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師匠は常々「人が何かを学ぶのに場所など関係ない」と言っていたが、効率という意味では関係はあると断言できる。
当然それも分かっていた上で、師匠は山暮らしだった当時の幼い自分へ分かりやすく伝えただけだとは思うが、それにしても落ちたらただではすまない崖っぷちでやる必要はあったのかと疑問は残っている。極度に緊張を強いられた状態の方が脳は覚えるとか、そういう意図のもとにやっていたのだろう。その根拠はともかく、実際よく頭に入った自分自身のことを顧みるに、一定の効果はあると認めざるを得ない。ただ、よくよく考えるとそれ自体が特定の場所を利用しており、先の言葉と矛盾しているようにも思える。
意味合い的には差異があるので、それを矛盾と言っていいのか儀妙なところだが、少なくとも何かもやもやとしたものが胸にわだかまるのは否めない。
そんなことを不意に思い出したのは、現在地のせいだろう。
ロハンザ訓練所には自主学習部屋というものがあった。
それは魔法の勉強や試用のための空間だったり、魔法疑似人形相手と対戦できる場所であったり、魔法書や独自の戦術書やロハンザにまつわる歴史などがまとめられた資料室であったりした。後者の資料は主に戦闘に特化したもので、とりわけロハンザ傭兵騎士団が推奨するものだ。
ただし、残念ながら識字率が低いためにそれらが有効活用されいるとは言い難い。読む読まないの取捨選択より先に、読める読めないの可不可があるためだ。講義では文字の習得もあるにはあるが、参加するものが少ないと聞く。書物の重要性が浸透していない証拠だ。嘆かわしいとは思うが、本を読むほどの余裕がない生活を送る者が多いのも事実で、実感する機会がないという点は悩ましいところだった。
そんな資料室の一角に、写生のための小部屋がある。資料は持ち出し厳禁で数が少ないために、自身で書き写すことが必須となるためだ。前述の通り利用している訓練生はほとんどいない中、一人の少女が隅の方で黙々と写生をしている。
「あ、いたいた、アルバ!兄貴を連れて来たぜ」
ガシャガシャと相変わらず動くたびに騒音を立てながら近寄る。勉強をしている者たちが迷惑そうに顔をしかめるが、すぐに自分の世界に戻る。注意をする時間も惜しいといった感じで、どこか必死に思えた。
「ちょっと、ペンタ君。ここではお願いだから静かにしてて……」
アルバという少女の声は酷く小さかった。大きな碧眼の瞳が不安そうに揺れている。椅子にちょこんと座っている姿からも小柄なのが分かり、その態度からして小心者なのが見て取れる。
「ごめんごめん。あっと、シィーラの兄貴。この子がさっき言ってたアルバっす。魔法適正はあるのになかなか芽が出ないんで、どうにかお願いしまっす」
「ふむふむ……で、どうなの?」
同じテーブルに座り込みながら、こちらに尋ねてくる。最初の頷きは何だったのか。
(それよりまずは挨拶じゃろう。アルバとやらは人見知りのようじゃ、こちらから声をかけてやるがよい)
「ああ、礼儀?だっけ。はいはい、あたしはシィーラ。シィーラ=エンドーラだよー」
かなりおざなりな言い方だが、素直に挨拶するだけ立派な進歩だ。
「あ、あの……わたしはアルバ=ベベット=ロスライ、です……よろしく、お願いします……」
消え入りそうな声のアルバ。三つ名ということは貴族のようだ。その割には大分縮こまっていて、どうにも貴族には見えない。育ちが不遇だったのかもしれない。
「ほいほい。んで、どうなの?」
最後の言葉わしに向けられたものだが、アルバには分かるまい。二度目も同じように振られ、当惑したまま固まっている。疑問を投げられたものの、何に対してなのか皆目見当もつかないからだ。申し訳なく思いつつも、もう少し我慢してもらう。今は鑑定が先だ。
(ふむ……その魔法適正は教会のものか聞いてくれ)
魔法適正判断試験というものが大陸にはある。その判断を行えるのは専門の魔法士で、主に魔法教会が行っているが、在野の魔法士でも知識と魔法が使えれば同じことはできる。ただ、前者の方が精度と信用度が高い。しっかりとした基準と長年の実績があるからだ。
