Interlude AN-1
その宿はロハンザの街の中でありふれた一軒の店に過ぎなかった。
一階が酒場、二階と三階が宿屋という典型的な安宿だ。一部屋一部屋は狭すぎるといったことはないが広くもなく、家具もついてはいても古めかしくてどうにか機能しているといった程度だ。基本的には屋根付きのベッドで一泊するだけの客が使うことが多い。どこかの貴婦人が逢瀬として使うには安普請すぎるし、行きずりの男女が睦み合うにも雰囲気が悪い。
そんな安宿の名は回水亭という。由来は水を入れた樽をまわすという特技で有名な店長ベーゲフがいるからだ。他に特徴は何もない。
評判は良くも悪くもなく、常連がほどほど通うことで経営はとんとん、一見はたまに寄り付くくらいで、料理の味も普通の何の変哲もない店だ。
ナリスはそこで給仕として働いている。
その普通さがいいと断言したのは、仲間のゼーちゃんだ。鳥人間とでも言うべき謎の多い人物で、ある意味、今のご主人様という立場になるのだろうか。数奇な出会いと偶然の賜物で、同行して旅をすることなったが、そのことに後悔はない。
唯一の肉親を失った今、家族のような存在になりつつあった。おかしなところはあるけれど、今では完全に身内だ。
その連れが訓練所に行っている間、日金を稼ぐために始めたのだが、給仕は性に合っているかもしれないと思っていた。ニャリスは退屈だと馬鹿にしていたが、以前の花売りよりもよっぽど安定している。どんなに綺麗な花を摘んで花束にしようと、心と生活に余裕がない者には響かない。この街でも花屋は見かけたが、貴族御用達というだけに存在している状態で、一般客の入りは寂しいものだった。
それに、店長のベーゲフも良くしてくれている。あまり愛想は良くないが、人を不当に扱うことは決してせず、誰に対しても平等に接する善人だ。仕事さえしっかりとこなせば、無駄に詮索してくることもなく、気持ちのいい距離感で一緒に働ける点も良い。
妖精などという希少種のシィーラが同行者な時点で、好奇心旺盛な知人というのは困るので非情にあり難いところだ。
「どうもこんにちは、ナリスさん。今日もお綺麗ですね」
いつものように昼間のまばらな客に対応をしていると、最近顔を見せていなかったヨーグがやってきた。特殊な編み込みをした後ろ髪が特徴的な青年だ。ゼーちゃんによると砂漠の民という部族出身の風習らしい。砂漠というのは地面が一面すべて砂という話で、ナリスには想像もできない光景だった。遮るものが何もないらしく、太陽の光を良く浴びるために褐色の肌が多いとも聞いた。大陸は広い。色々な土地と環境による体質があるのだと旅を通じて初めて知った。
「お久しぶりです、ヨーグさん。席はいつものところで?」
通常であればシィーラが座っている奥の隅が定位置だ。
「はい、それでお願いします……」
微妙な笑顔のまま固まっているヨーグに気づかず、ナリスは「どうぞ」とその席を指差す。シィーラがいない今、当然そこは空席だ。
特に要望がないとき、ヨーグの注文は決まっているのでそのまま厨房の店長にペポとネズパンを頼む。店は空いているため、すぐさま用意されたそれを運ぶ。
「ありがとうございます。今、混んでいないようなので少し話せませんか?」
席に料理を届けると、ヨーグが引き留めてきた。
「……依頼の件ですか?」
周囲を窺いながら、ナリスは声を落として確認する。
「はい。それと、シィーラさんの近況も少し……」
「では、このまま続けてください」
客は常連ばかりなので、多少の時間なら席に座って雑談していても問題はなかったが、ナリスは接客している態度を崩さなかった。どこで監視の目が光っているか分からないため、油断はするなと言い含められているせいもある。シィーラは今現在ここにいないが、その同居人であることがバレている可能性もあるとのことなので警戒するにこしたことはない。
「分かりました。といっても、まだ途中報告という形なんですけどね。ただ、懸念は当たっていそうだということと、その証拠固めもどうにかなりそうだという話だけは先に伝えておきます。肝心のシィーラさんがいない状態であれなんですが、私もいつ来れるか分からない状況ですので、用心の意味も込めてお伝えしておきます」
ナリスにはその警告の意味が分かった。
「私自身とのつながりも含めて、警戒されているのですね?」
「まだあちらに露呈しているとは思いませんが、念のため、です。決して侮っていい相手ではありませんので」
「なるほど。ありがとうございます」
