1ー7
「むにゃむにゃ……あれぇ……ナリスはどこー?」
子供のようにごしごしと目をこすりながら、シィーラがようやく目を覚ました。
(ナリスはとっくに働きに出ている。それより、涎を拭け。本が汚れるじゃろう)
「ほぇ?ああっ、あたし、寝ちゃってたー?」
机に突っ伏すようにしていたので、その頬にはうっ血した赤い跡が残っていた。その口元を手の甲で拭って、シィーラが椅子の上で大きく伸びをする。
(見事に爆睡していたな。まぁ、一応最低限のノルマはこなしたが、賭けはまたお主の負けじゃぞ)
「うぐっ!今日こそはいけると思ったのになー……」
(そのセリフはもう聞き飽きた。それよりもう時間がない。今回を逃すと更に半年勉強漬けじゃぞ。それでよいのか?)
「それはイヤー!!!」
(ならばもっと必死になるがよい。現状では、本当にギリギリじゃからな)
「ぐぬぬ……だいたい、何であたしが訓練所なんて入らなきゃならないのさー」
もう幾度となく聞かされた言葉を、未だにシィーラは愚痴っている。既に耳が腐るほど教えたので相手にはしない。本人も理解はしているのだろうが、妖精の気質かすぐに他のことに気を取られてつい口に出てしまうといったところだ。こちらもその辺りはいい加減慣れてきたので、いちいち気にしない。
(起きたなら、続きをするがよい。試験はもうすぐじゃぞ)
「ふぁーい……」
渋々ながらもまた本を読み始めるシィーラ。ここまでよくぞ成長したと、少しだけ感慨深い。まるで子供の成長を見守る親の気分だ。
そんな感慨を抱いたのは何度目だろうか。まだ20歳だというのにやるせない、というか少し虚しくなって窓の外に目を向ける。
レベリオの街は今日も活気が良い。若者が多く人の出入りが激しいため、余計にそう感じるのかもしれない。こんな場末の安宿屋がある裏通りですら、寂れた雰囲気がしないのはその証左だろう。
思えばナリスの故郷であるシベンマの街を出て半年。あっという間に過ぎ去ったものだ。
当初はどこかの街で別れるつもりだったナリスと、その後も行動を共にするようになるとは思ってもいなかった。色々と予定外なことが起こり、その度にナリスがいなければ大惨事だったことが幾つもあったので、その有難さは骨身に染みている。我ながら英断だったと断言できるほど、ナリスの存在は今ではなくてはならないものになっている。シィ-ラという制御不能な爆発物を抱えている身としては、その防波堤になり得るナリスは貴重な戦力だ。
共に苦労を分かち合える仲間がいることの心強さといったら、何物にも代えがたい。いくらシィーラが成長して謙虚さや我慢を覚えようと、妖精の本質は自由奔放、傍若無人の我が道を行くスタイルなのは変わらない。その暴走を止めるのに、鳥の身では荷が重すぎるのだ。
母親を失った悲しみを乗り越えるための復讐、それからの人生のやり直しの目標設定など、ナリスとニャリスは短期間で見事に成長した。その要因に少なからずシィーラが寄与していたと個人的には思っているが、直接聞いたことはない。
鳥の状態では直接聞けないだろうと言われるかもしれないが、この半年の間でそこもどうにか改善した。ナリスには魔法士としての稀有な才能があり、わしの言葉を魔法で聞く力を持った。正確にいうと、わしとシィーラの間で交わされる念話――魔法による精神的な対話――のようなものを、独自の魔法で掴むことができるようになった。聞こえは悪いが盗聴しているようなものだ。理論の詳細は長くなるので省くが、相当高度な魔法であることは間違いない。しかし、完全に固有の用途で汎用性が皆無の専用魔法のため、世間的に需要はまったくない。
もっとも、研究して汎用性を高める方向に応用できれば大魔法士クラスの発明になるかもしれない。それだけやっていることの技術は高く、価値を見出す者は多いだろう。その道を薦めてはみたが、本人にその気はないようだ。魔法はあくまで自分のため、それも自衛などのみに使うことを決めているらしい。
だからこそ、今も魔法を使った労働ではなく、酒場の給仕という一労働者として働いている。ここの宿代なども含めて大変お世話になっている。ベリィー一家からかすめとった金は、色々あって1オル銅貨も残っていない。そういう意味でも、ナリスは本当に役立ってくれている。
