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常に予想外に備えろ。
そういう教えの元で生きてきたし、実際、師匠の言う通りだと学んではいた。古今東西それなりの書物を読み漁り、歴史を知り、人間以外の種族の知識もあった。
世の中には不可解な事象があり、解き明かされない謎が数多のごとく存在している。理由も定かではないものが、ただそういうものだと定着した概念も多い。合理性だけではなく、曖昧模糊とした摂理で世界が形成されていることも理解していたつもりだった。
だが、しかし。
突如、自分以外の何かと心と体、自己という容れ物が入れ替わるなどという事態を思いつくだろうか。
これまで触れてきた創作の読み物、英雄譚、抒情詩、吟遊詩人の冒険譚、神話などにもそのような話はなかった。
しかも、交換相手は妖精という絶滅種だと信じていた存在だ。理解が追いつかないのは無理はないだろう。想定を超え過ぎている。
妖精というものは人間には認識できないというのが通説だった。つまり、そこに存在していても見えないというのが一般常識。大昔は人にも認識できていたという話だが、そのあまりの美しさに当時の人間が乱獲してかなりの数を減らしたらしく、それから一切人間社会とは縁を切ったというのがこれまでの歴史だ。
表舞台からは完全に姿を消し、目撃情報も100年以上ないという状態であることから、既に絶滅したと言われているのもうなずける話だ。
では、なぜ自分がそれを妖精だと知り得たのか。
本人がそう語ったからだ。他にそのような存在を知らず、該当するものも見当たらなかったことから、妖精だと暫定的に認めざるを得なかった。
ある意味歴史的な発見ではあるが、状況はそんな驚愕の出来事も軽く凌駕してくる。
その妖精と自分が入れ替わったのだ。希少な種族の発見に心躍らせている余裕などない。
むしろ、その妖精が自分の姿で小躍りしていた。
何を言っているのか分からないと思うが、こうして振り返ってる自分が一番そう思っている。何処の酔っぱらいの与太話だと思われても仕方がないが、実際にこの身に起こっている事実である以上、目を背けることはできない。
それはたまたま立ち寄った酒場での喧嘩に巻き込まれたことが始まりだった。
酒と喧嘩と色恋はのメクタトゥムの宴、などという諺があるようにそれらは切っても切れない関係だ。とはいえ、個人的にはどれも縁がない、興味がない、良く分からないの三拍子で、ただ夕飯を食べていただけだ。
そこに飛んでくる椅子やら食器類。酒が入って興奮した輩が、周りの迷惑を顧みずに暴れるのはよくあることとはいえ、自分に被害が及びそうなときは流石に文句も言いたくなる。いつもはそうなる前に避けるのだが、その日の料理は好みの香辛料で味付けされた辛口だったため、珍しく食事に集中していて対応が遅れた。
結果、飛来した椅子に気づくのが遅れ、とっさに払いのけた先に投げた本人がいたという構図だ。
まったくこちらに非はなかったが、酔って理性を失っている獣が逆上してくるのもやむを得ないと言えばやむを得ない。
当然の如くそれも返り討ちにしたのだが、そこでのした相手の仲間たちがこちらに矛先を向けてきた。食事の邪魔をされて多少気分を害していたこともあって、受けて立つかと向き合ったところ、見慣れぬものがその男たちの周辺に浮かんでいたことに気づいた。
最初は魔法の灯火のような光源だと思ったが、酒場の照明のもとでそんな魔法は必要ない。動きもなかなか活発で、浮遊しているというよりは飛び回っているといった軌道を見せていた。そんな灯火は見たことがない。
怒りに任せて向かってくる酔っ払いたちを適当にあしらいながら、その光の球を目で追っていると、いつのまにか攻撃は止んでいた。ゴロツキたちには無意識に体が反応して倒していたようだ。所詮、その程度の雑魚だったのは分かっていたので気にもしなかった。
気になったのはやはりその光の正体だ。少し大柄な人間の握りこぶしくらいの大きさで、意志があるように動いているように見えた。
周囲の人間が一人で酔っ払いたちを打倒したことに歓声をあげて、よくわからない称賛の声を投げてくる中、その光の球が急に目の前に迫ってきた。
明瞭になったそれは光の球ではなく、光沢を発する小さな人型の何かだった。
「――何じゃ、これは……」
目にしたものが良く分からず、思わず声を上げたとき。
