分からないのか‼」と激しく言い返しました。その時は、二人共ひどく興奮して、言い争いをしました。それまでは、あまり喧嘩もしなかったのですが、その時は私の黒い渦が、また顔を見せたのです。このいさかいを境に、私達の関係はぎくしゃくしてきました。こうなると二人の間は、何を言っても、何をしても、ちぐはぐになるばかりでした。陽子は近くのスーパーで、パートを始めました。(彼女は結婚と同時に、仕事をやめていたのです。)だんだん帰りも遅くなり、お酒を飲んで帰る日もありました。私はそれを大きな声でなじり、陽子は金切り声で反論しました。初めはこのくらいだったのですが、だんだん喧嘩はエスカレートしました。私は不倫をしていると思い、彼女の「髪を切る」と鋏を出し、彼女はベランダに逃げたこともありました。煙草を吸っていると言っては怒り、酒を飲んで帰ると言っては怒り、男と一緒に歩いていたと言っては怒り、だんだん手も出るようになりました。そうなると私は歯止めが利かなくなります。彼女を家に閉じ込め自分の言う通りに動かしたいという欲求が強くなりました。だんだん心の奥に隠れていた私の醜い黒い渦が、高校のあの時と同じように、荒れ狂いだしました。私はこのままいくと大変なことになる、と思いました。その前に何とかしなければと思い、両親に相談しました。その結果、協議離婚です。分かりきったことですが、私はその時でも、まだ彼女に未練がありました。彼女のことを、本気で愛していたのでしょう。私が変わればまた事態は変わったのでしょうが、でもどうにもなりません。もう私は自分で自分をコントロールすることが、できなくなっていたのです。その時の私は、私とかかわりのあった人は、この黒い渦に触れて、みんな不幸になるのだと思っていました。陽子もこの黒い渦の犠牲者だと・・・。このようにして5年余りの結婚生活は終わりました。
離婚して
彼女を失ってから私は、抜け殻の様になりました。家も1DKの小さいマンションに、転宅しました。私は身一つで家を出ました。彼女につながるものは、何も欲しくなかったのです。私はまた真っ黒い渦に飲み込まれました。とても暗い毎日を送っていました。そんな私に声をかけてくれる友達はいませんでした。会社でも一人で淡々とノルマをこなすだけです。仕事は一人でできるのが救いでした。
黒い渦の中でもがく私は、必死で出口を見つけようとしました。生活を変えなければいけない、
この生活を変えるのには、どうしたらいいのか、次に私にできることは何か、毎日同じことを考えていました。それと同時に、あの最愛の陽子を失って、その心の痛み、罪悪感、無気力感、喪失感で私は日夜苦しんでいました。なぜ、私は殴ったり、はさみで髪の毛を切ったり、彼女の服を切りきざんだりしたのだろうか。あの時は、自分で自分がどうにもならなかったのです。黒い渦に飲み込まれ、嫉妬にかられ、独占欲の塊に流され、そして自分を見失い、心の中の黒い声の言う通りに、身を任せたのです。いや、その声に支配されたのです。今の私は、後悔の念で一杯です。そのため食欲もあまりなく、75キロくらいあった体重が、70キロをはるかに下回る体重になりました。
そんな時、叔父から電話がありました。それは、叔父の友人で、フィリピンの大学で働いているものがいるが、そちらに旅行してはどうかという連絡でした。困ったときは、いつも助けてくれる大好きな叔父に、感謝して涙がいくすじも流てれ止まりませんでした。
私はすぐ行くことにしました。簡単な準備をしてパスポートが下りたらすぐに出かけました。インドネシア、中国、インド、と回って帰りました。そうして私の心は落ち着きを取り戻し、何とか元気になりました。この旅行中に私は外国で生活したい、という欲求が芽生えました。叔父に相談すると、それなら体制も、国も、安定しているアメリカがいいと言われました。そこで、アメリカで働いているという叔父の教え子に、連絡を取ってもらい、快諾を得たので、私はアメリカに行くことにしました。
アメリカに行くために、少し準備をしました。まず、護身術として、空手を習いました。英会話を習い、渡航費を稼ぐためにアルバイトをし、少しずつ荷物を作っていきました。アメリカでの住所は、とりあえず叔父の教え子のアパートにしました。、持ち出すお金は自己資金50万円と、親から出してもらった200万円でした。
外国で
私は、32歳で外国に行きます。これから新しい自分に変われるといいのですが。
飛行機で目をつむっている時、走馬灯のように今までのことが、よみがえってきました。それは黒い渦との戦いです。それもこの旅行で終わってくれるだろうという淡い期待で満ちていましたが、それほど黒い渦は単純なものではなかったです。それを、かなり時が経過して思い知らされることになろうとは、その時は思ってもみませんでした。
空港に着くと、叔父さんの教え子が迎えに来ていました。彼は島村健と言い私より幾分若いように見えました。彼はサンフランシスコの近くのバークレーという町で、寿司職人をしています。私は彼のアパートに居候させてもらい、アメリカを少し見てアフリカに行きたいと思っています。
島村さんのアパートで一泊してサンフランシスコ、ロスアンゼルス、を見て回りました。それからアフリカに行きました。
ケニア、エジプト、モロッコ、と見て回り、次にヨーロッパに入り、スペイン、ギリシャ、イスラエル、トルコと回りました。ヨーロッパは建築物、町の配置に見るものがあり、長い歴史の息吹を肌で感じました。古いものを大切にしており、人々の歴史に対する誇りのようなものを感じました。私は歴史にはあまり興味がないのでそのくらいしか感じなかったです。アフリカは、一言で言えば貧しい!です。そんなことを感じて今回の旅行は終わりました。この旅行は歩くことが多かったので、2年間かかりました。その分お金は使いませんでした。またこのような旅をしたいと、思いながら飛行機の中でぐっすり寝込み、目が覚めたらアメリカです。
寿司職人として
私は、島村さんのアパートに行き、もう少し居候することをお願いしました。島村さんはとてもよい人で、快く了解してくれ、仕事も自分が勤めているオーナーに紹介すると言ってくれました。それを聞き、ありがたくて涙が出そうでした。
私は島村さんの紹介で、下働きとして勤めることになりました。初めの仕事は、皿洗いです。私は日本人としては身長が高いので(身長は184cmでした)手も大きかったです。だから大きな皿も簡単に洗えました。それから厨房の掃除、生ごみの処理など、今まで経験したことのないことばかりで大変です。それでもここで生活をしなければいけない、と自分に言い聞かせ何とか続けることができました。賃金もその日払いでとても独り立ちできる額ではありませんので、島村さんにお願いいして、もう少しアパートに居候させてもらいました。
下働きとして半年過ぎた時に、調理人が一人辞めました。その代わりとして、私はコメをとぎ、炊いてすし飯を作るところまですることになりました。合わせ酢は分量が決まっているので、そのことを書いている用紙を見て、丁寧に混ぜればいいので良かったです。ただ炊きあがったご飯と、酢を混ぜるのが大変です。切るように混ぜないとご飯が塊になったり、合わせ酢を少しずつ入れないと味が偏ったり、注意しなければいけないことが沢山ありました。寿司おけが大きくしゃもじも大きいので、私くらいの背丈がないと、とても使いこなせません。背丈は良いのですが、初めのうちは様々な所に力が入るのでしょう、体のあちこちが痛くなり大変でした。家に帰るとご飯も食べずに寝ることが、度々ありました。そのためやせ細り、島村さんにとても心配されました。
何回も何回もしているうちに、簡単にできるようになり、習うより慣れよ!を肌で感じ、初めて何でもやればできると思い、自分自身に自信がつきました。本当になんでもやればできるのです!。私のように甘えて生きてきた者にとって、すべてを自分の手足で稼がなければいけないアメリカに来たことはとても良かったのです。
次に卵焼きを学びました。これがまたとても難しかったのです。こげないように適当な厚さに作るなんて至難の業です。家に帰って毎日毎日卵焼きばかり作り、そして毎日卵焼きを食べました。これには島村さんも付き合ってくれました。私はゆっくり弱火で焼くと良いことを、やっと理解しました。その結果とても良い卵焼きができたのです。
私は、アメリカに、1年以上滞在しており、しかも観光ビザで滞在しているので、このままでいくと強制送還されるのではないかと思い、島村さんに相談したら就労ビザを取ることを、強く勧められました。
就労ビザを取るには、200万円くらいの現金が必要なこと、結構、沢山の人の推薦状が必要なことなどを聞きました。私はそこで両親に200万円送って欲しいと手紙を書きました。答えはノーです。親を頼ろうとした甘えた自分自身が嫌になりました。親など頼れるものではないと思い、その時又黒い渦が少し動いたのです。
私は以前出国するときに、200万円をもらい、自己資金50万円をもって日本を脱出したのです。そのお金でアメリカに来て、世界を見て回り、それでも100万円近いお金が残っていたのでそれで株を買いました。買った時期が良いのか、倍に近いお金になっていました。そこで、できるだけ早く就労ビザを取らないと大変なことになると思い、就労ビザの取得を決心しました。
まず弁護士を尋ね、これから私がすることをまとめてもらいました。私は沢山の推薦状を集めなくてはいけません。しかも自分で自分をアピールする文章も書かなければいけません。私は文章を書くのがとても苦手なので、叔父に頼むことにしました。叔父は高校の国語教員で文章を書くのは得意中の得意です。早速叔父に手紙を書きました。叔父からはすぐに返事が来てその中に私の自己アピールの文章も同封してありました。叔父に感謝、感謝です。
この頃の私はやっと日常会話ができるようになっていたので、いろんな人とつながりができ、結構かわいがってもらっていました。様々の人に推薦状をお願いするととても良い返事をたくさんもらい前途が明るくなりました。
最後になったのですが、(本当は初めにオーナーと話をしなければいけないのですが、オーナーが旅行に行っていたため遅くなった)私の思いをレストランのオーナーに話しました。オーナーもこのままではいけないと思っていたそうです。すぐ了解してくれました。オーナーは日本人で、彼も私のように単身アメリカに来て、苦労をして今の地位を得たそうです。だから私に、とても好意的です。オーナーといろいろ話している時に、私が水産学部を出ているという話になり、オーナーは驚いて「それなら魚の鮮度も見分けがつくか」と聞きました。私は「そんなことはたやすいことです」と答えたら、オーナーはとても喜び「魚の仕入れをして欲しい」と頼みました。
次の日に魚の市場のようなところに、いつも行く人と一緒に行き様々な魚を見ました。学生時代に戻ったようで、とても楽しい仕事になりそうな気がしました。そこで魚の見分け方を言うと一緒に行っていた人がとても驚き、私の顔を尊敬のまなざしで見るのです。彼は南米から来た人で、南米で農業をしていたそうです。国の政情が不安定なのでアメリカに来たそうです。彼と一緒に仕事をするようになりました。私は魚の解体、そして「さしみ」まで作ります。私はかなり重宝されるようになったので、その分報酬も多くなりました。それで島村さんに丁寧にお礼を言い、レストランの近くの安いアパートに移りました。
私に好意を寄せている日本から来た毛利ひろ子と、同棲しました。その方が部屋代も安くなり、食事、掃除など家事をしてもらえます。当時の私はまだ陽子の影を引きずっていたのでどんな女性を見てもセックスの相手とか、一緒に居る方が便利だとか言う見方しかできなかったのです。自分でも嫌な性格だなあと思っていました。
新生活はそれなりに楽しかったです。でも私はお金をためないといけないのです。どうしても就労ビザを取らないといけないのです。今持っている株は200万円くらいなのですがこれを使うと一文無しになる、どうしたらいいのかと考えました。