そんなことを考えていると窓の外にヨーグの姿があった。相変わらず、赤茶色の髪で編み込まれたポニーテールが特徴的だ。確か砂漠の民特有の文化の一つだ。
今回の件では重要な役割を果たす見聞屋、つまりは情報提供者で、最悪の事態を避けるために必要な一手を持っている。
(ヨーグが来たようじゃ。出迎えてやれ)
「おっ?ついにアレが手に入ったのかしらん?」
(期待しすぎるでない。あくまでそれは備えじゃからな。大事なのは根本的なお主の――)
「はいはい、もうそれはもう聞き飽きたってば!ゼーちゃん、ほんと説教臭いよねー!迎え、いってきまー!」
(あ、待て!最後までちゃんと話を聞けっ)
だが、シィーラは既に部屋を飛び出していた。やはり抜け出す機会を窺っていたようだ。油断も隙もない。
仕方がないので追いかけることにする。こうした妖精の唐突な行動に冷静に対応できるようになったことは、喜ぶべきかどうなのか。
安宿屋の階段を下りて、昼は食堂、夜は酒場となる店内に入ると、既にシィーラとヨーグが合流していた。ナリスもエプロン姿の給仕服でそばにいる。まだ客はまばらで、忙しくはないようだ。
「いやー、今日もナリスさんはお綺麗ですね」
「え?あ、あの、どうもありがとうござい、ます?」
「それよりナリス、何か飲み物ちょーだい。ヨーグもてきとーに何か飲むっしょ?」
「私はナリスさんが淹れてくださるものなら何でも」
「えっと、それじゃあ果実ジュースを二つお持ちしますね」
ナリスは要領を得ない注文でも無難に受け入れて、厨房へ伝えに行く。相変わらず、ヨーグの積極的な好意アピールには気づいていないようだが。
「それでそれで?例のアレは手に入ったの?」
壁際のテーブルに座りながら、早速シィーラはヨーグに詰め寄る。
「いえ、それなんですが、なかなか今回のものは手ごわそうなので、とりあえずそれを伝えに来たんですよ」
「えー!!ダメダメじゃん!」
(具体的に何がどう厳しいのか聞くがよい)
シィーラの頭、つまりは自分の頭の上に陣取りながらヨーグの話を聞くことにする。この年若い見聞屋に頼んでいたものは絶対に必要なアイテムだけに、手に入りませんでしたでは済まされない。
「ええと、誤解しないでもらいたいのですが、用意できないという話ではなくてですね、納期の問題なんです。仕事が立て込んでいるそうで、提示額では希望の期日までには用意できないかもしれないと、そういう話です」
それはおかしな話だった。そうであれば取引時に伝えておくべきことだ。要するにこれは、相手方からの料金の釣り上げに他ならない。足元を見られているということだ。問題は、この釣り上げにヨーグが関わっているか否かだ。この見聞屋はこれからも何かと有用になるので信頼したいところだが、知り合って間もないためにまだ底が見えない。初見では悪人ではないと判断はしたが、最終的な評価はまだまだ下せない。
(こう質問しろ、シィーラ『この後出し条件にヨーグも噛んでいるのか」と。嘘をついてるかどうか見極めるがよい)
「ほむほむ?この後出し条件に、ヨーグも痰出るのー?」
「はい?痰出る……ああ、いえ、私は噛んでいませんよ、もちろん。向こうがまぁ、足元を見てきているのはさすがに分かりますよね……おそらく顧客が新参だと気付いて、吹っ掛けてきたのは確かでしょう。ただ、ここが一番腕が良いので、仲介した私からはあまり強く非難できないんですよ、すみませんね」
どこまで本気で言っているのか、ヨーグの中性的な顔立ちとポーカーフェイスからは察することは難しい。
「うーん……嘘は言ってない、気がするー」
シィーラには嘘を見抜く力がある。というと大げさだが、ある程度の確率で当てられることは実証済みだ。単純に野性的な勘なのだろうが、これまで馬鹿にできないほど的中させてきたので重宝している。
「はい。リーラの神に誓って、私は関わっていません。一時の利益で信用を失うほど愚かではありませんからね」
リーラは審判の神で公平さの象徴だ。その平等精神が偽りだったときは容赦なく罰を科すことでも有名で、神聖な約束を保証する一助となる。言っていることも納得がいく。見聞屋のような情報を扱う職業で、信用を損なうような真似はするはずがない。