鼓膜を震わせるような振動が頭上から一気に降りかかってくるのを感じた。身体全体を突き抜けるように地面へと一直線に落ちていき、一瞬で始まって刹那で終わった。
何らかの魔力の波動のように感じたが、そうだとしても今まで経験したことのない種類であることは確かだった。
他の客たちも何かは感じたようで「いま、何か震えなかったか?」「ああ、地震か?」「えっ、でも揺れてはなかったよね?」などと戸惑った声が飛び交っていた。
気にはなったが、今は光の方がより興味を引く。
さきほど見た姿。それはどこかの挿絵で見たような――
「きゃぁぁあぁぁぁーーーー!!!」
突然、酒場の入口付近で悲鳴が上がった。視線を向けると、酒場の給仕の娘が外を指差して腰を抜かしている。
「おい、嬢ちゃん、どうしたんだ!?」
近くにいた客が声をかけるが、娘は首を振りながら何も答えない。ただ、その指先は変わらず外を向いている。
「おい、あれって魔物じゃねぇか……?」
窓際の他の客が外を見て、そんなことを言うと、他の者もすぐさま街の様子がおかしいことに気づく。
「嘘だろっ!なんで、街中に魔物がっ!!?」
酒場は町の中心街の区画にある。位置的に、魔物が入り込む余地はない。街の外れならまだしも、突然降って湧いたりする場所ではなかった。
面倒ごとが起こっているようだ。関わりたくはないが、あまりにも近すぎる。目の前で人的被害が出るのを黙って見過ごすわけにもいかなかった。
光の球が気になってしょうがないが、優先すべきは魔物の方だろう。
そう決断すると、なぜか光の球も外へ向かって飛んでゆくところだった。ついて来いと言わんばかりの動きだが、確証はない。
ともあれ、外に出る。
そこは円状の広場が広がっており、中央の噴水を中心に屋台が並んでいる場所だった。その噴水の勢いが水不足のせいなのかかなり残念な水量だったので、逆にみすぼらしいのが印象的だったのだが、今はそのみすぼらしさも見えなかった。
代わりに噴水に陣取っているのが巨大なムルロ、熊型の魔獣だったからだ。
その右腕は血で染まっており、少し離れた地面に引き裂かれた人間の躯が転がっていた。既に犠牲者が出ていた。警備隊もまだ駆けつけていない。
屋台の人々は悲鳴を上げながら逃げまどっており、混乱で逃げ損ねて倒れている者も多数いた。彼らは非常に危険な状態だった。ムルロがなぜこんな場所にいるのかは疑問だが、人間に襲い掛かっている以上、これを防がねばならない。
正義の味方を気取るつもりは毛頭ないが、犠牲者を増やさないために行動は起こすべきだろう。他に対処しそうな人間もいない。
すぐに間合いを詰める。魔物狩りは不得意ではなかった。このムルロは巨大で凶暴そうではあるが、特殊なタイプではない。
近づいたことで警戒を強めたのか、標的をこちらに定めたようだ。
爛々と光るその眼光がやけに赤い。魔物化した場合、その動物本来の瞳の色が変色することはよく知られており、その色も様々だ。だが、何かが気になった。それを探る間もなくムルロは襲い掛かってくる。
「GYAHAAAAーーー!!」
咆哮を上げ、血に染まったその腕を振るう。
思ったよりは速かったが、問題ない攻撃だ。とりあえず避けて斬っておく。威嚇の声が悲鳴のようなものに変わったが、気にすることなく観察を続ける。
茶色の毛並みも特殊なものはなく、どこにでもいるムルロだった。斬り落とした腕の爪を確認しても、やはり際立った特徴などはない。結論から言うと、森の中で出くわす一般的な魔物に過ぎない。ならば、なぜそんな普通のムルロがこんな街中に現れたのか。
本性を隠している可能性も考え、両足を切り落としてその場から動けなくしてみたが、特に変化はなかった。魔物の中には命の危険を感じると、人間でいう火事場のバカ力のようなもので変貌する特性がある個体も存在するが、今回のムルロにそれはなかったということだ。
こんな場所に現れた理由は不明だが、とにかくもう脅威にはなり得ない。後は警備隊に任せて去ろうとしたところで、前方の通りが騒がしくなった。
何事かと目を向けると警備隊が騒ぎを聞きつけたらしく、馬に乗って疾走していた。このままこの場に留まるのは面倒そうなので離れることにする。
しかし、その瞬間。
またもや頭上から何を感じた。先程と同じようだが、どこか違う。