私は生活をできるだけ切り詰めました。食事は店のあまり物を持って帰り、家具、服はみんなのいらないものをもらい、できるだけレストランで過ごし家に帰る時間も少なくしました。その分仕事ができ店のオーナーには重宝されました。こういう私の生活に、ひろ子はついていけなくて、出ていきました。ひろ子はブロードウエイで舞台に立つのが夢だったので、ニューヨークに連れていってくれる男性を見つけたようです。ひろ子にとってはそれがいいと思いました。
極限まで切り詰めた生活をしているので、割と早く目的のお金がたまりました。その半年後就労ビザ取得にお金を使っても、ある程度のお金が残ります。それで就労ビザを取りました。その時私は37歳でした。
これでやっと安心して生活ができます。今は寿司も握ることができるようになりました。今はてんぷらを揚げることにトライしています。パリッと揚げるのはなかなか難しくかなりの技術が必要です。衣の作り方、油の温度、揚げる時間などなど覚えるのが大変です。でもこうやって一つずつマスターしていくことはとても面白いです。
次の目標はグリーンカードを取って、自分の店をもつことです。私は目標が決まればそれに向け頑張ります。これからまた歯を食いしばって次の目標達成まで頑張らなければいけません。私はこのように目的に向かって、頑張る生活はむしろ好きです。今までより一層まじめに仕事に取り組み、生活も今までより一層切り詰めました。当時の世界はどこの国でも株価が上がっています。私は少しでもお金があれば株を買いました。私は結構国際情勢を判断する感覚もあるのでしょう、私の株はどんどん上がっていきました。
それから真面目に3年間働き、レストランのオーナーの協力で私はグリーンカードを取りました。私はこれで自分自身の店を持てると思い、こんなに嬉しい心のうちには、あの黒い渦に勝ったと思う心があるのでしょう。でもそれはまだまだ甘かったのです。こんなことでは黒い渦には勝てません。
当時、私はメキシコから来たガブリエラと一緒に住んでいました。それまでも、私にはいつも女性がいました。私はあまり口数が多くないのに、なぜか女性の方からやってくるのです。私が一見おとなしそうに見え、優しそうに見えるせいかもしれません。今ガビー(ガブリエラの愛称です)も一緒に務めておりいつの間にか同棲したのです。
私がどこに店を出そうかと検討している時、ガビーは「トゥーソンはどうか」と言いました。ガビーの勧める理由は、メキシコからロスに行く通路だから車が沢山通るというのです。私は今の町では物件の値段も高いし、寿司料理も多いいし、店を持つのは難しいなあと思っていたので、一度トゥーソンに行ってみようと思いました。
トゥーソンでレストランを開く
トゥーソンは「OK牧場の決闘」の舞台になったところです。それからアリゾナ大学があります。メキシコからの移民も沢山います。私が店を出すにはちょうどいいのかなあ、と心が動きました。街を歩いていると、いろんな人種の人がいてとても住みやすいように見えました。それに日本食の店はほとんどなかったです。まして寿司専門店などどこにもありません。
アパートに帰り店を出すのに必要な経費を算出しました。多く見積もっても今私の持っているお金でなんとか行けそうです。私は当分の間、店の2階に住めば出費もそんなに必要ないし、私が料理を作り、同棲しているガビーがウエイトレスをして後2人くらい雇えば何とかなると考え、出店を決心しました。
地元の不動産屋を回りとても良い店が見つかったので、私は即内金を入れその物件を押さえました。
なんとか出店して、1年が経ちました。握り寿司が珍しかったのでしょう。店はだんだん繁盛してきました。従業員は5人になりました。その中の一人に寿司の握り方を教えました。私がいなくても何とか店がやっていけるようなり一安心です。
以前から前歯の調子が悪かったので、この際治療をしようと思いました。どこが良いかと探している時、メキシコで治療すると安いとガビーが言ってくれました。メキシコはすぐ近くなので行ってみようと思い、ついでにメキシコ料理も見てこようと思ったのです。トゥーソンにはメキシコ系の人が多いです。それにガビーがメキシコ人なので私がメキシコ料理を研究すると良いメキシコ料理ができると思いました。歯の治療をしながら、料理を見るために少しまとまった時間が必要なので、ガビーに店のことを任せました。歯の治療の合間にメキシコ料理を、見たり、食べたりすることもでき、ちょうどよかったです。結局20日かかりました。治療費はかなり高額でしたが、アメリカで治療するより問題にならないくらい安かったです。しかも前歯なのでよい素材で作ってもらい、料理もしっかり研究することができました。このメキシコでの治療はとてもよかったです。
メキシコ料理もタコス、ブリトー、チラキレスなど本場で食べないとその味はわかりません。トルティーヤをどうやって作るかも大切だと思いました。トルティーヤ作りには、ガビーの意見もかなり入りました。こうやって本格的なメキシコ料理を店の売り物にすることができました。これも店の評判をあげる一因になりました。
このようにして店は繁盛し売り上げもだんだん上がってきました。この頃になると、住いはかなり広いコンドミアムを借りています。しかし同棲していたガビーに、母親が病気という連絡が入り、本国に帰ったので、私は一人になりました。一人なら、こんなに広いところはいらなかったのですが、仕方ありません。私は決して贅沢はしません。余ったお金は株を買うのです。その株も上がるのでこの時期は少しずつ余裕がでてきました。
店は任せられる信用のできる人ができました。その人をマネージャーにしました。マネージャーを含めて20人の従業員がいました。
このだんだん良くなる時期に、私のすぐ下の妹が旦那もつれてやってきました。苦労をして店を出し、成功した姿を見てくれて、私はとても嬉しかったです。彼女の優しい気持ちを、無駄にはできないと感じ、より一層頑張ろうという気持ちになりました。
45歳の時に自分に褒美のつもりで10月中旬にチリに観光で行きました。チリではカニなど海産物をたくさん食べ、とても美味しかったことを今でも覚えています。その間にアルゼンチンにも行きイグアスの滝を見ました。あのスケールの大きさ、滝の上から見たり、流れている途中を見たり、落ちてくるところを見たりでとても面白かったです。特に滝ツボに船で入りずぶぬれになって興奮しました。その後、12月末にチリ経由で帰りました。
50歳の時に日本に一時帰り韓国、台湾、インド南部にいき、12月一杯で回りました。
53歳の時に10月よりガテマラに行き1か月くらい歩いて回りました。この頃は一人旅行に取りつかれました。旅行すると、知らない人ばかりなので心がとてものんびりするのです。今まで一直線に走ってきたので、こんな休暇が必要だったのかもしれません。
54歳になるとものにつかれたように、旅行をしました。日本に帰りそこからカンボジア、ミャンマー、ベトナム、モンゴルに行きました。
同年9月に、カナダに行き、そこで中年で、どこか陽子に似たところのある、こぎれいな女性と、意気投合しました。彼女の名前は足立智子と言います。智子も一人旅行で、自由気ままな旅行ということでした。智子は一度結婚をしたことがあり、息子が一人いるそうです。気さくで話しやすいとても感じの良い女性です。私が、アメリカでレストランをしていると話したら、是非行きたいということなので、一緒にカナダを回り、そのままトゥーソンに連れて帰りました。
このまま私の店を手伝ってもいいということなので、私のコンドウに来てもらい、そこで寝泊まりして、私の店を手伝ってもらうことにしました。私は彼女にのめり込み、しばらく旅行はしません。その時の彼女は、とても可愛かったです。
12月に入り智子も一応私の店の切り盛りができるようになり、私は智子に店を任せ、又旅行にでました。一度日本に帰りそこから中国、インドと見て回り、どこもこれから発展するだろうという息吹を感じました。また日本に戻り妹の家でゆっくりしてアメリカに帰りました。
店は以前ほど繁盛していません。私が時々いなくなるからかも分かりません。私は少しずつ、以前のような意欲がなくなっていくのを感じました。このままではいけない、と思うのですがなかなか意欲がわきません。
ちょうどそんな時、2008年、9月にリーマンショックが起こりました。私の株は下がるし、店は暇になるしで、私はもうすっかり働く意欲をなくしました。ちょうどいい機会だから日本に帰ろう、という考えが脳裏に浮かび、人相学を極めその占いはとてもよく当たるという人がいると聞いたので、その人に私の写真を送りました。
その占いでは、「私はレストランのオーナーに向いていないし、株のような賭け事にも全く向いていない」そうです。それから「子供も45過ぎに持つのが良い、起業は今いるところから南西が良い」ということでした。それで日本に帰ることを決心したのです。店はマネージャーにゆずりました。その時私はもう55歳になっていました。約20年間アメリカで頑張ったのだなあと思うと感無量でした。
帰国して
智子を連れて帰りました。とりあえず母のマンションに居候して、次の仕事を考えました。
小料理屋を開こうと考えました。それで物件を探していたら、奈良に良い物件があるので見に行き、即、決断しました。理由は姉妹のマンションから近いし、物件の周りに結構住宅があり立地条件はとてもいいし金額も私が思っていたより安かったです。
急いで改装し、できるだけお金のかからないように、自分でできることは自分でしました。やっと自分の持っているお金で改装できました。その合間を見ては、周りの小料理屋のやりかた、料金、味などを調べて回ったのです。これは後でとても役に立ちました。
やっと年内に小料理屋が開けました。初めは一人二人と来客があり、1か月くらいするとなんとか採算が合うくらいになりました。私は生きのいい魚を仕入れ、ランチに刺身定食、天ぷら定食、すし定食などを考えました。特に魚の鮮度には自信がありとてもいいものを提供ししていたのです。それが評判になりとても繁盛しました。
このまま何もなく過ぎればよかったのですが、物事はそんなにうまくいきません。また私に黒い渦が襲ってきたのです。
私は仕事が終わってホッと一息をついている時、智子が怖い顔をして、私に暴言を吐きだしたのです。何のことかと思って聞いていると、私が洗い物をしないと怒っているのです。私は仕入れと料理を作るのだから、接待、配膳、洗い物は智子がするものだと思っていました。私が黙っているのをいいことに、金切り声で同じことをまくしたてました。私の脳裏に子供のころのあの父の顔と、智子の顔が重なったのです。でも私はじっと我慢をして最後まで聞いていました。智子はくたびれたのでしょう。隣の部屋に行き何かしていました。私は腹の中が煮えくり返り、どろどろとした黒い渦が顔を出し、私の心はすごい勢いで荒れだしました。こうなると私は自分で自分をコントロールすることができません。私は酒ビンを出して、がぶ飲みをしながら、智子を呼び、睨みつけて、今まで抑えていたことをすごい勢いで吐き出しました。昔のことも叫び、今日のことも大声で怒鳴り、私の荒れ方は尋常ではありません。智子はおびえた顔をしてただただ私を見ていました。私は言いたいだけ言うと、隣の部屋で寝ました。
次の朝は頭が痛いのと自己嫌悪に襲われたのとで一日中寝ていました。もちろん店は休みです。私はこのままいくとまた取り返しのつかないことになると思い、智子を呼び「離婚をしてくれ」と言ったら、智子は驚いた顔をして、「ちょっと時間を下さい」と言って息子のところに行きました。息子は前の夫の子供で30歳になっています。次の日息子と一緒に来て「まだ店もやっと軌道に乗り始めたばかりなので、後1年手伝ってもらえないか」と言ったので、私は「いまの形態なら続けてもいい」といいました。いまの形態とは私が売り上げを取り智子に給料を渡すということです。それで納得して私達は店を出して6か月目に離婚しました。智子は当面息子の家から通勤し私は店の2階で寝ることになりました。