(なるほど、今は信じてもよかろう。じゃが、取引は既に終わっている。完全に委任していたが、ごねるようなら直接分からせに行く必要がある。相手の居場所を聞いてくれ)
少し渋っていたヨーグだが事情が事情なので折れた。早速夜にでも訪問することにするが、その前に確認しておく。
「えっと、本当に腕はいいんだよね?手間かけてまでそこに頼む価値があるかどうか、はっきりさせおきたいんだってー」
シィーラの伝聞丸出しな口調が気になるところだが、ヨーグは意図を理解してくれたようだ。
「ええ、腕は保証しますよ。直接交渉する気なようですが、くれぐれも被害は最小限にお願いします。一応、お得意様の一つなので」
こちらが脅しを駆けに行くと知っても、関わる気はないということだ。中立を保つ姿勢は悪くない。見聞屋としての仲介だ。どちらに肩入れすることも正しくないと分かっている。
「失礼します。ペポを二つ、お待たせしました」
そこでナリスが木のコップで果実ジュースを運んでくる。ペポというのは大陸で一番有名なジュースの一つだ。高級店ならガラス製のグラスに入れて、その薄緑の綺麗な色合いが映えるところだが、安酒場では望むべくもない。
「わーい、待ってましたー!」
シィーラはごくごくと早速飲み干す勢いであおる。飲み物の中でも、かなり気に入っているようだ。
「ありがとうございます。良ければ、ナリスさんもご一緒にいかがですか?今の時間はあまり混雑していないようですし」
「お誘いありがとうございます。でも、業務中なのですみません」
ナリスは笑顔で頭を下げてテーブルから離れる。接客もだいぶ様になってきていた。
「あらら……残念です。それで、勉強の方はどうなのですか?試験までもう時間はあまりありませんが」
「大変だよー!!」
愚痴りだしたシィーラの言葉は止まらない。暗に厳しい指導をしているわしへの批判のように聞こえるが、本人にその意図はないだろう。単純なストレス発散だ。それを笑顔で受け流すヨーグの社交性の高さはなかなかのものだが、感心している場合ではない。見聞屋としての仕事をしてもらわなければならなかった。
(その辺で切り上げて、もう一つの依頼の方を聞くがよい。無駄にする時間はない。今回落ちると、半年は今のように勉強漬けになるやもしれぬぞ?)
「ひぃぃ!?それは絶対やだー!」
「え、急にどうしました?」
「うんと、アレ。もう一つの何だっけ、問題文の方はどうなってるのー?」
「はい。それもあって今日はお邪魔しました。そちらの方はどうにかなったので、現時点で入手できたものをお持ちしました」
「おおっ!それさえあればよゆー?」
「いいえ。先にもお話したように、あくまでこれは過去からの傾向と類似問題の対策で、このものずばりが出題されるわけではありません。ただ、今までの経験上大きく外れたことはないので、かなり有効なものであることは保証します」
それは重畳だ。ただでさえ不利なシィーラの状況をきっと覆してくれるはずだ。
ヨーグが鞄から取り出した書類の最初のページには『ロハンザ傭兵訓練所入所試験』の文字があった。
「えっと……ロナンバ同性燻製所、入墓事件……?な、何があったの?」
大分間違った読み方だ。だが、これでも驚くほど進歩している。妖精にもともと文字はなく、これだけ読めるようになっただけでも驚くべきことではあるが、これから人間の学び場に入ろうとしている身としては、まだまだ足りない。
この街にいる最大の目的はロハンザ傭兵騎士団に所属することであり、そのための近道がロハンザ傭兵訓練所に入ることだった。正確には、その騎士団に入ることで、この都市国家が持つ大陸でも有数の図書館の一つ、ロハンザ図書館を利用できる権利が持てることにある。
妖精と人間の身体の入れ替わりのようなことを調べるには、様々な文献を当たる必要があり、そのためには知識の宝庫である図書館は必須だ。しかし、大陸に存在する図書館はそう多くはない。古代からの叡智の結晶である資料、文書という存在は国にとって貴重な財産であり、特殊な魔法書などはそれ自身が武器でもある。誰もが容易に手に取って閲覧できる代物ではない。
有名なところで魔法教会の魔法図書館や北稜の大国であるウェデランズ大図書館などがあるが、いずれもその国の重鎮しか入れない。その点、ロハンザ図書館はロハンザ傭兵騎士団所属であれば利用可能で、比較的難易度は低い。
