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大和の使者がコタンに生み出した死者の数は七つ。元々八戸しかない小さな集落だけに、その二割近い人員が失われた計算だ。犠牲者の多くが男性で、狩猟採集を生業とする村にとっては壊滅的打撃と云っても過言ではない。
使者によって失われたのは、人の口だけではない。
村の活気そのものが鳴りを潜めた。初めから賑わい等なかったかのように物静かで、そして、生血を啜った辺りの雪は黒く斑になっていた。朝の到来を告げる鶏の音が聞こえない。毎朝毎朝、煩い位に耳にしていた音がない。
鶏たちは連れて行かれたのだろう? 大和の荷車に載せられて。ぎゃっぎゃぎゃっぎゃと啼きながら。
ウェルシペは冷え切った身体を起こした。
ぶるっと身震いをして、自身の膚を触った。鳥膚めいた皮は、死者のように冷たく凍てついている。元来色白の皮膚は、最早青白いと表現した方がしっくりくる。死人みたいな自分の身体。死んでいればどんなに楽か。死んでしまえば、家族と同じ場所へ、山へ、死後の世界へ還れるのだから。
開いた目に飛び込んでくるのは三つの死者と、饐えたような血臭。家族の匂いがしない。生きている者の香がしない。
自分の生者の生臭さが異端だった。
カムイの世界とアイヌ(人)の世界の境界線は曖昧なのだと、そう教えられてきた。でも、この考えに今のウェルシペは首肯することができそうもない。
何処に生死の線引きがあるのかは知れねど、カムイの世界とアイヌの世界はやはり違うものに思われてならなかった。
泪が零れた。
彼女は家族の死に対し、初めて泣いた。体内から出る水気は暖かく、生温く、彼女の頬を伝った。夢だったら良かったのに。非道で救いようがない悪夢でも、それが悪夢である限り、夢である限り、恐れ戦くのは寝ている間だけのことだ。明けて醒めれば、やってくるのは悪夢の終い。
目を瞑る。
――開く。
風景は変わらない。
瞬きによって涙が押し流され、視界がクリアになるだけだった。
惨状を代弁するようにして、大和の剣が囲炉裏端に自己顕示丸出しで放られたままだ。その刃面は付近が明るくなるまで気付かなかったが、ボロボロに削られてギザギザになってしまっている。人骨を断った為だろう。大和の武人は己の魂と剣を呼び習わしているているが、使えなくなれば捨て置くのだ。
誇りとは何であろう?
矜持とは何であろう?
捨て置かれた剣は語らない。
それが語るのは、唯一つ。
削った顎がその歯牙にかけたものの顔を蘇らせるのみである。「焼かないと……」ウェルシペは呟く。「焼かないと……」 何度も呻くように言いながら、大和の剣をおもむろに回収した。
我が家が燃えている。
乾燥した笹は燃え易く、瞬く間に火の手は拡散してチセ全体を紅く染めた。焔が空気の温度を高めて気温の差が生じ、ごうごうと耳を劈く音がする。爆ぜながら、笹の葉が飛ぶ。チセの壁面だった笹竹が消し炭に変わっていく。燃えているのはウェルシペの家だけではない。隣家も又、煙を空へ立ち昇らせている。黒い煙と白い煙が相互に糾いながら、遥か上空に拡がるスカイブルーの天幕に溶けていく。
「さようなら」は言わない約束だった。
家族はカムイの世界へ旅立っただけだ。なのに、如何しても口を吐くのは「さようなら」だった。
「ウェルシペ」
聞きなれた声がして、ウェルシペは振り向いた。
父方の叔母が立っていた。彼女は見るからにやつれていた。ふくよかだった頬の肉がげっそり削ぎ落とされたみたいになくなっている。
「うちに来るかい?」
「……うん」
叔母から直ぐに視線を外しながらも、彼女は叔母の提案を肯った。
我が家が完全な炭になってしまうまで、ずっと見続ける。目を突き燻しにかかる灰塵も、黄味がかった煙も、彼女の瞳を閉じさせるには力不足だった。眼球表層が乾いてしまえば、泪が出るだけだった。
ウェルシペは叔母一家の世話になることになった。
叔母の話では、コンルが殺された後の経過は見るに耐えかねるものだったと云う。
大和の中で実際に抜刀したのは二人だったそうだが、小さなコタンはそれに抗うことができなかった。獣を狩る為の弓矢や小刀では、製造段階から人を殺める目的で造られた大和の剣や、鏃や刃を防ぐ為に考案された革甲冑、着込み等に勝つことはできなかったのだ。
そして、そもそもコタンの住人たちは戦に挑む際の統率を欠いていた。狂乱痴態を晒しているかに見えて、その実、武芸に長け、抜刀せずとも後方支援の旨を理解している大和の侍に仇成す等、愚の骨頂だった。
大和に抵抗した村人は悉く切り伏せられた。
皆、死者になって死後の世界に旅立った。何ら、餞もなく、本人たちが望まぬままに、土に還っていったのだ。
ウェルシペの棲むコタンに英雄ポンヤウンペを体現する男はいなかったわけだ。
このままでは村が滅ぼされてしまうと感じた叔母は、村人を説得して回り、彼らの条件を呑むことにした。結果、四割増しの贈り物を納めた。それで丸くは治まらなかったが、こと態は一応終息を迎えた。
リーダー格であった久田は一応の良識ある人物ではあったらしい。
その程度は無論――多可が知れていたが。囲炉裏の灰へ串刺しにしたシャケを刺し込みつつ叔母が言った。
「最後のシャケだよ」
シャケは小ぶりだ。
成魚とは、とても思えない。かと云って稚魚でもない半端な大きさ。溯上の際に傷つき、河中に潜む細菌によって白んだ肉の見えるシャケ。満身創痍。目前で火に炙られるシャケの半端さを、自分のようだとウェルシペは思った。
「食べ物がなくなったら、如何するの?」
「熊を食うしかないだろうね」叔母の声は心なしか震えていた。微々と震える唇は青い。
「……イヨマンテ」ウェルシペが言った。
「カムイはお怒りになるだろうか?」
「解らない……」
イヨマンテは通常、成獣に対して行う儀式である。
現在、ウェルシペの棲むコタンには一匹の小熊がいる。前年に捕まえたもので、まだ成獣になりきってはいない。又、イヨマンテを行うのは冬の終りと決まっている。
今は冬の口だ。
冬は漸く幕を開けたところなのだ。
本来ならば、イヨマンテはできない。やるべきでもない。やってはならない。成獣が必要ならば、冬眠している羆を捕まえてくれば良い。しかし、男手を欠いた村に熊狩りに出掛け得る人員はいない。小熊は村総出で大切に飼育され、イヨマンテに供されるものだが、現状では熊に与える餌が存在しない。村人が食せるだけの備蓄がないのだから。八方塞だ。多少、通例を曲げてでもやる以外に道はなかった。背に腹は代えられないのだ。
「やろう。叔母さん」
「だが、ウェルシペ。名代は如何するんだい?」
「私がやるから……」
せめてもの、家族への謝罪だと彼女は考えた。唯一生存した村長の娘なら、皆も納得してくれるに違いない、そう思った。事実、誰も否とは言わなかった。