このようにして1年が経ち私は店の権利の半分のお金をもらって店をやめました。できるだけ生活を切り詰めたおかげで、ある程度まとまったお金を手に入れることができました。それからアメリカから結構まとまったお金が送られてきました。それは店を譲った残りのお金です。
夢に向かって
私は、この年になってまた黒い渦に悩まされているのです。私はもう57歳になろうとしているのです。何時になったら楽になれるのでしょうか。どうにかしなければと思うのですが黒い渦が私を取り巻きます。今度のことで私は狂いそうでした。
またミャンマーに行って仏像をゆっくり見て、私を取り巻いている黒い渦を、鎮められればと思い、ミャンマーに旅立ちました。ミャンマーでは仏像を、一体、一体ゆっくり見て歩き、それをカメラに収め宿舎に帰ってゆっくり見返すと今まで感じなかった気持ちがわいてきました。とてもとても落ちついて、お腹の下の方から力が出てきて、気持が上向いてきました。それから、とりつかれたようにたくさん見て回りたくさんカメラに収めました。その次にベトナムに行きました。ここもとても良い仏像がたくさんありましたが疲れたので一度日本に帰ることにしました。
家に帰ったら、母の調子が悪くなっていたので、少し面倒を見ました。今まで外国に行ったまま何の世話もしていないのです。親孝行の真似事くらいしなければと、自分に言い聞かせ、食事はちゃんと年寄りの食べやすいものを作りました。掃除、洗濯などは姉が近くにいるので姉に任せました。
ベトナムで日本の男性に会って
2012年の8月中旬にまたベトナムに行きました。今まで見ていない仏像をゆっくり見ながら自分の心のケアをして歩き、とても心が平穏になりました。
ダナンで、年配の日本人男性に会いました。彼はベトナムの女性と結婚して、ベトナムの田舎に住んでいると言っていました。彼はとても穏やかで良い人だったので、一緒にホイアンに行きました。
彼はリタイヤー後、一緒に老後を楽しもうと言っていた奥さんに亡くなられ、心の穴を埋めようと、ベトナム旅行をしていました。その時、とても純真で可愛いベトナム女性に出会い、そこで結婚をしてそのままそこで生活している、と言っていました。子供が一人いるそうです。彼がどうしても自分のところに来て欲しい、と言うのでちょっと立ち寄ろうと思いました。私も人相判断で45歳過ぎに子供を持つといい、と書いてあったので良い出会いはないかと思っていました。彼の生き方に興味があったので、行ってみることにしました。
彼の住んでいる場所はかなり田舎で、家はトタン屋根でバラック小屋のような感じでした。そこには6人の妹弟がおり彼はその子供たちの面倒も見ていました。両親はもう亡くなっていると言っていました。奥さんは、その兄弟の面倒も見なければいけないので、彼の援助はとても助かると言っていました。奥さんはまだあどけなさを残していてとても可愛い人でした。
チャン ホン マイに会って
次の日には、私は彼にお礼を言って別れ、旅を続けました。今回の旅は9月5日に帰ろうと思っていました。ハノイに戻り公園でゆっくりしている時に、破れたジーンズをはいて(若者が好んではくジーンズ)Tシャツを着た若い女性が話しかけて来ました。私は昨日の奥さんのことを思い出し私にもチャンスが回ってきたのかと内心喜んだのも事実です。彼女はたどたどしい言葉で「あなたは日本人ですか」と聞きました。わたしは「そうですよ」と答え彼女が「英語はできますか」と聞いたので「はい」と答えました。そこで英語でいろいろ話しました。彼女は大学の日本語学科に通っており、1年生で、今日から学校が始まり、公園でゆっくりしているそうです。彼女はかなり背が低く私の肩くらいしかありません。丸顔でどことなく男性を誘うような小悪魔的なところがあり、しかもまだあどけなさを残しています。身体も若くてピチピチしており、とても魅力的な女の子です。私は一目で気に入りました。名前は、チャン ホン マイと言います。その後、私は彼女のことを、マイと呼び、マイは私のことを浅井さんと呼びました。私が昼ご飯をまだ食べていないとわかり、彼女はアパートに私をつれて行き、お昼を用意してくれました。私は内心、若い女性のアパートまで行けるのだという思いと、やっと若い女性に出会い、人相学で言われた運が回ってきたのか、という思いでとても嬉しかったのです。
彼女のアパートは、昨日行った田舎の家とは外観は違うのですが、中はそっくりでした。ベトナムの一般家庭は、こんなのだろうと思いました。そこには友人と2人で住んでいるそうです。2人とも学業が優秀で、政府から奨学金をもらい、田舎から出てきて下宿しているそうです。昼食はベトナムの家庭料理で野菜が多く私の口には会わなかったので少しだけ食べました。
次の日はマイとその友達とでハノイを見てまわりました。昼ご飯を食べて私は又来ることを約束し、電話番号を聞いて別れました。次の日に日本に向けて飛び立ちました。
私は日本に帰るとすぐマイの通っている大学の日本語科の偏差値を調べました。ベトナムでもかなり高い偏差値でした。
マイの中間試験は10月21日から11月2日でしたので、その前に行って試験勉強の手伝いをしようと思い10月17日に行きました。彼女の日本語に対する理解はとてもよく私がびっくりするくらいでした。18,19,20日と私の滞在しているホテルで試験勉強をしました。その成果には目を見張るものがありました。多分結果もいいでしょう。試験は11月2日に終わりました。試験が終わると私は彼女を抱きました。彼女は私より以前に何人かの男性とセックスをしいていたのでしょう、その行為はとても慣れたものがありました。少しも抵抗することもなくするっと私に抱かれたのです。身体は柔らかく、とてもなめらかで、身体に弾力もあるし、反応も良いし、私はマイに夢中になり、彼女におぼれていく自分を感じたのです。私は毎日彼女を抱いたのです。今から思えばよくやったものだと思います。まさに谷崎潤一郎の「痴人の愛」の世界です。その時マイは20歳、私は59歳でした。当時の私は、年より10歳くらい若く見えるそうですが、それでもマイは私の子供位の年です。
私の心の底には、陽子に対する贖罪もあったのかもしれません。陽子が欲しがっていた子供を作らなかったことへの贖罪・・・・。マイに、生まれなかった陽子と私の子供を感じて一層愛しくなったのかもしれません。
私は、マイと一緒に洋服店にきました。彼女は学校に行くときはジーンズとTシャツだったのですが、私と会うときはいつも胸が今にも見えそうな服を着るので、とても嫌でした。それで胸の詰まった服を2枚買ってやり、すぐ着換えさせたのです。私と会う時は、いつもそれを着てほしいと言いました。
胸の詰まった服を着たマイを連れて、いろんなところを見て回り、いろんなベトナム料理を食べました。私が特に美味しいと思ったのは「ラオ・ハイ・サン」です。これは海鮮鍋で海産物と野菜をたくさん入れた鍋です。リエンが地元の美味しい食堂に連れていってくれたので、日本人がよく行く店で食べるよりおいしかったです。ベトナムに来た時は、いつもその店で食べました。私は残ったお金をすべてマイに渡し、日本に11月30日に帰りました。帰りの飛行機の中で腰に少し違和感を感じました。この時点で治療院に行けばよかったのですが。
日本に帰ってすぐ、沖縄に飛びました。私はその時、沖縄でマイと一緒に住むことを考えていたのです。沖縄のベトナム友好協会に行き、会長と簡単にマイのことを話してパイプを作りました。それから沖縄本島もいいのですが、もっと西に良いところがないかと思い西に飛びました。何故かというと、人相占いで、南西で起業すると良いと書かれていたからです。私は人相学に凝ったことがあり、人相学は今でも信じているのです。宮古島、石垣島、などを見て回り最後に与那国島に行き、直感でここがいいと思いました。日本の最西端であり、海はとてもきれいで、まだまだ自然が沢山残っており、人情も厚いし、ここに住もうと決めました。
またマイの期末試験が12月21日に始まります。私は、沖縄からベトナムに飛びました。12月18日です。
彼女は19日20日と私のホテルに泊まり、来るとすぐ体を合わしてその後日本語の勉強をしました。彼女はセックスと勉強を、はっきり切り離しているからとてもやりやすかったです。私と体を合わせた後すぐ試験勉強に取り組めるのです。私はその姿を見ていると、とても愛しくなりまた抱きたくなるのですが我慢しました。今回は31日で帰りました。1~5日は母が帰るようにしつこく言うので帰ることにしたのです。
2013年の正月は福山で過ごしました。
1月2日に母と姉がスカイプ(ネットワークのテレビ電話)でマイと話をしました。マイは片言の日本語で話すのでとても可愛かったです。母も姉も可愛い子だいと言って、とても喜んでいました。でも「彼女は若いので、これから就職や、結婚などがあるから、適当にしておかないといけないよ」とくぎを刺されました。私はその忠告を本気で聞いていれば、次に来る絶望感に悩まされることはなかったのですが、その時はマイにのぼせていたので耳に入らなかったです。
1月6日にまたベトナムに行きました。まだ試験が続いているので前回と同じような生活です。
セックスをしては勉強です。でもその時から少しずつ腰の痛みが始まりました。私は甘く考え、たいしたことはないと思っていたのです。
期末テストは1月12日まであるのですが、私は腰の痛みが激しくなったので、マイには理由を言わないで11日に帰りました。
腰があまりにも痛いので整形外科に行きました。痛くなった理由は重いものを持ったので痛めたとだけ言い、湿布薬と、痛み止めの飲み薬と腰のサポーターをもらいました。それで少し楽になりました。
その後、少し母親の面倒を見て2月にはまた沖縄に行きました。本島から与那国に飛んでゆっくり与那国を見てまわりホームページを作る材料を探したのです。それと治療院を探しました。その治療院は、私の泊まっている「海人の家」から少し行くとありました。そこは「らくや」と言います。私が毎日通うのでそこの先生と仲良しになり、ホームページを作ることを請け負ったのです。私はホームページを作ることは大好きです。毎夜作りました。先生はとても喜び何かお礼をと言われたのですが固辞して沖縄から一時福山に帰りました。
3月23日から中間試験が始まります。私は3月22日にベトナムに行きました。腰が良くなったので彼女を抱いたのですが、また腰が痛くなったのです。4月4日まで試験があったのですが4月1日に日本に帰りました。彼女には何も言わないで用事ができたとだけ言って帰ったのです。
日本に帰り腰の治療をしながら母の介護をしました。私は又整形外科を受診しました。以前と同じように、痛み止めと湿布薬をもらいましたが、腰痛はとても痛み、私を苦しめました。マイとはスカイプで毎日連絡を取っていましたが彼女は何をしているかとても心配だったのですが、彼女に卒業したら日本に来るか、と聞いたら、イエスだったので安心していました。
このまま長い間、放っておくと良くないと思い(腰の状態はまだ良いという状態ではないのですが)11月12日にベトナムに行きました。マイの中間試験は10月21日から11月2日なのですが、彼女は優秀なので、この頃になると、私の指導なくても大丈夫になっていました。だから私はあえて日にちをずらしました。私は、身体を合わせることはすまい、これからのことを話そうと思っていました。
ベトナムでは、美味しいものを食べて、欲しいものを買ってやり、将来の私達の夢について語りました。私にとってはとても楽しいひと時でした。お金を置いてすぐ帰ろうと思っていましたが、帰る前に身体を合わせました。マイが誘うせいもあるのですが、なんと意志の弱い私なのでしょう。今回は腰に負担はかからなかったです。11月25日に福山に帰りました。