そう感じるや否や、意識が混濁した。激しい眩暈を覚えて自身の体を支えきれなくなって倒れ込む、そんな予感がしたのも束の間、あらゆる感覚が急速に遠のいた。突然すべての五感を封じられたようなものだ。何も見えず、聞こえず、身体の感覚も失い、匂いもしなくなった。それでも意識だけがあるという奇妙な状態。
気絶でもしたのかと思ったのだが、そういうわけではなさそうだ。正直、初めての経験で混乱した。見えなくとも身体が動かせるなら、視覚がおかしくなったと分かる。聞こえずとも、匂いがするならばそこが大陸のどこかだとは分かる。それらすべての拠り所がないとき、人は自身の状況を知り得ない。
本当の暗闇。それは未知への恐怖に近い。
状況を知ろうとすればするほど、知る手立てがない。思考だけが戸惑ったまま回転している。ふと、そんな時に光が浮かんだ。視覚はないのに見えたのは、実際に見ているのではなく想像、記憶の中の光景だと認識する。その光は酒場で見たあの光の球だ。そして中心にいたものを覗き込むように集中すると――――光が弾けた。
突如、五感が戻ってくる。
目の前に広がるのは先ほどまでいた広場だ。街の人々の喧騒や魔物や犠牲者の血の匂い、そうしたものが一気に押し寄せてくる。
安堵すると共に何かがおかしいことに気づく。目の前に自分が見えたのだ。
「あれれー!?」
そして勝手にしゃべっていた。聞いたことのない声で。
再び思考が混沌の川を流れてゆく。自分自身を間違えるはずがない。
だが、自分は動いていないのに勝手に動いていた。見たこともない奇妙な動きだ。へっぴり腰で、生まれたての赤子のように恐る恐る一歩を踏み出して、「おお、できた、やったー!」などど無邪気に喜んでいる。鏡に向かってあれほど眩しい笑顔を見せたことがないし、した覚えもない。無心で笑うとあんな表情になるのかと、どこか冷めた目で感心しつつ、心は千々に乱れていた。
(何がどうなっておるんじゃ……)
我知らず呟くのも無理はないだろう。当然、返答など微塵も期待していない。しかし、
「え、何?今の声?」
なぜか自分が反応してこちらを振り向く。
視線が合った気がした。いや、そんなはずはないと混乱した脳が否定するも、理性がなし崩し的にあらぬ方向へさまよっている状態だ。無意識に反応していた。
(まさか聞こえるのか?)
「え、うん。普通に聞こえる、誰なのー?」
通じてしまった。もう何が何やら訳が分からないが、問わずにはいられない。
(お主こそ、何者じゃ?というか、なぜにわしの体を動かしておるっ!?)
「ええっ?いきなり何で怒ってるのー?ってか、何言ってるか分からないよー?」
(怒ってはおらぬ。ただ、その身体はわしのもので、なぜお主がそこからしゃべっているのか道理が分からぬと――)
「だから、身体って何――あっ、そういえばあたし今、人間ってやーつ!?」
急に自身の状態に気づいたのか、自分(の姿の誰か)がぺたぺたを身体を触り出す。
「わーお!!本当だ、腕があるし、足もあるじゃんっ!!?あれー?でも、そういえばいま、あたし歩いたじゃん?これ、どうなってるのー?」
相手も混乱しているのか、頭の悪いことを言い出した。もっと早く異常事態に気づいて欲しい。口調もどこか幼く、色々と発音も微妙で違和感がある。
とにかく会話を試みて状況の理解に努めようとしたところで、突如奇行に出た。
勢いよくズボンを脱いで、下半身を露出させたのだ。
(ふぁっ!!??)
あまりの暴挙に自分でも聞いたことがない変な声が出た。そして目の前では自分の息子がぶらんぶらんと揺れていた。
(な、何をしておる、お主!!!!)
「いやー、前から不思議だったんだけど、人間のこれってさ、好きに動かせるのかなーって」
理解不能なことを言いながら、「てやっ、とおっ」などと腰に手をあてて、気合いをかけてうなっている。しまいには腰を振って無理やり揺らし出した。一体何を見せつけられているのか。一瞬、すべてを忘れかけてすぐに我に返る。
(ば、馬鹿者っ!!!それは手足のように動かせぬわっ!というか、早くズボンを履けっ!!!)
「えー、動かせないのーっ!?つまんないなー」
つまる、つまらないの話ではない。こんな公共の場で下半身を露出しているなど、とんだ恥辱だ。一刻も早く隠さねばならないと焦りに焦っていると、
「き、貴様!!!チ〇コ丸出しで何をしておるかー!!!」
警備隊らしき男のそんな声が聞こえた瞬間、わしの人生は一度死を迎えたと確信した。