アルバは6歳時にかなり適正が高い値を出し、魔法教会から入信を薦められたほどらしい。魔法教会は魔法士を目指す者すべてを受け入れているが、とりわけ優秀な人材を求め育ててもいる。一般的に魔法が使えるようになる6歳頃に適性試験を実施するのは、そうした若い才能を発掘するためでもある。
直々に勧誘されるということは、それだけ才が認められたことの証だ。光栄と思う者も少なくはないが、ロスライ家は貴族でアルバが長女だったために教会員にすることはやめたようだ。才能ある魔法士は教会総本山での修行が必須となる。一人娘を手放せなかったのだろう。
そうなると、いま訓練所に在籍して騎士団に入ろうとしているのもおかしな話ではあるが、何か事情があるのは察せられる。変に首を突っ込むこともないので流しておく。重要なのは適正があるのに魔法で困っているということだ。少し親近感が湧く。何しろ、わしは知識と適正はあってもまったく使えない特殊体質だった。
(軽く見た感じでは、確かに魔力は高そうだ。試しに灯火を発動させてみてくれ)
灯火というのは初歩中の初歩と言われる魔法だ。手のひらに炎を生み出して、辺りを照らす一時的な照明器具の代わりとされる。発動させるのが一番簡単で、すぐに消せるので適正を見るのに最適な魔法だった。ちなみに、わしは人間時に一度も成功させたことがない。数えきれないほど何度も試したが、その度に師匠の期待に満ちたにやけ顔が浮かぶほどで、ある種のトラウマだ。
シィーラがぶっきらぼうに伝えると、緊張した面持ちでアルバが右手を伸ばし集中する。訳の分からない問いかけよりは、具体的な命令の方が受け入れやすかったのだろう。素直に従った。
一秒、二秒……十秒。
何も起こらない。
この時点でアルバの魔法能力は平均以下だと判断されても仕方ない。魔法を覚えたての子供でも、三秒以内に何らかの火がその手には発現する。それほど簡易な魔法だ。人間時に成功させたことがない自分が言えることではないが、本当に基礎中の基礎だった。
「だ、大丈夫だ。アルバ。緊張しないで、いつも通りやればいいだけだぞ?」
「……ご、ごめんなさい……」
ペンターズの励ましにこたえようと更に集中するが、変化はない。
(ふむ。上がり症で集中できておらんな。止めさせて良い。十分な魔力の波は感じるゆえ、精神的なものじゃろう。まずは心を鍛える必要があるな)
「えっと、もういいってさー」
言い方をもっと考えろと注意しようとしたところで、アルバが涙目になって「す、すいませんっ!」と走り去ってしまった。
「あっ、アルバ!?」
ペンターズが引き留める間もなく小さな背中は遠ざかる。
「ありゃ?便所かしらん?」
(んなわけあるかっ!お主の無遠慮な物言いのせいじゃ。まったく……気遣いというものをもっと覚えろと言っておるじゃろうが)
「あのっ!アルバは本当はちゃんと魔法使えるんす。ただ、かなりの人見知りで緊張しまくりで、人前だといつもうまくできなくて……でも、本当に魔法は得意なんすよ。実際、ぼくはあいつの魔法で救われたこともあって……だから、その……」
「そうなの?全然ダメそうだったけどー?」
ペンターズの必死の擁護にもシィーラは容赦がない。直情的な言動はこいうときにやはり厄介だ。余計な摩擦を生じる。だからこそ、思い遣りを学ばせなければならない。妖精の価値観や行動様式は、人間には理解され難い。
「ううっ、結果論としてはダメなんですけど、やればできるっていうか……」
(とにかくこう言え。アルバの魔法がうまくいかない理由は、精神的なものに起因していると)
こちらの事情を知らない以上、ペンターズにはとりあえず安心させる言葉が必要だった。
やたら棒読みながらそう告げると、兜の中の顔がぱっと明るくなった。
「あっ、やっぱそうなんすね?心の持ちようだって前にも言われてたんすけど、やっぱそうそう治るもんじゃないらしくて……それで、どすうりゃいいんすか?」
(本人に自信を付けさせるしかないが……難儀しそうじゃな)
シィーラがそのまま伝えて、ペンターズの顔が瞬く間に曇る。最後の部分は口にせずともよい。そういうところを本当に切実に学んで欲しい。