私は与那国島のお正月を見たいと思っていたので、12月に与那国島に行きました。いつも泊まる「海人の家」に泊まり友人たちとの、とても楽しい時間を過ごしました。その時の私は、常にマイと一緒だったらという、近い将来のことを考えて、生きる喜びを感じていました。マイが来たらどこに家を借りたら良いか、家具調度品は何を買い求めなければいけないか、お金はいくらかかるか、ベトナム料理店はどうか、などなど考え、とても楽しかったです。海人の家に泊まっている人、近所の人と、度々バーべキューをしてよく飲みました。これもひたすらマイが来た時の用意です。私がここの人に好かれていると、マイも住みやすいと思うのです。私は得意の握り寿司を良く作りました。ネタが新鮮なのでとても美味しいものが作れるのです。
正月には与那国島のおせちを食べました。
正月のお祝いはみんな総出で、大きな綱を編んで綱引きのようなことをしたり、舞台を作り昔からの踊りを踊ったり、男性の剣舞のような踊りもあったりで(こんなのをエイサーというのだろうと思いました)とても賑やかです。
お正月しか若い者が帰らないので、成人式も行われ、私も見学させてもらい、自分の成人式はなかったなあ、と思い少し感傷的になりました。
正月の綱引き、お祝いの踊り、成人式などたくさん写真に撮りました。それらは、与那国の宣伝になるか、観光用のホームページに使えるか、と思っていました。
小型船舶の操縦免許証を取りました。マイと一緒に生活した時に、船を操縦することができると楽しいだろうと思ったのです。
私は、ちょうど2学期の期末試験の最中(5月24日~6月14日)5月16日にベトナムに行きました。2週間くらい滞在する予定で行ったのです。ちょうど試験中なのでまた勉強に付き合うことができる、と思ったのですが、日本から母の調子が悪くなった、という連絡が入りました。残りのお金をマイに渡して、急遽日本に帰りました。
母はガンの末期でした。あまり苦しまずに6月14日に逝きました。私と姉妹で葬式をして送りました。その後母の遺品の整理、役所への届など、結構することがありましたが、7月末には大体済ませ、私は与那国島に行きました。与那国に住もうと思っていたので、私は住民票を一時「海人の家」に移しました。もちろん海人の家のオーナーの許可を受けてです。
マイとはスカイプで連絡を取って、10月28日に行くことにしました。彼女の卒業が来年の6月29日なので、日本に来るために必要なお金を持っていくことと、彼女の親に挨拶に行くためです。
私は幾分緊張して飛行機に乗りました。今までのベトナム行とはちょっと違いました。マイの試験が終るまでに、私は必要なものを買いました。11月2日にやっとマイはホテルに来ました。いつもと様子が違います。いつもはにこにこ笑顔をして来るのですが、今回は幾分こわばった顔でやってきました。来てすぐ言ったことは「私は、浅井さんと一緒に日本には行けません」でした。話の中身をよく聞くとせっかく国から奨学金をもらっているので大学を出てすぐ日本に行き、結婚はできない。教員になり、国に借りを返さなければいけない、それに弟や妹が沢山いるので親にも送金しなければいけない、だから一緒に行きたのだけど、どうしても行くことはできない、ということでした。彼女の言うことは当然だと、わかるのですが、私は足元から階段がガラガラと崩れていくのを感じました。それと同時に私はこの世では幸福になれないのだという、黒い渦の声を再び聞きました。
でもベトナムに居る時はまだしっかりしていました。もう二度と会えないので私はマイの身体を3日間むさぼり日本への飛行機に乗りました。でもこの3日間の記憶はありません。
夢破れて
私はベトナムから帰り、1週間くらい「海人の家」で寝ていました。黒い渦に巻き込まれて動けなかったのです。私のすることは、うまくいきそうで終わりはこんなものです。いつも黒い渦に巻き込まれて終わるのです。私の人生はこのまま終わってしまうのでしょうか。
こんなことを考えている時、人生が終わるならまだ見ていない南大東島周辺を見ようと、思ったのです。少しは元気が出たのでしょうか。
南大東島から帰り、これで与那国島に来ることはないと思い、正月は海人の家で過ごしました。みんなと飲んでも、歌っても、以前のように楽しくないのです。私がため息ばかりつくので、皆とても心配してくれました。身体の調子が悪いと言って、早々部屋に帰り寝ました。最近なかなか寝付かれないのです。悶々としている間に、夜が明けるのです。それからうとうするのです。毎日そんな生活なので、私は見る見るうちに痩せてきました。みんなが心配するので、一度沖縄本島に帰って診察を受ける、と言ってみんなと別れました。もう次の年(2015年)の2月になっていました。
沖縄本島に帰り、私は那覇より名護の方が住みよいだろうと思って(名護には以前住んだことがあったのです)名護のマンションを借りました。この年になって、まだ黒い渦に悩まされるのはいやだ、どうにかしなければと思い、本屋に行って何かいいものはないか、と探している時に、「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門」という本に出合いました。ぺらぺらっとめくっていくと、かなり興味をそそられることが書いてあったので、読んでみようと思い、買って帰りました。
瞑想合宿に参加して
家に帰って一気に読みました。私が生きていく上で参考になることが、沢山書かれていたのに驚いたのです。一番感動したところは「すべてのサンカーラは、生まれては消える。次の瞬間、またサンカーラが生まれ、そして消える。これを果てしなくくりかえす知恵をはぐくみ、冷静に観察すれば、この反応は止まり、サンカーラを消滅するプロセスが動き出す。反応さえしなければ、一枚一枚薄紙をはがすようにして古いサンカーラが心の表面に浮かびあがり、消えてゆくのである。サンカーラが取り除かれたら、その分だけ幸福を味わうことができる。苦からの自由を満喫できる。過去のサンカーラを根絶したとき、心は完全に開放され、無限の幸福を味わうことができるだろう。」(サンカーラとは心の形成。意志活動。心の反応。心の条件づけ。四の心の集合体)ここの部分を読んだとき、私は心臓を素手でつかまれたくらい衝撃を受けました。私が60年間苦しめられたことの、解決策がこの文章に表されているのです。瞑想を的確に行えば、今私が苦しめられている黒い渦が一枚一枚取り除かれていくのです。
私はその部分を読んで、瞑想合宿はどこであるのか、参加するにはどうしたらよいか調べ、京都にあると分かってすぐ京都に行きました。運よくそのまま瞑想合宿に参加できたのです。初めのうちは足が痛かったり、なかなか時間が経たなかったりで、とてもつらかったです。だんだん日が経つにつれて、自分の呼吸に集中できるようになり、気持ちも楽になり、時間も気にならなくなったのです。
10日間の瞑想を終わった時、私は心がとても軽くなったことを感じました。これが、心が自由になることなのでしょうか。それからとてもすがすがしかったです。すがすがしいという表現でいいのか、それとは違うような気もしますが、何かつきものが取れた、と表現する方がいいのかもしれません。
瞑想合宿以後の私は、あまり心が揺れなくなりました。なにかが起きても、ほとんど心が動じないのです。様々のものを見たり、感じたり、考えたりして判断していくようになったのです。
あの嫌な黒い渦はどこに行ったかと、思うほどいなくなりました。自分でもおかしいくらい心が軽くなりました。
それでやっと、前に向かって進もうという気持ちが、芽生えてきました。60歳から生まれ変わる、ということを過去に聞いたような気がしますが、まさに今の私はその心境です。
クルーズにて
ちょうどその時に「世界一周」の広告を見ました。どこも私が過去に行ったところばかりでしたが、船でゆっくり行くのも良いか、気分転換になるだろうと思い、すぐ申し込みました。これから新しい人生が始まるかもしれない、と思いとても楽しみでした。
乗船は12月17日です。私は沖縄に居たのですから、沖縄から乗船してもいいのですが、12月17日は私の誕生日なので、その日を再出発にあてるのがいいと思い、横浜から乗りました。
私は4人部屋でした。私と同年台の人達と一緒です。私は上の段の方がいいのでそこに決めました。皆は下がいいとじゃんけんで決めていました。2人は定年退職者で、もう一人はタクシーの運転手さんです。
その中の一人が隣の部屋の女性と仲良くなり、私達は一緒に、6時からの早朝コーヒーを飲み、7時からの食事を取ったのです。私はこの数か月暗かったのですが、一挙に明るくなりとても楽しくなりました。心が自由になりました。新しい生活に入ったせいでしょうか。
船は神戸により、沢山の乗船者が乗ってきました。その日に避難訓練があり、とてもめんどくさかったです。私はこのような集団訓練がとても嫌いです。めんどくさいなあ、と思っている間に終わりました。
次に沖縄に泊まりましたが、私は下船しようかどうかと迷ったのですが、やっぱり下船して町をプラプラ歩き、クリスマスプレゼントを買って帰りました。12月24日は、船内でクリスマスイベントがあるそうです。こうやって船内では、度々イベントがあります。
沖縄で乗船者がそろったので、ウエルカムパーティーが開かれ、ダンスパーティーもありました。私はウエルカムパーティーで、船長のあいさつやクルーの紹介を見て、ダンスパーティーを見に行きました。私は全くダンスをしたことがなかったので、皆とても上手に見え、とても楽しそうに思えたのです。それで、船内で、ダンスのカルチャー教室があるので、参加してみようと決めたのです。船内の生活を、少しでも楽しく過ごしたいからです。
次の日から、ダンスの練習は始まりました。男の先生で、理論的に教えてくれたので、私にはとても分かりやすかったです。初めは男女の組み方から教えてもらいました。その日は男女が組んで歩くところまでの、プログラムでした。ゆっくりした4拍子の曲で、歩くのにちょうどよい曲です。後でわかったのですが、ブルースという踊りだったのです。次の日は、少し回ったり、横に行ったり、と少し形が変わるのを練習しました。私はわからないので、いつもアイパットに録画して、廊下で練習しました。
1週間くらいすると、男女が離れてポジションを取り動く練習をしました。4拍子の曲なのに6拍子でひとまとまりになるのです。変だなあと思いながら練習をしました。この動きは初めに習ったブルースよりかなり難しかったです。私は基本ステップを、何回も何回も練習しました。このくらい練習して、やっとついていけるのです。ダンスのカルチャー教室は毎日あったのですが、寄港地に着いた時は、なくなります。
次の日は、ベトナムに着くのだけど、どうしようかと迷っていました。何を迷うのかというと、あの可愛かったマイに、連絡をとろうか、どうしようかと、迷っていたのです。彼女に対する私の気持ちは、あの時のような甘い気持ちは全くなく、今元気でどのような生活をしているのかなあ、というような、軽い気持ちです。でも私は連絡を取りませんでした。下船してダナンの街を一人でプラプラして船に戻りました。船に帰り、パソコンに入れているマイの顔を見ていたら、同室の男性に見られたので、以前の彼女だとだけ言っておきました。彼は「とても美人だね~え」と言いびっくりしていました。随分後で、彼は、私のダンスパートナーに「尚ちゃんの前の彼女は、とても美人だったよ」と言うのを聞いて、彼には、あまりいろんなことを話せないなあと感じたのです。
次の日からまた同じ生活です。でも私は、少しも退屈ではありません。ダンスを覚えるのに、どれだけ時間があっても足りないくらいです。私はいつも5時に目が覚めていたので、6時まで1時間もあるから、ダンスレッスンのあるホールで、ダンスの練習をしていたのです。
1月の初め頃だったでしょうか、ポットに水を入れに行った時に、ダンスレッスンでよくみかけるダンスの上手な女性が、水を入れに来ていたのです。彼女も早起きだなあと思いながら、レッスン場に戻ったのですが、もう一度レッスン場から出てみました。彼女は水を入れていました。私はしらない顔をしてホールに戻り練習をしていたら、先ほどの女性がのぞき、私がダンス練習をしているのを見て「私もご一緒していいですか」と言ったのを聞いて、私の心はとてもはずみました。私は即座に「どうぞどうぞ」と言いました。そしたらその女性はすぐ入って来て私と組んでくれました。その時の私は、こんな上手な女性と組めるなんて嘘ではないか、と思ったのです。
