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《二》
「帝の要求である」とウェルシペは言った。
彼らは何時も自分たちの最高権威者を帝と呼んだ。
帝は大和と呼ばれる土地に棲んでいると聞く。大和と云うからには、恐らく大和の根拠地なのだろう。しかし、ウェルシペは識っていた。彼らの真の親玉は帝等ではなく、津軽を治める一人の藩王であり、その上の将軍と名乗るディクタトル(執政官)が実質的支配者だと云うことも。将軍は自身を対外的には大君、つまりは帝と称していることも。だから、「帝の要求」と云うのは本当でもあり、半分詐称とも云えた。藩王は将軍の威を借り、将軍は京の皇帝を僭称しているのだから。大和の世界は煩雑だと、ウェルシペは思う。
ごっちゃごっちゃに欲の情念が社会を侵食していて、ワケが解らない。大和自身は中国文明に倣った文明人と己らを自認しているようだが、之はもっと意味が図りかねるものだ。
「要求は何か、訊いてくれ」と父はウェルシペに告げた。
ウェルシペは通訳である。この小さなコタンには和語の解る人間はウェルシペしかいない。よって、大和との折衝には彼女の同席が必須だった。彼女の父は親心としては娘を抗争の場に置きたくはなかったが、村の為を思えば致し方のないことと臍を噛む気持ちである。交渉の為、現在、帝の使者を名乗る一行はウェルシペ一家のチセに案内されている。
男七人が詰めると、一家四人暮らしの為に建てられたチセは余りに小さく狭かった。
「何をしにきた? 要求とは何だ?」と問うと大和は鼻を鳴らす。
「ふん。毎度のことながら、尊崇の念がない女だな」
不機嫌そうな態度で、ちょび髭を生やした壮年の武人は胡坐の上に乗せた手甲をもう片方の指先で叩く。
「それで結構。大和に靡く気はない」
毅然とした態度でウェルシペは言った。射抜くような眼光でもって、相対する武人を見詰める。全く臆することなく、武人は見詰め返して来る。小娘の睨み等、いい大人の彼には効き目等ない。彼女の和語は完璧だ。それもそのはず、彼女は大和の土地で暮らしたことがあったのだから。舐められてはなるまいと思うと、自然膝の上に置いた両の掌が拳に成り代わっていた。
「蝦夷風情が。粋がりおってからに。我らのお目こぼしで生きている身分で、偉そうだなぁ」
偉そうなのはどっちだ、とウェルシペは思った。
大地と山と動物のカムイへの感謝を忘れた大和に言われる筋合いはないと感じた。自然の糧がなかれば人間は生きていけないのに、不殺生等と云う仏教思想に拘泥する人間たちに自分たちを否む道理はないとさえ思う。汚いちょび髭の鼻っ柱を殴りつけたい衝動に駆られたが、村の命運が掛かっている以上、ぐっと我慢して、堪えた。なるたけ平静を装う。こちらの感情が見透かされないように、怒りに歪みそうになった顔面の筋肉を制御する。「で?」わざと、嫌みったらしく言う。
「朝貢だ。貢物を回収しに来た」絵に描いたような傲岸不遜さ、高慢さ、傲慢さ、傲岸さ、だった。
「常より遅かったようで?」
「そうだな。滞納、と云うことになるな。何時もの二割増しで徴収する」
「ふざけるなッ!」ウェルシペは囲炉裏の縁をガンと叩いた。振動で灰が舞い上がって、散った。
灰を吸い込んで咽た武人が、きつい目を彼女に向ける。「三割増しだ」
「クソったれッ!」
吐き捨てたが悪い方にしか作用しない。
「四割増しだ」
ちょび髭は勝ち誇ったように、にやりと口の端を曲げた。
歯痒かった。村人総出で襲えば、この場にいる七人等簡単に始末できるだろう。しかし、大和は強力で強大なのだ。蝦夷地に赴いている彼らは大和の尖兵ですらないのだ。将軍の配下の藩王の、その又臣下の役人の、承認された商人の子飼いの侍に過ぎないのだ。彼らから連なり、そのバックに蠢く力は計り知れない。歯向かったところで、一時の勝利を収めても、数ヶ月もすれば津軽からやってきた軍勢に蹂躙され、蹄鉄に踏み潰されて終わるだろう。鉄砲から放たれた鉛球に穿たれて、地に還るだろう。
オムシャ(土産物の交換による対等な交易のこと)のやり取りが崩壊して久しい。蛎崎氏が蝦夷を支配した昔は、まだお互い友好的だった。変わったのは松前がやって来てからのことだ。英雄ポンヤウンペを体現する男は百年の昔に討ち取られた。抗う術等、ウェルシペには考えつかなかった。小娘の限界だった。自分の小ささが憎たらしかった。
たった八戸からなるコタンの、その長の、娘の矮小さ等大和の武人の前では塵同然だった。要求を呑む以外に方法がなかった。力なく彼女は首を下げた。できれば、天井を見たかった。天井を見れば泪は零れないだろう。けれども、口惜しげに下唇を噛んでいる自分の顔を相手に見られるのはもっとずっとシャクだった。
だから、伏した顔をあげもせず、彼女は言った。「解った……」ウェルシペは声を絞り出した。
「解りました、だろう? 売女め」
臍を噛む。
「――解りました」
言い直せば、満足そうに武人は哂った。怖気のする顔付だった。背筋を凍える雪虫が縫って行く。殴らなくて良かったと、心底思った。もしも殴りつけていたら、自分の拳が腐ってしまったかもしれないと、思った。
ウェルシペは父の耳に囁くような小声で告げた。「貢物だって。――何時も通りでいいから」