「それと、シィーラさんの方ですが、本格的な試練に入った模様です。とりあえず、第一の難関は越えたといったところでしょうか」
どうやってその情報を得ているのかナリスには不思議だが、無事にやっているようで安心した。
「第一と言いましたが、残りは第二で終わりですか?」
「正直、分かりませんね。強化遠征はその都度違う目的と修練となっていますので、内容に関してはなんとも……」
「そうですか。では、帰りもやはりどのくらいかは……?」
「はい、残念ながら見当を付けるのも難しいです」
気落ちする様子のナリスに、ヨーグは慌てて付け足す。
「あ、でも、きっと大丈夫ですよ。シィーラさんは訓練所始まって以来の越境者です。何せ、前例にないことを立て続けに起こして、上層部も対応に苦慮しているくらいですから」
それはどちらかというと問題児なのではないかとナリスは思ったが、中身が妖精なことを知っているとそれも当然だという納得感もあった。元の身体のゼーちゃんからして、普通ではない。
「いずれにせよ、帰ってくるのを待つだけしかありません。もちろん、その時期が分かればすぐにお知らせますが」
「いつもありがとうございます」
「いえいえ、ナリスさんのためならば。気晴らしにどこか行きたいところなどあれば、いつでもお供しますし、気軽に声をかけてください」
ヨーグは幾分熱を込めて迫ったが、ナリスはいつものような微笑で会釈しただけで響かなかったようだ。ここ最近、回水亭で看板娘として密かに人気があるナリスだが、本人はそういう感情に疎いのか、興味がないのか、無反応なことが多い。それがまたたまらないという常連も多いが、ヨーグ的にはもう少し近づきたいと思っている。
容姿にはそれなりに自信があるだけに、次こそはと毎回熱意をため込んでいた。挑戦することは嫌いではない。
しかしながら、みっともなく諦めの悪い振る舞いはするつもりはない。今日も空振りだったとほろ苦い食事を終えて、ヨーグは素直に帰って行った。
夜の酒場としての時間までは休憩時間だ。ナリスは身体を動かしたいニャリスのために交替することにする。
(まぁ、とりあえずはくたばってなくて良かったな)
(ニャリス!そんな言い方は酷いです)
(アンタは心配しすぎだ。あいつらがそう簡単にはやられないって分かってるだろ?)
(それでも、気にならないわけないじゃないですか)
(まぁ、アンタはそういうヤツだな。少なくとも今日は安心できたろ?夜まで眠って休んでおけばいいさ)
ニャリスに勧められるまま、ナリスは身体を明け渡す。ナリスとニャリスは同一人物だ。厳密に言えば、身体を共有している二つの人格というべきだろうか。主人格はナリスで、ニャリスは一時的に肩代わりする役割だったのだが、今では大分その関係が変わっていた。元々は互いに話し合うようなことはできなかったし、そもそもナリスは明確にニャリスを認識すらしていなかった。
それがずっと続くと思っていたが、紆余曲折合って互いに心の中で会話も可能になり、身体の受け渡しもそこそこ自由にできるようになっていた。何がきっかけだったのかは分からないが、妖精が関係してることにはなんとなく確信があった。
妖精、か。
ニャリスは大きく伸びをすると、回水亭を出ていつも鍛錬している近くの森へと足を向ける。
思えば、このニャリスという名もその妖精がつけた名前だ。それまでは曖昧とした存在だった自分が、はっきりと確立したのはやはり名があるからだろうか。色々な意味で、シィーラには世話になっている。いや、どちらかと言えばゼーちゃんの方だろうか。
そんなことを考えながら、ロハンザの街を歩く。
故郷のシベンマとはまったく違う光景だ。人も建物も、活気も商品も、すべてがあの田舎とは違って鮮やかに見えた。眩しく思えた。
自分がまるで普通の人間のように思考していることが、未だにニャリスには信じられなかった。
本来、ニャリスはナリスの痛みを引き受けるためだけに生み出された存在だ。幼少のナリスが防衛本能として作り出した人格。ろくでなしの父親からの虐待の受け皿。それだけの役割しかなかったはずなのに、今ではナリスの代わりに自由に生活する時間がある。もちろん、ナリスの身体を守るために鍛錬など物理的な護衛を兼ねているとはいえ、一時的な盾役という側面は消えつつあった。