この低いというのは相対的なものであり、実際はかなり難しい。それでもやらねばならない。一度きりの侵入ならどうにかなっても、結局そこから先の調査にこそ意味があるので、一時的な閲覧では用をなさないため他に道はないのだ。
「……独特な読み間違いですね……」
ヨーグの笑顔が初めて少し曇った気がした。シィーラの学力に不安を覚えたに違いない。言動から馬鹿なことは察していたと思うが、予想以上だったのかもしれない。用意した資料で不十分だと疑っているのだとしたら、それはそれで更に何かサービスしてくれないだろうか、などと考えてしまう。
訓練所への入所試験は実技と筆記なので、実技で飛びぬけていい結果を残せばどうにかなるとは思っているが、一般問題があまりにも非常識な結果だと拒否される可能性もなくはない。ただの戦闘系養成所とは違い、曲がりなりにも騎士団と名の付く組織への入門所だ。極端に変なところは見せられない。中身が妖精だと言うわけにもいかず、特例を頼めるはずもなかった。
(……休憩が終わったら、早速その資料をやるぞ。終わるまで眠れないと思え)
「のぉぉーーーー!!?」
情けないシィーラの声がその場に響いた。
何事かとナリスが寄ってきて、目で訴えかけてきたので自業自得だと答えておく。
大の大人が、少なくとも容姿的には青年の部類に入る男が、情けない声を出しているように聞こえるが実は違う。シィーラの発する声は自分の声帯に変換され、言葉遣いも成人男性に近い口調に模したものに翻訳されていることが判明している。つまり、シィーラが『あたし、あんなの食べられないよー』など精神的に幼い話し方をしたとしても、実際の周囲には『俺はあんなもの食べらないぜ』という風に聞こえているということだ。
一体どういう仕組みでそうなっているのか分からないが、少なくともわし自身に聞こえるシィーラの声は、妖精としてのシィーラに近く、現実では本来の自分の声と口調になっているので、相対する者にとってそれほど違和感はなく伝わる。とはいえ、その語彙と話し方などはやはり稚拙というか幼子のようなゆるさがあるので、違う意味で引っかかりは与えるのは避けられない。
ナリスがシィーラとの会話を聴けるようになった当初、その違いに大いに驚いていたものだ。その際に、シィーラは女性なのかという性別の疑問も出たことを覚えている。
「ああ、あたしたちに性別とかはないよー?どっちでもなれるっていうのかなー?一応、どっち寄りかー、みたいなのはあるけど気にしてないねー」
妖精は身体の概念すらないので、性別というものを明確に分けてもいないらしい。ただ、人間でいう男女の差が精神的な意味での区別は多少あるらしく、それが先の言葉でいう『どちら寄り』かというものにつながる。シィーラはその点では女性寄りということだった。
そういう話であったので、今は男のわしの身体に入っているのだから男性寄りになってみたらどうかと提案したのだが、即行で却下された。曰く、人間の乙女に憧れていたからだそうだが、性別が男になった時点でその望みは絶たれている。諦めるのが道理だと食い下がっては見たものの、シィーラ的には身体が男性であろうとやりたいことはできるから問題ない、との判断だった。
シィーラが思い描く『乙女像」がおそらく、人間が想像するそれとは違うからだと思われる。具体的なその内容に関しては、恐ろしいので未だ聞いていない。
「ああ、ナリスさん。近いうちに良さそうなレストランが開店するんですが、良ければ一緒にどうでしょうか?」
「れすとらん、ですか?」
(北稜語でいう食事処じゃな。高級食堂みたいなものだと思えばよい)
「おおっ、何かおいしいものあるのー?」
好意的に喰いついたのはシィーラの方だ。ヨーグはナリスを誘いたかったのだろうが、餌の時点で失敗している。
「いや、私はナリスさんにですね……」
空気を読めとばかりの視線をシィーラに投げるが、そんな迂遠な忠告を受け取るような芸当はできない。完全に釣られた魚の状態で、
「いついくの?今行く?よし、すぐ行こうかっ!」
と、完全に向かう気になっていたので、釘を刺しておく。
(試験に受かるまではどこにも行けぬから、覚悟しておくように)
「のぉおぉぉーーーーー!!!」
再び、シィーラの苦悩が吐き出されたのだった。