それから、彼女を連れて、モーニングコーヒーを飲む場所にいき、仲間に紹介して、一緒にコーヒーを飲みました。7時からの朝食は、彼女はご主人ととらないといけない、と言って別れたのです。その日の朝食は、気もそぞろで話も上の空だったのを覚えています。早くダンスレッスンに行きたい4446644気持ちで一杯でした。でも私はあの合宿以来、自分の気持ちを抑えすぐ反応しなくなっているので、外見には現れていなかったと思います。私は、人前では、表情がほとんど変化しなくなっていました。
彼女、あ!彼女の名前は山川美沙子と言いました。船では美沙ちゃんと呼ばれ、私は尚ちゃんと呼ばれていました。美沙ちゃんと私は、それからいつも一緒に組んで練習しました。彼女は私と居る時はあまり話をしませんが何となく波長が合いそうでした。
それからしばらくして、アルゼンチンタンゴの練習が始まりました。この船はリオのカーニバルの時にリオに停泊します。そのためダンスのレッスンの時にもアルゼンチンタンゴを練習します。そのほかに自主企画(これは乗船者がボランティアで希望者に教えるものです)で、ともさんが教えてくれました。彼はアジアで行われるアルゼンチンタンゴの競技に出ており、リオのカーニバルのために乗船しいているので、リオで下船するのです。
私達のグループは中間発表でアルゼンチンタンゴと、社交ダンスの発表をしましたが、それはひどいものでした。まだまだ練習が足りないので仕方ないです。
美沙ちゃんが麻雀をするから見てくれというので、彼女に麻雀のやり方を教えました。ダンスの恩返しのつもりでした。まあ本当に、何も知らないから始めから教えないといけないので大変でした。彼女は私のダンスに同じことを感じているのだろうなあ、と改めて認識しました。
次の寄港地はウシュアイアです。そこはカニがおいしかったことを思い出しました。私は美沙ちゃんと一緒に食事をしたかったし、彼女にカニを食べさせてあげたかったので思い切って、「昼ご飯は一緒に食べない?。ダンスのお礼もしたいから」と誘いました。彼女は「ダンスのお礼はいいよ」と言い「昼食は一緒にしましょう」と言ってくれました。私は顔に出さなかったけれど、とても嬉しかったのです。
ウシュアイアで下船し、私は朝、同室の人と汽車に乗り観光に行き、待合時間に間に合うように彼らと別れ、12時までに待合場所に行きました。美沙ちゃんはもう来て待っていました。二人でウシュアイアの狭い町を何回も歩き、結局たくさん人が入っている店に入りました。かにと地元の人が食べているものなどオーダーし、待っている時、同室の人が入ってきました。私は美沙ちゃんを紹介して彼らの、近くの席に移り、楽しい昼食になったのです。美沙ちゃんはカニの足を1本しか食べないで、あと全部私にくれました。たぶん彼女は、私がカニを好きだと思い、私に食べさせてくれたのだと思います。彼女の気持ちがわかり、とても嬉しかったです。私はこのような思いやりを、過去に感じた思い出がありません。その時、彼女にだんだん引き付けられていく、自分を感じました。
ランチを一緒に食べて以来私達の距離はどんどん近くなりました。早朝練習も打ち解けてきました。早朝のコーヒーtimeも楽しくなりました。私はどんどん彼女にはまっていきます。ダンスレッスンの時も、私は、レッスン場に入りすぐいつもの場所を見ます。そこに美沙ちゃんがいると安心します。ダンスも少しできるようになって、とても面白くなり、もっともっといろんな踊りを、踊りたくなりました。夜500円の飲み物1杯で踊れるところに行き、美沙ちゃんと9時頃まで踊りました。いつものレッスン場が空いている時は、そこで9時半頃まで美沙ちゃんと一緒に練習して、部屋に帰って休みました。
10時に寝て5時前に起きるという健康的な毎日を過ごしているのに、体はだんだん細くなり持ってきたズボンがダボダボになりました。食事もみんなが驚くくらい食べています。ちょっと心配なのですが、身体にはどこも痛いところもなく、通じも良いし、よく眠れるので良いかなと思っていました。でも下船したら病院に行ってみようと思っていました。
ウシュアイアで一緒に歩いて以来、私はいつも、美沙ちゃんと行動するようになりました。彼女のご主人は船の中が大好きで、下船して歩くのをとても嫌がります。グループで出ても、一緒に歩けないので、いつも早く船に戻ります。そのときは必ず、美沙ちゃんが船に送っていかなければいけないのです。だから美沙ちゃんは、いつも一人で行動していたようです。私と出るようになって、彼女はとても喜んでいます。私もいつも一人行動だったので、お互いに連れができて良かったのです。
彼女がいつも、ダンスのリードをしてくれるので、私は下船時、フルーツなどを買ってきては、早朝練習の時に、ナイフで皮をむいで食べさせてあげました。美沙ちゃんは、そんなことをしてもらったことがないらしく「嬉しい、嬉しい」と連発して、喜んでいました。私も嬉しくなって、下船の度にフルーツを買ってきました。いつも「美味しい。美味しい」と言って、喜んで食べる様子を見るのが、とても楽しかったです。彼女は年の割に(私より年上だと言っていました’)とても素直で、純真なところがあるなあと思ったのです。
私は、彼女をだんだん好きになり、早朝ダンスをしている時に、とても興奮してきます。その時は、何もない振りをして水を飲んだり、汗を拭いたりして、自分をなだめるのに苦労をしました。知ってか、知らないでか、わかりませんが彼女も水を飲んでいました。
ある日、私は自分の気持ちを抑えることができなくなり、彼女を引き寄せ、唇を合わせようと思ったのですが、美沙ちゃんがびっくりしたので、すぐ「ごめんごめん」と謝りました。彼女は真面目に生きてきて、この様なことはしたことがないのでしょう。私はあまりにも感情に流された自分を恥じました。今日のダンスレッスンの時に、自分と組んでくれるか、とても心配でした。どきどきしながら、ダンスレッスンに行きました。ちゃんと私の席を取ってくれて、いつも通りに話をしてくれたので、ほっとしました。瞑想合宿で感情はすぐには出さない、ということをしっかり体得したはずなのですが、恋愛感情は例外なのでしょうか。こういう面での、修行が足りないのでしょう。
ダンスパーティーがあり、私は食事に行くのが遅くて、6時の開始に間に合いませんでした。急いでいくと、美沙ちゃんはもう他の男性と踊っていました。私はあーあしょうがないなあ~と思い、次からは絶対に早く行こうと、心の中で決心したのです。彼女が他の男性と踊るのは、絶対に見たくないのです。私も父親と同じように、独占欲が強いにでしょうか。でもあの黒い渦は顔を出しません。合宿の効果はあったのでしょう。
今の私は、感情が穏やかで心がざわついていません。何か問題があっても、喜怒哀楽の感情は、すぐにはわいてきません。(でも例外があったのですが)少し落ちついて、判断し、少しして感情がわいてきます。すごく心は落ち着いて過ごせます。私はとても楽になりました。私は60歳から生まれ変わったのです。新しい人間関係の中で、新しい人生を生きるのです。
あれやこれやしている間に、下船の時がやってきました。私は横浜でおりて那覇に帰ります。荷物をまとめて明日は下船だと思い、とても寂しい感傷的な感情がわいてきます。
夜はダンスのできるところで、美沙ちゃんと最後のダンスを踊ります。このまま別れるのかなあと、悲しく、とても心残りのある複雑な感情を抱えていました。500円の炭酸水を飲んでいる時に、美沙ちゃんがやってきました。彼女は何か思いつめたような表情をしています。私は少し身構えました。こんな時、美沙ちゃんは、結論から先に言います。何を言うのかなあと思っていたら、彼女は「ダメだったら仕方ないのだけど、広島に来て一緒にダンスをしない?」と言いました。私は即座に「広島に行くよ」と言いました。「帰って荷物をまとめて転宅の用意ができ次第行くよ」と答えました。彼女は、最初びっくりして、次にとても喜びました。私は心の中で、広島に帰っても絶対に家族とは連絡を取るまいと思っていました。美沙ちゃんには私が福山出身だと言ってないのです。
私はこのクルーズで人間関係が変わり、生きていく世界が変わったのです。人間関係は美沙ちゃんにつながる人が多くなるでしょう。生きていく世界はダンスの世界になるのです。今まで想像しなかった世界です。新しい世界に希望を持って船を降りました。
下船して
私は下船してすぐ沖縄に帰りました。管理人さんにおみやげを持ってあいさつに行ったら、「若くなりましたね」と言ってびっくりされました。少し明るくなったのでしょうか。心の中に明かりが見えると、前向きになるのでしょう。私は美沙ちゃんと早く踊りたかったから前向きの表情をしていたのでしょう。少し状況が変わると心の中はすごく変化するものです。
引っ越しの準備をしている時にクルーズを一緒にした仲間から遊びに来ないかという連絡が入りました。熱海の旅館で、ダンスパーティーがあるそうです。美沙ちゃんに連絡をすると、行くという返事が帰ってきました。私は又美沙ちゃんに会え、ダンスができると思いその日がとても待ちどおしかったのです。
5月ダンスパーティー
ダンスパーティーは5月の中旬にあるのでその帰りに広島によって、次のマンションを決めようと思いました。私は飛行機で行き、美沙ちゃんは新幹線で行きます。当時の待合時間に、間に合いそうにないので、1日早く行くことにしました。美沙ちゃんに連絡したら、早く出ることはできないとのことなので、私一人で待合場所に近いホテルを取りました。それはとても残念でした。私は美沙ちゃんと、楽しい一夜を過ごしたかったのですが。それもままなりません。
夕食はコンビニで買ってきて、一人わびしく食べました。沖縄では風呂に入ったことがないので、食後すぐ風呂に入ろうと思いホテルのタオルセットと浴衣を持って風呂に行きました。今頃の浴衣は、甚平のようになっていてとても着心地がいいです。
風呂はさすが熱海です、いろんな工夫がされていました。バブル、打たせ湯、肩腰の凝りを取る風呂、サウナ、塩サウナ、露天風呂などいろいろ趣向を凝らしていました。私は、やっぱり大風呂が好きです。お湯は熱からず、ぬるからずちょうどいいです。いろんな風呂に入っていたら、1時間くらい経ち、目がくらくらしてきたので風呂を出て部屋に帰ると、すぐ眠くなりそのまま寝てしまいました。
次の日は待合場所がすぐ傍なので、ゆっくり朝風呂に入り、朝食もゆっくり取り、待合場所に行きました。もう美沙ちゃんは来ていました。美沙ちゃんはすぐ私の隣に来て今までのことを取りとめもなく話をしています。私は聞くでもなく聞かないでもなく、あいまいな返事をします。美沙ちゃんは、そんなことなどお構いなしに、べらべらとよくしゃべります。私は自分がしゃべらなくてもいいからそのまま聞き流します。そのうちみんな揃ったので、ホテルに移動します。とても大きなホテルでびっくりしました。ダンス場も大きくおまけに鏡もあります。とても立派なのでびっくりです。
みんな一緒にランチを取り、その後、責任者の人が、大体の流れが書いてある紙をくれて、部屋のキーを渡してくれました。みんなそれぞれの部屋に分かれました。私は同年配の男性3人と一緒でした。美沙ちゃんはクルーズで親しかったアイちゃんと同室を希望したので、アイちゃんと一緒の部屋でした。
部屋でゆっくり休んでいたら、ダンスの時間になったのでダンス場に行きました。美沙ちゃんはアイちゃんと一緒に来ていました。クルーズで習った準備体操用の運動をして、それぞれダンス練習をしました。私は美沙ちゃんと踊りたいのでパートナーチェンジをしないでひたすら彼女と踊りました。ダンスの後記念写真を撮り、ダンスタイムは4時に終わり、6時まで自由です。6時から懇談会です。私は部屋に帰り、風呂に入り、少しうとうとしていたらもう集合時間です。
