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《3》

 塩締めしたニシン、天干しされたシャケ、昆布、熊の革、捕らえた鷹等が荷台に積み込まれていく。村の衆が人足のようにどつかれながら作業に従事している。コンルもその中に含まれていた。目の前で村の財産が失われていく光景を何処か遠くの風景を遥拝するかのような、虚ろな眼差しでウェルシペは見ていた。本当に遠遥の出来ことであればどんなに心安らかな気分になれただろう。虚ろな眼に反して、彼女の胸中は焦燥感に(まみ)れていた。

 自分は悪くない、悪くないと己に言い聞かせた。リーダー格のちょび髭は、ねちっこい目付で積まれる荷を眺めている。一つ一つの物品を精査するような眼球。まるで、機械(からくり)仕掛けの人形のような目の動きだった。彼が気付かないことを祈った。彼が人間であることを祈った。非道な悪魔的ところ業をできないことを祈った。

 四割増しの貢物等徴収されては、村は生きていけない。皆、死んでしまう。飢え死にしてしまう。日高の土地のように越冬の為、鹿が集まる土地でもなしに、ウェルシペの棲む土地は貧しい。近くに海もない。現在、搬入が進むニシンにしたって、遠方の同胞から取引を経て得たものだ。

 日が傾き、空の端が茜色に染まる頃、積み込みは完了した。黄昏の陽光は雪面に照り返し、之でもかと云わんばかりの眩しさを振り撒く。

「終わったぞ」と父が言った。

 何時の間にか、ウェルシペの父は彼女の背後に立っていて、ポンと軽く撫でるように彼女の肩を叩いた。びくっと背筋が戦慄(わなな)く。「如何した?」

 顔色の芳しくない娘を見て、父親は口をハの字に歪めた。「何でもない、よ」声は震えていた。

「そうか。気分が悪いのなら、家の中で待っていればよかっただろうに」

「そうも――いかないから……」

「お前は只の通訳だ。責任を負おうなんて気は起こすな」

 父の言葉は娘を安心させようとするものだった。包容力と慈愛に充ちていた。そのことは慰安の言葉をかけられたウェルシペ本人が一番理解している。だけれど、彼女は今回の取引で責任を負わねばならなかった。そのことも、彼女は十二分に解っていた。

「足りないなぁ」

 身体が震えた。

「如何した? やっぱり具合が悪いんじゃないか?」

 コタンの民の中、ちょび髭の言葉を理解しているのはウェルシペ(ただ)独りだ。和語を解するのは唯独りなのだ。ちょび髭はウェルシペの眼前にやって来ると、わざとらしく刀の柄に手を宛てながら言った。「例年通りしかないんだがなぁ」

「それが全てよ」ウェルシペは又しても嘘をついた。嘘は突き通さねばならなかった。村の為に吐いた嘘は守り通さなくてはいけなかった。

「何を言っているんだ?」不安げな父の顔。

「大丈夫だから。父さんは黙って見てて」

「……そうか」父は不承不承と云った様子を露にしながらも引き下がった。娘を信頼しているのだろう。だとすれば、之ほど心苦しく、ウェルシペの心臓を締め上げることもない。

「例年通りじゃぁ、問題があるのだがねぇ?」

「四割増し等、払えるものか」

「ふん。そうか。――おい、牛尾」ちょび髭が後方の部下に声をかける。牛尾と呼ばれた男がやってくる。ザンバラ頭の、およそ侍とは思えない風体だった。それでも帯刀しているのだから、武士ではあるのだろう。彼は開口一番、言った。

「俺は聞きましたぜ。この女が嘘を言っているところを、ね」

「何を証拠にッ!」声が荒いだ。

「証拠か。なら、牛尾。言ってやれ」

「へい。何時も通り、そう言ったね?」

 牛尾の口から出てきた言葉は和語ではなかった。大和の使う言葉ではなかった。ウェルシペたちが常日頃の生活で使う言葉だった。ウェルシペは恐怖に言葉を失った。がっくがっくと上下の歯列が鳴った。嘘は最初から嘘ではなかった。ハナから見抜かれていたのだ。

「如何云うことだ?」父が激昂気味に言う。

「あんたの娘が嘘を言ったのさ。俺たちゃぁ、何時もの四割増しで要求したんだがね」

 もうウェルシペの出番はなかった。最初から大和の中にウタリ(アイヌのこと)の言葉を理解できる人間がいたのだから。通訳等、もう必要ない。

「そんなことは聞いていない」

「だから、あんたの娘が嘘を吐いたのさ。之は立派な契約違反だ」

「契約だと? 俺たちはそんなものを結んだ憶え等ない」父は怒っていた。憤怒の情で紅くなった父の顔を、之ほどまでに怒りを(おもて)に出す父を、ウェルシペは初めて目にした。「それがあるんだよ。如何しても、と言わば、見せてやろう。――久田さん。例のヤツ」

 最後の方、和語で牛尾はちょび髭に告げた。ちょび髭改め、久田は鷹揚な面持ちで懐から一枚の和紙を取り出した。くっしゃくっしゃになった和紙を伸ばすと、そこには何やらミミズがのたくったような線が沢山書いてあった。「ここだ。ここ、ちゃんと契約が書いてある」ミミズを指差すが、ウェルシペも父もさっぱり解らなかった。それが大和の文字だとは識っていたが、意味は解らなかった。何処を如何見ても、いくら目を眇めても、尖らせても、黒いミミズにしか見えないのだった。