何はともあれ、本人がいなければ話にならないので、アルバを探しに行くこととなった。
魔法とは何か。
そう問われれば、大陸の者ならば総じて皆こう答える。
魔力を色々なものに変換して使える便利なもの、と。では、その魔力は何かと言われて正確に答えられる者はそれほどいない。考えもしないし、分からずとも支障はない。当たり前のように使えるから使う。その程度の認識だが、それで困るものでもない。よくよく考えれば不可思議極まりないこの力を、ただ当然のように受け入れて行使している。人間とはそういうものだ。
一方で、世界のあらゆるものを解き明かそうとする、真理探究者も一定数いるのが世の常だ。
当然の如く、魔法に関してもその本質に迫ろうとする学者は多い。そうしてできたのが大陸全土にその名を轟かせることになった魔法教会といっても、それほど差支えはないだろう。大々的に掲げる教義は魔法を人類のために役立てる、とあるが、内情の根底には魔力や魔法についての謎を読み解くことがあるのは間違いない。実はその根底の部分で、今は教会よりも真に迫っている魔法士一派もあるがややこしくなるので脇に置いておく。
魔法教会における魔法の定義とは『魔力を神の許しを得て世界に具現化する行為』となっており、人間の魔力とは『精神とマナを融合して練り上げたもの』とされ、マナとは『神気の残滓』ということになる。それらをさらに掘り下げてゆくと、大陸の歴史である神代の時代の神やら、人以外の魔力との比較やら、様々な知識が必要となる。
そうなるともう一般的な大陸人には理解が追いつかなくなり、何より興味も持たれない。日々の生活に無関係だからだ。
ゆえに、魔法とは何かというその問いかけ自体が稀なものとも言える。
そこに行きつくのは結局、魔法士のような魔法を生業とするような職業につくか、日々の大半を魔法を使って過ごす者だけだ。
シィーラとペンターズはどちらもその類ではなかった。どちらも魔法は使えるが、細かいことは一切気にせずに使っている。身体を動かすようなもので、それ以上でも以下でもない。シィーラの場合、妖精時代に使っていたという方が正しく、人間のそれとはまた違った感覚ではあるが。
とにかく、深く考えずに何の気なしに使っている者にとっては、いざそれが使えなくなったという時の対処法など分かるはずもない。あるいは、使えない理由など思考の埒外だ。そもそもの原理や基本がないのだから当たり前だった。
「……やっぱり、わたしは魔法をあきらめるべきなのでしょうか……」
か細い声を漏らしたのはアルバだ。資料室を飛び出した後、訓練所の片隅にある川べりで膝を抱えていたところを発見した。もうこちらを避ける気力もないのか、大人しく会話を続けている。
(あきらめるのは自由だが、既に伝えた通り、アルバに才能がないわけではない。魔法が精神に影響を受けるものである以上、その性格と自身でうまく付き合うことができれるかどうかが鍵じゃ)
シィーラがたどたどしく通訳する。最近はナリスが勝手に読んでくれるので、この手間と齟齬を忘れていた。自分で交流できるということは実に貴重なことであると改めて感じる。
「それってさ、兄貴。ぼくには良く分かんないんすけど、魔法を使うのに性格が関係するんすか?」
ペンタースが腕組をしながら、むむむとうなっていた。感覚だけで魔法を使っている者は皆この程度の知識と認識だろう。
魔法の大元が魔力であり、魔力に精神力が関係する以上、性格は魔法に大いに関係する。この場合の性格とは、言い換えれば感情であり、例えば怒りが強ければ魔法の威力が増大する、といったように人間の精神状態は具象化した魔法に影響を及ぼす。
アルバのように自分自身に自信がないような状態では、魔法に使う魔力は不安定にあり、発動させるための集中力も低くなりがちだ。人が持つ想像力、イメージというものは存外馬鹿にできないものだ。できないと思っていては、いつまで経ってもできない。何かを具現化させる際にその完成系が思い描けないと言うことは、現実に固定化しづらい。
そのような話をアルバにする。
「えっと、それと目的が大事みたいだねー」
「目的、ですか……?」