少し早く行ったつもりなのですが、もう美沙ちゃん達は来ていました。美沙ちゃんとアイちゃんと私は同じ席に着きました。
宴会は世話人のあいさつで始まり、自己紹介、近況報告が続き、後は懇談会です。みんなとても楽しそうです。その時、私は船に乗ってよかったなあと思っていたのです。私はいままで黒い渦に苦しめられました。ここにいる人達はみんな何かをなし終えた人たちなのでしょう。今いろんなものを乗り越えて、人生を楽しんでいるのです。私もいろいろもがいたけれど、この年になってやっと人生を楽しめるようになりました。色々あったことが、決して無駄ではなかったのだろうと思い、感傷的になりました。そんなことを考えていたら、美沙ちゃんが心配そうな顔をしていたのでやめました。会は終わり記念写真を撮りました。みんんな、三々五々別れて部屋に戻りました。私は明日の朝食の約束を美沙ちゃんとして部屋に帰りました。
部屋では、誰が持ってきたのかわからないのですが、酒盛りが始まっていました。ウイスキー、ビール、ブランデー、焼酎とかいろんなものがありました。それにつまみもありました。みんなよく気が付きます。数名の女性も交じって、とても楽しそうに談笑しながら、お酒を楽しんでいるのです。私はあの瞑想合宿以来、アルコールはやめています。だから少しみんなと話をして、布団に入ったらそのまま寝ていました。朝まで何もわかりませんでした。ダンスをしてよほどくたびれたのでしょう。
朝は早く目が覚め、朝風呂に行くと、風呂の前で美沙ちゃん達と会いました。美沙ちゃんも早起きだなあと寝ボケ頭で思いました。風呂につかっているとだんだん頭がはっきりしてくるのが分かり、髭を剃り風呂を出ました。
部屋に帰るとまだみんな寝ているのです。昨日遅くまで飲んだのだろう、若いなあと感心していると、皆、徐々に起きてきました。皆、風呂に行ったので、私は少し早いなあと思いながら朝食の場所に行きました。でももう美沙ちゃん達は来ていました。
朝食場所に入ると、バイキング形式で、好きなものを取るようになっていたので、私はたくさん取りました。何回も行くのが、めんどくさかったからです。それを見て、アイちゃんはびっくりした顔をしたので、美沙ちゃんが、「多分何回も取りに行きたくないのでしょう」と弁解してくれたので、とても気分が良くなりました。美沙ちゃんは私のことを良く理解してくれています。ありがたいことです。
9時から又ダンスです。今度はペアを作り、明日の発表会に向けて練習するのです。私はもちろん美沙ちゃんとペアを組みます。ワルツとタンゴを踊ろうと思っていました。私はまだラテンはうまく踊れないからです。
午後は観光に出る人は出てもよい、練習をする人は練習をしてもよい、とフリーになっていました。私達はコンビニで弁当を買って、それを食べ少しゆっくりして、再び練習をしました。私はダンスを踊っている時が一番好きです。何もかも忘れて、ダンスに入ることができます。ワルツと、タンゴを、何回も何回も練習しました。
練習を終えて、風呂に入り夕食です。美沙ちゃんアイちゃんと一緒に楽しい夕食になりました。バイキングなので私は刺身とローストビーフを沢山取りました。美沙ちゃんは野菜ものだらけです。私とは好みが全く違います。
今日も私の部屋は宴会です。私はそれに参加することなくすぐ寝ました。
次の日は楽しい発表会でした。私は美沙ちゃんと楽しくダンスをしました。タンゴが特に好きです。楽しい時はすぐに終わります。発表会はすぐ終わりました。みんないろんなポーズを取って記念写真を取り、別れを惜しんでいました。でも再会を約束してそれぞれに帰っていきました。
私は、新幹線で広島に向かいました。その日に不動産屋に行きいろいろ見て回りました。結論は利便性を選ぶか居住性を選ぶかです。私は利便性を選びました。その分狭いです。仮契約を結んで沖縄に帰りました。
沖縄では荷物をまとめたり、引っ越し業者を選んで話を詰めたり、借りた家電の返却をしたり、とても忙しかったです。でも美沙ちゃんと早くダンスをしたかったので頑張りました。
広島での新しい生活
このようにして私は広島に行きました。荷物は私より1日遅くつくので私が広島に、着いた日には部屋には何もありません。ホテルに泊まればいいのですが、無駄なお金は使いたくないので、美沙ちゃんに余分の布団があれば持ってきてほしいと頼みました。美沙ちゃんはすぐ持ってきてくれました。しかもシーツを付けています。本当にありがたかったです。
私は新しい部屋で、美沙ちゃんを抱こうとしたのですが、美沙ちゃんは私とはそんな関係になりたくないと言って嫌がったのです。理由はまだ配偶者がいるということでした。きちんと離婚していないのでそんないいかげんなことはできないという理由です。私は愕然としました。ご主人には騙され、借金を背負わされ、浮気され、挙句の果てには彼は病気になり働くこともできなくなり、何十年も女性としてほったらかしにされ、それでも操を立てるのかと、一言も言えませんでした。美沙ちゃんは旦那が病気でなかったら別れて自由の身になりたいけれど、病気なのでそれもできないと言って泣いていました。私はそれについて何も言うことができなくて我慢しました。
次の日に美沙ちゃんは、親友の時ちゃんのリーダー八神さんと相談して、私たちのダンスの先生として庄司さんを紹介してくれました。後でわかったのですが、庄司さんはアマチュアなのだけどダンスを教えている人なのです。初めのうちは訳が分からないので何を言われても付いて行くだけでした。そのうち、少し動きが分かって、私は、美沙ちゃんが渡してくれた教本を読むようになり、庄司さんの言っていることと、教本に書いてあることの違いが、沢山あることに気付いたのです。それで私はもっとしっかりした先生に習いたいと思い、庄司さんには1週間に3回習っていたのですが、それを1回にして、プロの先生に1週間に2回習うことにしました。初めからプロの先生に習っていたらもっと早く上達したのに、と思いとても悔しくてたまりませでした。美沙ちゃんは、変な人を紹介して、ごめんなさい、ごめんなさい、と言って謝ります。でも仕方ないです。
このようにして広島での生活が始まりました。
話はちょっと戻るのですが、沖縄に居る時から、少し体の調子が悪かったので、広島に来てすぐ(7月)近くのクリニックに検診に行きました。先生は、肺に影のようなものが見えるから、3か月後に来なさいと言われました。その時すぐ精密検査をしていたら、私はもっと長生きできたのでしょうが、そのままにしてダンス練習に打ち込みました。
レッスンの後毎日近くの老人福祉施設に練習に行って帰っていました。帰宅後シャワーを浴びて美沙ちゃんの作ってくれた弁当を食べ、美沙ちゃんからかかってくる電話を聞いてすぐ寝るという毎日でした。とても充実した毎日です。
11月に精密検査を受けました。緊急電話が入り、美沙ちゃんと一緒に検診所に駆けつけました。肺に影だけではなく、その下の方にも何かあるから、速やかに専門医の受診を、受けなければいけないと言われ、市民病院受診を希望しました。
市民病院で見てもらった結果、腎臓にガンが発生しており、それが肺に転移しているということでした。「これはかなり以前からできていたものであろう。手術をするかそれとも抗がん剤治療をするかどっちにするか」といわれ、私が迷っている間に美沙ちゃんが、「手術をしたらどうですか」といったので、その通りにしました。手術は次の年の1月13日に決まりました。
家に帰り、私はこれからのことがとても不安になり夕食を食べながら、焼酎を広島に来て始めて飲みました。ちょうどいい気分になったころ、美沙ちゃんから電話があり、彼女はすぐ私が飲んでいることに気付き、「飲んでいるのではないの」と言い、私はすぐ「飲んでないよ」と言い返したのです。でもその言い方が面白かったのでしょう、美沙ちゃんは「尚ちゃんのお酒は良いお酒なのね」と言ったので、私はヘラヘラと「飲んでいないよ」と言い返したら、彼女は大声で笑っていました。私の中の黒い渦はアルコールを飲んでも出てこなくなったのでしょう。とても安心しました。
美沙ちゃんと私は手術の日まで毎日練習しました。プロの先生と庄司さんとのレッスンです。プロの先生のレッスンと、庄司さんのレッスンは、歴然と違っていました。上手くなろうと思ったら、それ相応のお金を使わなければいけないことを、嫌と言うほど感じました
そうこうしている間に手術日の前日になりました。私は荷物をまとめて美沙ちゃんに付き添われて病院に行きました。チョット心細いのですが、美沙ちゃんが付いていてくれているのでとても心が安らぎます。
手術は1時から6時までととても長かったようです。これは後から美沙ちゃんに聞きました。
美沙ちゃんは私の麻酔が切れた時期を見計らって帰っていきました。
次の日から美沙ちゃんは毎日来てくれました。手術一日目は看護婦さんに動きなさいと言われてもあまり動くことはできなかったです。彼女は、私が食事をとるのを見て、少しして帰りました。
次の日は、集会室まで歩き、そこで話をしました。
その次の日、私は美沙ちゃんが来るまでに屋上の散歩場を見て歩き、気持ちが良かったので、美沙ちゃんをそこに案内しました。美沙ちゃんはその場所を気に入ってとても喜んでくれました。
その次の日は雪でした。今日は来られないかなあと、少し寂しくなっていたのですが、美沙ちゃんはバスで来てくれました。私はとても嬉しく、ハイテンションになって、いつもより饒舌でした。
美沙ちゃんは、毎日来てくれて、たわいもない話をしたのです。私は美沙ちゃんが来る時間を心待ちにしていました。美沙ちゃんが来ると、とても楽しかったです。そうやって1週間後に退院しました。
次の日から毎日、私の面倒を見に部屋にやって来ました。いつも昼ご飯と夕ご飯を弁当にして持ってきてくれます。退屈だろうと言っては、宇品の海岸、ショッピングモール、吉島の船を見に行く、など毎日ドライブをしました。私は美沙ちゃんといると、とても心が浮き浮きします。美沙ちゃんは良くしゃべり、やかましいなあと思うこともありましたが、今はそれが心地よいのです。
そうして少しすると動けるようになり、近くのスポーツセンターに行ってダンスの練習を始めました。昼のお弁当は毎日スポーツセンターのロビーで食べていました。掃除のおばさんとも仲良しになりよく話をします。美沙ちゃんがカープフアンなのでそのおばさんと話が良く合います。とても楽しいひと時です。
2月に入り抗ガン治療を始めたのですが副作用がひどく、薬を変えました。それでもひどいので私は、こんなに苦しいのなら早く死んでもいいと思い、抗ガン治療をやめました。約1か月くらい治療をしてやめたのです。
4月に入り福山である初めての競技会に出ました。会場が福山なので、知った人に会わなければいいと思っていましたが、それは無駄な心配でした。結果はダメでしたが何となく様子はわかりました。
7月、9月、と広島県で行われた競技会に出ました。少しずつ競技会に慣れてきました。11月に広島市のスポーツセンターで行われた競技会で私達は優勝したのです。癌の手術をしてまだ一年もたっていないのです。本格的にダンスを始めて、空白の時間をのぞいて、丸1年練習しただけなのです。嬉しくて飛び上がりたいくらいでした。
2018年に入り正月は、朝早くから風呂のある施設に行き1日中、風呂に入ったり出たりしました。昼ご飯は美沙ちゃんが、沢山正月料理を作っているので、それを食べていました。風呂のおばさんとも親しくなりたわいもない話をして過ごしました。
オセアニアクルーズ
この年はオーストラリアのクルーズに行きました。美沙ちゃんのご主人が部屋にいるのが好きで下船をしないので、船が止まった時は、いつも私と美沙ちゃんは、一緒に下船をして、町を見て回りました。でもご主人が「寅さんのCD」を買ってきてくれと、頼むのでそれを探して歩くのが大変でした。「寅さん」はどこを探してもないので、違うCDを買って帰りました。次には「DVDプレーヤーが壊れたので買ってきてくれ」と言われたと、困った顔をしていたので、また私が付き合うことになったのです。美沙ちゃんは英会話があまりできないので、私のことをとても頼りにしてくれました。私は頼られとても良い気持ちがしました。頼られると言うのはとても心地よいものです。