もう姉妹みたいなものだよね、とナリスにも言われた。本当にそういう関係になれるのか、確信は持てていない。姉妹というものも良く分からない。いずれは消えてゆく存在だと考えていたのに、急に共存という選択肢を与えられて戸惑っていた。母親のロンヌも殺され、ナリスは縁故もない孤独の身だ。まだまだ寄り添ってやりたいとは思うが、現在はシィーラやゼファードという頼もしい仲間がいる。自分が必要かどうか、自信は持てなかった。
いや、いつだってどんなものに対しても自信など持てたことはなかった。
いつぞやの家庭教師の声が蘇る。
「あなたは確かにそこにいます。ナリスをしっかりと守っています。それだけは絶対に忘れてはいけませんよ」
おっとりとした声の持ち主だった。それでいて、説得力のある深みのある声だった。あれはまだ元々の金貸しが生きていた頃の話だ。ナリスの家を善意で支援してくれていたのだが、後に殺されて他の者にその地位を取って代わられ、借金が倍増して魔界となった経緯がある。ともあれ、その友人で元貴族だという気品ある老婆が、ナリスに色々とものを教えてくれていた頃だった。父親の暴力は酷くなっていったが、逆に手助けしてくれる人たちもいた時期だ。
ナリスは魔法の素養が高かったため、魔法教会の講義や流れの魔法士による青空講座をよく受けていた。そのおかげもあって、ニャリスもまた形成魔法で魔法剣を作れるようにまでなったのだ。剣術は流れの傭兵のアジツという男から学んだ。教えを乞うたものの「んなもん、勝手に盗むもんだ」とすげなく対応され、その悔しさから必死に覚えた記憶がある。
身を守るための魔法知識と剣技、その両方を手に入れられたからこそ今も生きていられる。
自分自身を未だに肯定できてはいないけれど、ただの盾役よりはマシになっていると思えるくらいには成長した、はずだ。
まだまだ、だな……ただ、忘れてはいない。
それだけは確かだ。
回想しながら歩いている間に、いつのまにか森に到着している。林道から外れ、人目につかない場所へと移動する
とりあえずは鍛錬だ。
ニャリスは形成魔法で剣を作り出した。
魔法剣を一心不乱に振っていると、瞬く間に時間は過ぎていた。
昔はひたすらに剣を手に馴染ませるために薙ぎ払いや振り下ろしを繰り返していたが、ゼファード曰く「敵を想定した動きを心がけよ」とのことで、身体全体を使って避けながらの反撃や飛び込んでからの振り上げなども組み込んでいる。やってみると、確かに腕だけではなく足さばきや腰の位置、身体のあらゆる部位を意識することで、攻撃する際の最適な体勢などが見えて来て、結果的に剣技に磨きがかかっていた。
シィーラの身体の持ち主だけあって、実になる助言だと再認識させられた。いつも説教臭い面倒な人間だと思っていたが、言っていることはほぼ間違っていない。半年ほど旅を共にした今も、しかしその素性は良く分からない人物だった。
ナリスは一息つくと、近くの古株に腰かける。
ゼファード=エンドーラ。
謎多き男について改めて考えてしまう。妖精に身体を奪われ、精神は鳥のような何かに入っているという訳の分からない状態の人間。恐ろしく魔法に長けており、同様に剣術にも詳しい。大陸全般の知識も豊富で、自称賢者並みの知性と嘯いている男。伝聞ならば大言壮語と笑い飛ばすところだが、実物を知ると反駁もできない。実際、様々な面で救われている身の上だ。どれだけ胡散臭く思っても否定はできなかった。
ナリスに至っては、軽く崇拝しているのではないかと思うほどだ。それだけの恩義があると言えばあるので仕方ないが、どこか腹立たしいものがあるのも事実だ。ずっと山暮らしをしてきたという怪しい経歴も、まだ若いのにやけに達観した物腰も、言うこと成すことすべてが正しく思えてしまうことも、あらゆる面において隙が無く見えることが気に入らない。その感情の正体がニャリスには良く分からない。それを教えてくれる誰かもいなかった。
こうやって修練しているのは、実はゼファードを打ち負かしたいという目的もある。常に上から目線なあの鼻っ柱を折りたいという願望があった。ナリスには止められているが、どうせできないだろうという意志も感じられて、余計に証明したいと思っている。当の本人も「盗めるものは知識でも技術でも貪欲に奪うがいい。向上心は学びに必要な重要な要素じゃ」と余裕綽々の態度で、いつかのアジツとも重なって微妙な気持ちにもなった。
そう言えば、シィーラにゼファードとはどういう人物なのか聞いたことがあった。その答えは単純で「先生」という一言だった。人間生活の何たるかを教え導いているという意味では、確かにそれは的を射ているように思えた。それに対するナリスの反応は「どちらかというと、親子みたいだけどね」というのも興味深い。どちらに対しても、ゼファード自身は渋い表情を浮かべていたのが印象的だ。見た目は鳥もどきなので、そんな気がするだけなのだが。