「そんなものが何だッ! 出せないものは出せんッ! さっさと国へ帰るがいい」

「契約違反の場合、女を浚ってもいいことになっている」

 ニヤッと哂う牛尾と久田。牛尾の両手がウェルシペに伸びる。ヒッと小さく悲鳴をあげて、ウェルシペは後ずさった。数年前の記憶がフラッシュバックする。大和の土地に拉致されたときの記憶が、深い闇の中に葬ったはずの記憶が、鎌首を(もた)げて迫って来た。彼の手が彼女の肩口に触れるか触れないかの瞬間、ウェルシペの視界を父の背中が遮った。続いて、ばちんと音がした。父が牛尾の手を(はた)き落としたのだ。牛尾の顔が引き攣る。まさか抵抗するとは夢にも思っていなかった、そんな感慨がありありと解った。引き攣った顔は直ぐ様、般若に変わる。雪面から照り返す陽光が更に鈍色の何かを煌かせた。それは刃だった。大和の剣の刃だった。刃は一閃されて、父の肩を切りつけ、そのまま斜めに振り下ろされた。結果、袈裟切りにされた父の肩から胸が血飛沫を振り撒いた。血を盛大に撒き散らしながら、父は雪面に倒れ込んだ。白い雪はあっと言う間に、朱に染まった。止まらない血流はそのまま、雪の白を侵食していく。

「父さんッ! 父さんッ!」父を揺する。父の顔に自分の顔を寄せる。頬にかかる空気の圧。まだ息がある。「父さんッ! 父さんッ!」

「……逃げろ」消え入りそうな声で父は言った。

 ウェルシペは首を横に振った。縦に振れるはずがなかった。この災厄を招いたのは誰でもない、自分なのだから。当こと者である自分が逃げては筋が通らない。「いいから……逃げろ」気遣うような眼差しが痛い。本当は優しい父の瞳の光のはずなのに、針のよう。「父さんを置いて行けるもんか……。いけるもんかッ!」

「この生意気で、煩い、おきゃんな女も殺しましょうぜ」牛尾が言う。

「馬鹿がッ! お前、今、何をしたと思ってる? 生かさず殺さずを忘れたかッ!」

 久田が歯を剥いて、怒鳴り声をあげた。きょとんとした顔の牛尾。自分が咎められている理由に及びもつかないのだろう。

「契約は如何したんでさぁ?」

「この痴れ者が。お前は字も読めんかったのか!」

「はぁ。しかし……」

「帰るぞ。クソが」吐き捨てるように言い、久田は踵を返す。その頭に石が(あた)った。命中した石ころが雪の表面に落ちると同時に、彼は振り返った。

「よくも、父さんをッ!」石を投擲したのはコンルだった。

 彼はチセの屋根の上に立っていた。左手と胸で作った囲みの中には幾つもの石が見受けられる。二発目が投げられた。抜群の精度でもって、今度は牛尾の頭を直撃する。

「クソ餓鬼がぁッ!」瞬間的に激昂した牛尾は、手にしたままの血で濡れた剣を振り上げた。

()めろ」と久田が制止させるのも聞かず、彼はチセの斜めになった壁面を一気に駆け登ると、一撃でコンルを屠った。鮮やかな手並みだった。キリモミしながらコンルが屋根から落ちて来る。四肢が雪の中に突き刺さる。

「コンルッ!」ウェルシペは叫んだ。

 雪に仰臥する最愛の弟は血みどろになっていた。噴水のように動脈から血が噴いている。血だらけになってしまうのも構わずに、ウェルシペはコンルを抱き締めた。衣服にあしらわれた四角い渦巻き文様が血の赤に穢されて行く。

 抱き締められながら、コンルは力なく「……苦しいよ」と言った。

 その後、何が如何なったか憶えていない。気がつくと、もう太陽は見えず、夜になっていた。シンシンと云う雪の奏でる音に混じってフクロウの啼き声がしている。村は静寂に包まれていた。腕の中には氷のように冷たい弟があった。月明かりに浮かび上がる彼の顔は、月光と同じように青白い。

 コンルの骸を肩に担いで自宅に入ると、母が死んでいた。何故母が死んでいるのか解らなかった。母の死骸の傍らには大和の剣が落ちていた。びっしり付着した血液は、冬の乾燥した空気に晒されてとっくに乾き、ガビガビになっている。直刃(すぐは)模様が浮く剣の表面をなぞると、パリパリと血の塊は剥げて、床に散った。母親の亡骸の傍に、寄り添わせるようにしてコンルの身体を横たえる。何も考えられないまま、彼女は取って帰す。父の屍もチセに運び込んだ。

 父の身体は重いはずなのに、如何しようもなく軽く感じた。魂が抜けてしまったからかもしれない。今朝まで賑やかだった家は、とても静かになった。生きている住人はウェルシペ唯独りだ。話す相手がいない。団欒はもうない。独り言を言っても、応えてくれる人がいない。囲炉裏の火は消えている。だから、屋内は暗闇な上、膚寒い。けれども、新しい薪をくべる気力等湧こうはずもなかった。冷え切った家で、彼女は一夜を明かした。


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