船ではダンスパーティーが時々ありました。私は早く夕食を食べて、美沙ちゃんより早く行ってほかの女性と踊っていました。美沙ちゃんが来るとほかの女性と、1曲くらい踊ってすぐ美沙ちゃんのところに行ったのです。私の本音は美沙ちゃんとだけ踊りたいのです。また美沙ちゃんが他の男性と踊るのは全く見たくないのです。ダンスパーティーの時はいつもこのパターンでした。
このクルーズも朝5時から練習して6時にモーニングコーヒー、9時から練習、お互いに何も予定がない時はどこかで練習していました。そうっやって10時になると分かれてそれぞれの部屋に帰ります。とても楽しい日々です。
美沙ちゃんのご主人の買い物がない時は、4~5人くらいで下船して、そのグループでマイクロバスをチャターして観光をしていました。安上がりでとても楽しかったです。このクルーズも楽しいまま終わりました。
広島でのダンス
また広島に帰りダンス三昧の毎日です。美沙ちゃんは日曜日に私の家に来て、掃除をしてくれて休みます。私はそっとして休ませてあげます。彼女は本当に安心してとても良い気持ちで寝ています。私はその時、彼女とは男女の関係にならなくてよかったなあと改めて思います。何故かと言うと心がざわつかないのです。最近、彼女は私に対して母親のようになったり、私の子供のようになったり、恋人になったりと、いろんな美沙ちゃんになります。その時、美沙ちゃんはとても可愛いと思い、思わず「美沙ちゃんってかわいいねえ」と言ってしまいます。その時美沙ちゃんは嬉しそうに笑います。又それがとても愛おしくなります。こんな穏やかな日々が最近多くあります。
徳島の競技大会に出る日、私は寝ていて美沙ちゃんに起こされました。その前日彼女が私の悪いところを指摘して少し怒ったのです。その時、私は何も感じずにああそうかと思っただけでした。それから家に帰り、彼女の電話に出て寝ようと思った時に、昼間のトラブルのことを思いだして眠れなくなり、焼酎を飲みました。たくさん飲み過ぎて朝起きることができませんでした。焼酎を沢山飲んだのですが、黒い渦は出てきませんでした。私は本当に黒い渦から抜けたのでしょうか。
私は、急いで歯を磨き、顔を洗い服を着替え出発の準備をしました。美沙ちゃんは私に指示をしながら、私の荷物をまとめ、車に乗せていました。私がもごもごと、昨日のことを言いかけたら「そんなことどうでもいいから早く準備をしいて」と言って取り合わなかったのです。私は自分の失態をなじらない美沙ちゃんに感謝しました。車の中ではたわいもない話をし、今朝のことは全く忘れたようでした。おかしい話ですが私もそのうち忘れてしまいました。試合の結果は準決勝まで行けました。
2019年に入り私のダンスの技術は少しずつ向上しました。後1回入賞するともう一ランク上がるので頑張って高知まで行きましたが結果は準決勝止まりです。来年には何とかなるだろうと、上が見えてきたので毎日練習をしました。スポーツセンターで練習して、その後、近くの老人福祉施設で夜まで練習をしました。
日本一周クルーズ
8月には日本一周のクルーズに行きました。このクルーズはプサン、ウラジオストックに行きます。夏のクルーズなので、暑さとの戦いでした。
プサンは前年度美沙ちゃんと一緒に歩いたので慣れています。駅の地下で、美沙ちゃんはワンピースとソックスと靴を買いました。プサンの地下はシェルターになるので、とても広いです。
金沢は暑くて、暑くて兼六公園も入ってすぐ出ました。市場で、地物の魚のてんぷらを食べたのですが、とても美味しかったです。
小樽ではニシン御殿を見て、そのすぐ傍で食べたニシンの焼き魚は、とても美味しかったです。
ウラジオストックでは、観光バスに乗ないと町に出られないので、バスに乗って出たのですが、観光と言っても何も見るものがありませんでした。港の傍に少し見るものがあったくらいです。良かったのは、私がネットで調べたレストランです。みんなと一緒に行ったのですが、みんな美味しい美味しいと言って、喜んでいました。後でわかったのですがこのクルーズが私達の最後のクルーズになりました。美沙ちゃんと、楽しい時を過ごしたのですが、最後と分かっていたら、もっともっと楽しめばよかったなあ、と思っています。
コロナの中でのダンス練習
次の年は2月に大阪の競技に出ました。これも残念ながら準決勝止まりです。でも今年こそはと、とても心が燃えていました。その後、コロナと言う魔物が私達いや、全世界を襲ったのです。3月に出ようと思っていた競技会はなくなり、今後の予定が全くつかなくなりました。練習する場所もなくなり、私達は高速道路を利用して行く、かなり遠くの民間のレッスン場を借りて練習をしました。
途中の休憩所で弁当を食べて、コーヒーを飲んで、時間を調節していくのです。これもとても楽しかったです。チョットしたドライブです。そこで2時間、美沙ちゃんとだけで練習して帰るのです。今から思えばのんびりした、いい時間だったと思います。
でもそれも長く続きませんでした。5月の半ば、私は弁当を半分しか、食べられなくなってきたのです。気分も悪くなってきました。美沙ちゃんは「主治医に見てもらったらどう」と言ったのですが私は、インフルエンザが流行っていた時、「インフルエンザの検査をしろ」と言われたことを思い出し、「コロナの検査をしろと言われるのではないか」と言い、「今度の健診の時に見てもらう」と言い張りました。美沙ちゃんは「私ならすぐ見てもらうのだけど、尚ちゃんはそうやって自分で判断して生きてきたのだから、私が何を言っても聞かないでしょうね」と言って何も言いませんでした。後から思えば、すぐ主治医の健診を受けていたら、良かったと思います。
主治医の受診を受けて
私は、2020年の6月下旬に定期健診を受けました。今の症状を言うと主治医は、すぐ脳外科を紹介してくれて脳外科に行きました。MRIを取ってきなさいということなので、以前に行ったことのある私の家のすぐ近くの脳外科に、連絡を取ると翌日の予約が取れました。主治医が紹介してくれた脳外科の先生にそのことを連絡すると、MRIをとったらその日に来なさい、ということなのですぐ行きました。脳の左側に2センチ大の病巣がありました。主治医は、「ガンマーナイフの治療を受けなければいけない」と言う診断を出し、ここではできないと言われ、その設備のある病院を紹介されました。
紹介された病院にすぐ行き、7月の下旬に手術をすることになったのです。それまで時間があるのでダンスレッスンを受け遠くの練習場にも通い練習しました。この間の行動はすべて美沙ちゃんの車で動いているのです。今の私には美沙ちゃんなしでは、いろいろ動くことができませんし、いろんな決断も美沙ちゃんなしではできないのです。病気になり傍に私のことを思ってくれる人がいるということはとても心強いです。今は心も安定し、黒い渦のことなど忘れ去っています。
私は少しの現金、株を持っています。遺産を受け取る人がいないので、昨年遺言を書きました。美沙ちゃんには、私のお金の一割強の遺産を、残すことにしているのですが最近それでは少ないと思い、クルーズがコロナのために中止になり、納金したお金が返金されます。そのお金をすべて、美沙ちゃんの通帳に入るようにしました。遺言では、美沙ちゃんに渡すお金以外は、すべて寄付をします。私は若い頃、アフリカとか東南アジアとか貧しい国をたくさん見ました。そこでは子供がとても可愛そうな生活をしている現実を見ています。だから私の生きた証として、少しでも世の中の役に立ちたいと思い、寄付することを、以前から決めていたのです。
話は変わりますが、私は今年の2月からワンルームマンションから県営アパートに移りました。一人には広くとてもゆったり生活ができます。のんびりした日々を経験し、こんな日々が長く続くといいなあと、思っていたのですが人生そんなにうまくはいきません。
ガンマーナイフの手術を受けて
7月になりガンマーナイフを受ける日が来ました。前日入院して翌日受け次の日に退院してよいそうです。頭に変なものを付けて、手術室に入り私が寝ている間に終わりました。美沙ちゃんは手術室の外で待っていてくれ私が落ち着くまでいてくれました。落ち着いて少し眠っている時に帰りました。
次の日朝食を食べてゆっくりしている時、美沙ちゃんがやってきました。荷物をまとめていたのですぐ退院の手続きをし、お金を払い退院しました。この日は家でゆっくりして、美沙ちゃんは私の夕食を作って帰っていきました。明日は美沙ちゃんとレッスンを受けに行くのです。私の気持ちはとても穏やかでした。いつもの通り寝る前に、美沙ちゃんから電話があり、お休みのあいさつをして寝ました。
次の日は厳しいプロの先生の指導を受けました。この先生に変わって私のダンススキルはめきめき上達しています。今まで上手だと思っていた、美沙ちゃんのダンスもたいしたことはない、と思ったのです。美沙ちゃんとファミレスで昼食を取り、美沙ちゃんとゆっくり話をして、家に帰りました。私はいつもの通り少し家で休んで老人福祉施設に行き練習をしました。コロナの蔓延防止条例が出ているのですが、この施設は利用できるのです。その後で帰って、食後、美沙ちゃんからの電話に出てお休みを言って床に就きました。
次の朝、頭痛がして、気分が悪く、起き上がれないのです。美沙ちゃんからの電話があった時にそのことを言うとすぐ来てくれました。土曜日だったので主治医に連絡がつき、主治医の先生は脳外科の先生に連絡をしてくださり、脳外科の先生と話をして、ガンマーナイフの治療をしてくださった先生に連絡をしてよいという許可をもらいました。ガンマーをしてくださった先生は、すぐに来てくださいという返事でした。脳外科の先生にそのことを連絡してすぐ荷物をまとめて先日入院していた病院に行きました。この間のやり取りはすべて美沙ちゃんがしてくれたのです。この間のやり取りはその時の私には記憶がありません。この話は、私が落ち着いた、かなり後に、聞いたことです。
再入院
そうやってまた私は入院したのです。7月の終わる時でした。それから美沙ちゃんは毎日私の洗濯物を持ってきてくれました。病院の用意してくれるパジャマなどを利用すると美沙ちゃんと会えないので利用しませんでした。美沙ちゃんも私と同じ気持ちなのでとても良かったです。初めの1週間くらいは待合室で面会できたのですが、私がだんだんふらふらしだしたので、美沙ちゃんは病室にやってきてくれました。
その2,3日後私は睡眠薬を飲んでいたので、その副作用でしょうか、夜中にふらふら歩いていて転倒してとても激しく前頭をうちました。夜中に美沙ちゃんに連絡をしたようですが、美沙ちゃんは、携帯電話も固定電話もリビングにあって気が付かなかったようです。朝その連絡を見てびくりして、すぐ駆けつけてくれました。私の大きなこぶを見て、おろおろしていました。主治医から脳のCTを見ながら説明を受けていました。今のところ脳には異常がないそうです。でも夜転んだせいで、私は一人で歩けなくなりました。一日中ベッドに居なければいけないのです。これはとても苦痛でした。また一人で歩くことができなくなりました。車いすが必要になったのです。
それから毎日、美沙ちゃんは病室までやってきました。車いすを押して私の用を足す場所に連れていってくれたり、毎日、洗濯物も持って帰ってくれました。私は美沙ちゃんの来るのを楽しみに待っていました。美沙ちゃんが来てくれることが、私の入院中の唯一つの楽しみでした。でもコロナの蔓延防止法が出ているのに、どうやって病室に来てくれたのか、私にはわかりません。初めのうちは、夜、転倒したという、監督不十分の負い目が病院側にあったので、大目に見てくれたのでしょう。でも退院の9月半ばまで、本当に毎日病室にきてくれました。ほかの人は誰も見舞いに来ていないのです。美沙ちゃんは看護婦さんの詰め所に、何回も付け届けをしていたみたいです。これも良かったのかもしれません。