一方で、シィーラもまた不可解な存在だ。
妖精なのだから当たり前なのだが、そもそも妖精とは何なのか。
もう絶滅した種族だというくらいの認識しかなかった。精霊の一種族であるらしいが、その精霊自体希少でほとんど出逢うことはない。だいたい、人間以外の種族など知らない田舎育ちだ。いや、田舎であろうとなかろうと滅多に知ることなどないはずだ。
ゼファードから知る限りの知識は共有されたが、それですら不確かなものだという前提の妖精情報だった。ならば、本人に直接聞けばいいと思うところだが、妖精の気まぐれさといったら想像以上のきつさだった。右に向かって歩いていたと思ったらいつのまにか左にいる、ダーウについて話していたらセタスアの話になっている、などと右往左往するのが日常茶飯事だった。集中力がないというか、すぐに他に目移りするというか、とにかく散漫で捉えどころがなかった。
もっとも、今はそれなりに落ち着いてきており、ゼファードの調教の賜物といって差し支えないだろう。まだまだ気分屋であることに変わりはないが、よくぞここまで躾けたと拍手喝采したくなるほどの努力を感じずにはいられなかった。
そんな妖精のシィーラだが、共に寝食を共にして旅をしてきてはや半年。どんな種族かと問われても未だに答えることはできない。性別は特になくてどちらにもなれ、身体もどのような容姿なのかと聞けば、どんな形でもなれるという曖昧なもので、人間のように腕や足も生やせるとかとんでもない状態だ。そもそも死なないなどという特性を知ると、もはや何でもありなのではないかと思わざるを得ない。
一応、女性に近い性別だと思っているが、ロアーナという女性と合体しようとしているというし、人間のそうした性行為にやたらと関心を持っていたりで、どちらかというとスケベ親父に思えるときが多々ある。年齢も不死であるならば落ち着いた冷静沈着な性格でありそうなものだが、完全に童のような好奇心むき出しの暴れ馬のようだ。妖精全般の特性なのかもしれないが、それにしても、とは毎回思う。
愛嬌があって無邪気と言えばそうなので、結局は好意的に捉えるかどうか――ゼファードによれば受け手の主観で評価は変わるらしい――なので、受け入れてしまえば楽しい仲間ではある。それにしても、仮にも精霊であるのなら自然界を保つための役割がありそうなものなのに、妖精が何のために存在しているか分からない。
ゼファードもその点に関しては疑問に思っているようで「妖精というものはもしかしたら、精霊の前段階を表わすのかもしれぬ」と意味深長なことを言っていたが、正直何のことか分からない。訊き返すのも癪だったので有耶無耶にしたが、いつか理解しようと思っている。
そういう意味では、図書館というものは興味がある。様々な書物から、色々なことを学べるという話だ。この半年で読み書きをそれなりに教えてもらった甲斐もあって、ナリスは大分文字が読めるようになった。その影響でニャリスもまた本の内容を理解できるだけの知性が磨かれた気がする。昔は頭の良し悪しなど気にもしなかったが、ゼファードに小馬鹿にされたように感じるたび、必要性を感じた。
更に言えば、シィーラと同等の評価は下されたくない。訓練所の試験とやらをちらりと見た限り、ニャリス自身は難しく感じた。それを曲がりなりにも解いていた妖精を内心少し見直していたのだが、ゼファード的にはまだまだだったことに驚いた。翻って自分の頭脳を顧みて、多少の危機感を覚えた。ナリスとその辺りを完全に共有しているわけではないので、明らかに劣った自分を初めて意識したのだ。
戦闘が自分の担当とはいえ、知識は持っていた方がいい。「無駄に思えるとしても、知らないより知っていた方がよかろうて」というゼファードの言葉には頷かざるを得ないと最近は思っている。ゆえに、図書館とやらで妖精について知ろうとしているゼファード同様、他の知識を得るためにもその目的を叶える手助けはしようと、個人的に思っているニャリスだった。
何はともあれ、騒がしい奴らがいないと張り合いがない。
早く帰ってくるよう無意識に願っていることに、ニャリスは自分でも気づいていなかった。
そんなもう一人の自分を微笑ましく思っているナリスは、やはりシィーラたちについてきて良かったと改めて思うのだった。