何の意味も目標もなく、漫然と何となくで道を開いて歩ける者もいるが、大抵の人間はそうではない。強くなって金を稼ぎたい、誰かを守れるようになりたい、誰よりも上の技を磨きたい。利己的であろうと何であろうと、そのような向上心と目的意識こそが成長の糧となる。裏を返せば、そうした強い意志がなければ何事も成せはしない。
「それだったら、アルバだってあるよな?強くなりたいって前に言ってたもんな?」
ペンターズは安心したように笑顔を見せたが、アルバ本人の表情は優れない。そこにも気弱さ、自身のなさが如実に出ていた。その気配を察してか、シィーラが言った。
「やる気ないんだったら、さっさと止めた方がいいよー?ここにいても意味ないでしょー」
「なっ!?兄貴、そんなこと言わないでくださいっす!!」
言い方はよろしくないが、内容は間違ってはいない。訓練所は騎士団に入るための場所で、それ以外の目的で在籍する意味はない。迷いがあるならば、他の道を探す方が建設的だ。
「だって、何のためにここにいるかさえ分からないみたいだからさー。世の中、他に楽しいこといっぱいあるでしょー」
「そんなことないっす!アルバは才能があって、それを活かすなら騎士団が絶対いいんですよっ!」
「それを決めるのはパルマでしょ?あんたがどうこう言うもんじゃないでしょーが」
口を挟もうとしたが、シィーラが珍しく正論を言っているので傍観することにする。ただ、名前間違いだけは訂正しろと、内心で突っ込む。
「そ、それはそうかもだけど……」
「だいたい、今回のお願いだってあんたの勝手なものじゃないの?パルマはどう思ってるのー?」
ずっとうつむいているアルバに向かって問う。
おそらく、いつもこのような調子でいるからこそ、ペンターズは代わりに答えるクセがついてしまっているのだろう。二人は幼馴染らしいので、その習慣が長く続いて常習化してしまっている。それは善意で思いやりのある行為ではあるが、同時にアルバの成長の機会を奪ってもいる。人には必ず自らの言動で意志を示して道を開く瞬間が必要だ。
他人が選んだ道ではなく、自身が覚悟を持って歩くと決めた道だからこそ、険しくとも前に進める。いまアルバが立っている道は、果たしてどうなのか。
「わたしは……アルバ……です」
かろうじて答えた言葉は自身の名前だったが、それは大事なことだ。自分が何者かすら流してしまったら終わりだろう。
「で、そのパルマはどうしたいの?」
「アルバ、です……わたしはアルバ。ちゃんと魔法を……魔法を使えるようになりたいんです」
今まで一番はっきりとそう言い切った。相変わらず声は小さいが、力強さはあった。
(もう十分じゃろう。名前はちゃんと呼んでやるがいい……)
シィーラはわざと間違えていたのだと思って、そこだけは助言しておく。名前に関する文化はかなり強調しておいたので、あえて侮辱的に煽ったのだろう……そうであると思いたい。
「魔法を使うだけなら、魔法士に弟子入りとかすればいいんじゃない?ここである必要はないよねー?」
「……っ!!」
どこか核心をついたものだったらしい。アルバがはっと顔を上げた。それから困ったようにまた顔を下げ、唇をかみしめている。何か葛藤があるようだ。
「また黙り込むのー?あたしも暇じゃないんだけどなー」
なかなかの煽りだ。一体どこで覚えたのか。何だか弟子を見守る師のような心境になってきた。人を指導するということは、こういうことなのだろうか。
「わたしはっ……わたしは、魔法を使えるようになって……ペンタ君を守ってあげたいんです……」
最後は消え入りそうなほど小さくなっていたが、しっかりとそう口にした。それは紛れもなくアルバの確固たる意志に思えた。
「えっ?ぼく?うわっ、そんなに弱っちいと思われたのか……情けない」
ペンターズはいまいち分かっていない様子で落ち込んだ。そういう意味ではないだろう。
「なるほどねー。おっけい。分かったよー。ちゃんと言えたじゃん、アルバ」
シィーラがちゃんと名前を呼んだことに気づいて、アルバが少しだけ嬉しそうに口元を緩めた。
「そういうわけで、やる気はあるみたいだから、あとよろしくー」
最後は結局こっちに丸投げしてくるシィーラだった。