8月の中頃からリハビリが始まり、美沙ちゃんはそれを見てくれました。私は美沙ちゃんから励ましの言葉を聞き頑張りました。自分から見てもよく頑張ったと思います。少し動かすのも痛いのですが、ダンスもしたいし、今頑張らねばという思いでした。
退院前に介護度を見る人が病院に来て私を見ました。その時は美沙ちゃんも立ち会いました。私はそのまま今の自分の状態を言って、係員の言われることをしたのですがもう少し悪くみえるようにすればよかったかなあと反省しました。美沙ちゃんは大丈夫と言っています。
退院して
9月10日に退院しました。私は杖が欲しかったので、家に帰るとすぐ杖を買いに行きました。その中で一番いい杖を買いました。私はとても質素に生活していたので、本当なら安いものを買うのですが、これから人生の終わりまで、お世話になるものだから、いいものを選びました。リハビリのおかげで、杖があると何とか歩けるようになりました。
次の日に市の職員の人が来ました。介護度がきまれば、リハビリを受けましょうということでした。その次の日にケアマネージャーの人が来ていろいろ書類をくれました。結論は介護度が決まってからということなのですが、介護用のベッドは、すぐに入るということなので、次の日に入れてもらうように、お願いしました。すべての書類は、美沙ちゃんが従姉ということで、保証人になってくれました。
次の日に、介護用のベッドが入り、私は立ったりすわったりが、とても楽になったのです。
次の週には、介護度の用紙が郵送され、私は要介護3になっていました。これで介護される身になったと思うと、死期の訪れを身近に感じました。ケアマネージャーの人がすぐに来て、私のデイケアの場所と、日にちを決めるのですが、私はできるだけ練習とレッスンの時間は確保して、その他の時間を当てました。
私は退院して、1週間目にはレッスンを受けに行きました。レッスンを受ける時は、つえをつかわずに、美沙ちゃんの腕を借りて、腕組みをしたような恰好で行きます。大体午前中にレッスンを受け、ファミレスで食事をして、すぐ近くの老人福祉施設で練習をします。私がデイケアに行くときは、美沙ちゃんが弁当を持ってきて一緒に食べます。その時は夕食を作ってくれます。私は夕食の弁当だけを退院後、配達してもらうことにしたのですが、2週間くらい食べると飽きて、ほしくなくなったのです。何もない時は仕方なく食べますが、いつもは美沙ちゃんが簡単な夕食を作ってくれるのです。その方が断然おいしかったです。
以前はワンルームマンションだったから炊事はできなかったのですが、アパートに移ってからは、炊事が簡単にできます。美沙ちゃんは、私の大好きなステーキをよく作ってくれました。私が退院してからは、家事一切を、美沙ちゃんがしてくれます。私は、練習をして食べて寝るだけになりました。美沙ちゃんとは身体の関係はなかったのですが、それ以上のことをしてもらい、家庭的な安らぎももらいました。
ある日美沙ちゃんが障害者手帳をもらおうと言い出しました。主治医の先生に言うとちょっと渋ったような感じがあったのですが、美沙ちゃんが得意の弁舌で先生から書類を書いてもらう許可を得たのです。先生からの書類が出てすぐ申請に行きました。11月の初めに障害者手帳がおりました。障害者手帳をもらうと医療費が無料になるのです。
このようにして私は、ダンスレッスン、練習、リハビリと、毎日を送りました。しばらくするとリハビリが物足りなくなり週1回にしましが、それもあまり行きたくなくなりました。よく考えるとリハビリよりハードなことをしているのだから、物足りなくなるのは当たり前です。止める訳にもいかなく、だらだらと続けました。
正月になり、私はいつも行く風呂に行ったのですが、風呂から出るととても気分が悪くなりしばらく動けなかったのです。今から思えばこの頃ガンがまた動いて、他の場所に転移していたのかもしれません。正月は、それからずっと家におりました。
その後、またいつもの生活が始まりました。
2月に夜行バスで大阪に行き、池田である競技に出ました。結果は準決勝でしたがとても成績は良かったです。もう一ポイントあれば決勝に行けたのです。もう少しだと心は前に向いていました。
5月の競技会に申し込みました。
3月もいつもの通り毎日老人福祉施設で練習をしました。でもそれは以前と少し違っています。
今までは、二人で少し練習し、その後私が一人で練習して、美沙ちゃんは、休むという形で練習していましたが、最近はそれが逆になったのです。私が休んで、美沙ちゃんが一人で、練習するようになりました。私は少し練習すると、とてもくたびれます。心の中で死期が近づいてきたのを感じたのです。
でも表面的には何の変化もないので、そのまま今まで通りの練習をしました。しかしだんだん私の身体は、動かなくなってきていました。レッスンを受ける時は、緊張しているので動くのですが、美沙ちゃんと練習する時は、動かなくなります。美沙ちゃんは、そんなことが、わからないので、もう少し大きく動いてくれと言います。私は本当のことが言えなくて、とてもつらかったです。
家でゆっくりしている時、私が「僕が死んだら、美沙ちゃんはダンスをして楽しんでいるのだろうね」とか「僕が早く死んだら、自由になると思っているのだろうね」とか言ったら美沙ちゃんは「私は尚チャンに一分でも一秒でも、長く生きてもらいたいのに、どうしてそんなことを言うの」と言って怒ります。私はそんな美沙ちゃんを置いて死にたくないと、心から思うのですが、どうにもなりません。
又ある時「僕がいなくなったら、クルーズに出るといいよ」と言うと美沙ちゃんは「尚ちゃんのいないクルーズは、面白くないよ」と言ってくれます。「僕の遺骨は、宇品の海岸でいいから、投げてくれていいよ」と言ったら、彼女は「尚ちゃんの遺骨は、知床の沖と、江の島海岸と、オーロラを見ている時に、散骨するからね」と言ってくれます。私は死んだら魂が抜けるので、どうなってもいいと思っているのですが、美沙ちゃんは、目を見開いて、私の目をしっかり見て言ってくれているのです。美沙ちゃんは、私の死後、キチンとしてくれるのだなあ、と思いとてもありがたかったのです。
4月の終わりころのレッスンだったと思うのですが、私はレッスン中に転びました。美沙ちゃんを始めみんなびっくりしたのですが何もありませんでした。それから5月の連休に入り私は右足に痛みを感じて美沙ちゃんに相談すると、美沙ちゃんはすぐに、当番医に行こうと言って、私を連れていってくれました。そこでレントゲンを取ってもらうと、右足の付けねに何か病変があるから、休み明けすぐに、主治医のところに行きなさいと言われ、痛み止めと湿布薬をもらいました。
休み明けに主治医のところに行きました。10日にアイソトープを撮ることになりましたが、その前の9日にある競技には、絶対に出ようと思ったのです。美沙ちゃんの運転する車で、故郷の福山に行き、競技に参加しました。美沙ちゃんは、大学時代の友人が福山に居るので、その人にビデオを撮ってもらっていました。私はどうしても、右足に力が入らず結果は散々でした。後でビデオを見てみると、足を引きずっていたのです。
次の日にアイソトープを受けました。その結果、癌が骨に転移して、骨盤が溶けているということでした。ダンスの競技に出たと言ったら、その先生はとても驚かれました。
5月の終わりの1週間、放射線治療を受けました。足の痛みは少し楽になりました。それからは車いすを借りました。そのころ言葉が出なくなり、思うように自分のことが言えなくなりました。この頃は私の傍に、いつも美沙ちゃんがいました。美沙ちゃんが、私のことを良く理解して、私の思っていることを言ってくれます。
6月に入って呼吸が苦しくなったので主治医の診察を受けて入院ということになったのです。私はどうしても、家に帰って後始末をしなければいけないので、入院を拒みました。このまま入院をするともう家には帰れません。みんなの説得で、1日だけは入院をしました。次の朝、医師に頼み込み、退院をさせてもらいました。主治医に、近くのクリニックを紹介してもらい、推薦状を書いてもらいました。そのクリニックで、酸素吸入の用具の貸し出し許可書を書いてもらい、私の部屋にそれを設置し、酸素ボンベも借りました。
おわりに
私は家に帰り、私の過去に関するものはみな捨てました。残したのはベトナムの時からと、古いパソコンに入っている1980年代からの世界旅行の写真、1990年からのパスポートなどです。私はそこで少しいたずらをしました。ベトナムのマイの写真がたくさん入ったUSBを用意して、美沙ちゃんが分かるようにクルーズのアルゼンチンタンゴのUSBと一緒にビニール袋に入れ私の寝室の本の前に起きました。その時、私は美沙ちゃんに私が亡くなった後も、私のことを覚えておいて欲しいという、思いを込めて置きました。美沙ちゃんは、情が濃いいのですが、その分嫉妬深いから、私のこの思いはおそらく実現するでしょう。
私の遺言の原本と一緒に、「長い間ありがとう」と書いておいておきました。
旅立ちの準備をした後で、私は自分の人生を振り返ってみました。以前、美沙ちゃんが一度だけですが「尚ちゃんの人生は面白かった?」と聞いたことがあります。その時私は少し考えて「面白かった」と答えました。今考えても、とても面白かったです。
それともう一つ、美沙ちゃんは私の人生についてほとんど何も知りません。その彼女が今の私の生きざまを見て想像したのでしょう「尚ちゃんはよく頑張ったね」と言ってくれたのです。私はその言葉に胸をうたれ涙がぽろっと出ました。本当に私は頑張り通しだったのです。
頑張りの原動力となった黒い渦について考えたのですが、私は父親にされたことが、心の底に沈んで黒い渦、を形成したと思い、父親を憎んでいました。しかし、父は本当に私が憎かったのでしょうか。父親も婿養子で、浅井家に来て浅井家を盛り立てようと一所懸命になったのでしょう。私を厳しくしつけ、浅井家の跡取りとして恥のない子供に育てようと思ったのでしょう。でもそれが上手くいかなかった。そういう意味では、父も心の中に黒い渦を抱えていたのかもしれません。そんな思いを抱えながら、父は母と最後まで添い遂げ穏やかな一生を送ったのです。なくなる前に「尚己がああなったのは自分のせいかもしれない」と言っていたそうです。私のことが彼のただ一つの思い残すことになったのでしょう。
黒い渦は浅井家そのものだと思い、私は浅井家を捨て去ろうと思い、捨て去りました。私の人生は60歳から始まったのです。だから美沙ちゃんには60歳からの資料を残しました。
私の人生でやり残したことが、2つあります。それは美沙ちゃんと一つになれなかったこと、もう一つは、最後に与那国に行けなかったことなのです。前者は美沙ちゃんの思いを尊重したからなのですが、私は美沙ちゃんからそれ以上のものをもらいました。今では私の思いを無理に遂げなくてよかったと思います。後者は、美沙ちゃんが、私の遺品を整理している時、私の思いを感じて遺骨を与那国に散骨してくれるかもしれません。多分散骨してくれるでしょう。
私の整理はついたし呼吸も苦しくなってきたので明日はホスピスに連れていってもらいます。
次の日、美沙ちゃんが来たので「ホスピスに入りたい」と言いました。美沙ちゃんは少し驚き、寂しそうな顔をしました。主治医に連絡を取ってくれ、とりあえず主治医の病院に入院して、ホスピスが空くのを待ちます。美沙ちゃんは私の荷物を手際よくまとめて車いすに置き、私を車いすに乗せました。私はもうここには帰らないのだと思うと感無量でした。
3日くらい経ってホスピスから連絡がありました。私はここで筆を折ります。もう書く力もなくなってきました。美沙ちゃんはいつも、どんな時も、毎日私の見舞いに来てくれたので私の終わる時もきっと来てくれるでしよう。私の果てる時もその時期を見極めてくれるでしょう。私はなんの愁いもなく旅立つことができます。美沙ちゃん、おとうさん、おかあさん、神様、素晴らしい人生を与えてくださってありがとうございます。
こうやって私の一生は終わりました。




