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《一》
一度、その姿を空の間にあらわした雪は、中々止む気配を見せなかった。身体の芯まで容赦なく凍えさせるような空気の流れは陰鬱さを喚起し、繰り返される白い粉の乱舞は気が滅入ってしまうくらいだった。飽きもせず何日も何日も雪は降り続けた。
深い森に覆われた北の大地に、冬の本格的な到来が告げられたのである。数日後には、狭い集落全体が色を欠いた白銀世界に成り代わっていた。積雪は堆く、人の背丈を遥かに凌ぎ、チセ(アイヌの住居、竪穴式住居に似る)の土間から外へ出ることができないほどになってしまった。
笹で編まれた壁の合間から覗く山膚も、真っ白だ。山全てが、神代の創造の時分より雪が降り重なってできていたのだと言われても、そうだと思わず肯ってしまいそうだった。秋の山の面影はそれくらい、何も残っていない。
雪煙る日々を家から一歩も出ることもなく、ウェルシペは過ごした。冬季に備えた食料の準備は既に整っていたから、わざわざ屋外に出てまで作業する用ことがないのだった。かと云って何もすることがないわけでもなく、機織くらいは屋内でも作業できる。尤も、今はしていなくて、別のことをしているけれども。
日干しにしたシャケの肉を小刀の切先で削り取りながら、ウェルシペは囲炉裏を囲む父に言った。「やまないね」
近くで、どさっと雪が自重によって崩れて落ちる音がした。囲炉裏で煌きをあげる炎の上、手を翳して暖を取りつつ父は応えた。「ああ、そうだなぁ。そういえば――今年、大和は来なかったな。雪が本格的に降り始めた。もう、来ないだろうな」
「うん。来ない方がいいんだ。あんなやつら」
ウェルシペは上下の歯列を噛み締めた。歯を食いしばっているのは、半分、水分を失ったシャケの身が余りにも硬く、異常なほどに頑丈なところ為だ。残り半分は、大和へ向けた敵愾心に近い負の感情ゆえだ。食い込まんばかりに五指でシャケの腹を固定めて、刃をぐいぐいと身へ押し込む。
「そうだな。俺はお前が心配だからな。やつら、何をするか知れたものじゃぁない」
「――こんなもんでいい?」スライスされたシャケの身を一切れ掴んで、父に見せると、彼は満足げに微笑んだ。
ウェルシペは削ったシャケの肉を底の深い木の皿に入れた。上から酒を並々と流し込んだ。父の顔がやんわりと綻ぶ。シャケの酒浸しは彼の好物なのだ。さっそく手が伸びてくる。
「お前もおあがり」父の隣に座っている双子の弟コンルにも差し出した。たっぷりと注がれた酒の表面ががたぽんと揺れた。
「ありがとう。姉ちゃん」自分そっくりの顔が笑う。ウェルシペは何だか、少し気恥ずかしくなった。彼の笑顔に中てられてしまったみたいだ。
双子と云うのは、とてもよく似た存在だそうだ。姿見とやらを使えば自分の背格好が解ると耳にしているものの、実際に姿見すら目にしたことはなく、彼女は自分の容姿をよく識らない。それでも、最愛の弟は可愛らしい。肉親贔屓を差し引いたって、何処に婿に出しても自慢できる美男子だ。似ている自分は、果たして如何なのか。余り考えたくはなかった。
土間の梁に干しジャケの残りを吊るしてから、ウェルシペは囲炉裏端へ移動した。
「雪下ろししないとねぇ」と母が咀嚼しながら何げない調子で呟いたが、ぞんざいにウェルシペは首を縦に振っただけだった。酒浸しを齧る。まだ硬い。十分に酒が染み込んでいない。対面に座るコンルも彼女同様、噛み切るのに悪戦苦闘していた。一方、父は生肉食い破る熊の如く豪快に咀嚼している。
「雪下ろしか――まあ、そんなに大変、と云うこともないだろうさ」
「だねぇ」と母。見れば、彼女も、その夫と同じく満天の豪気さで酒浸しを食べているではないか。まるで、番の熊だなぁと思った。とても、お似合いの夫婦だ。
ウェルシペの家族は彼女を含めて、計四人。父は村長をやっていて、娘の彼女は今年で十七。長男コンルも十七歳。所有の概念が希薄なアイヌの間にあっては、自分たちの暮らし向きが貧しいのか如何か、誰も知らなかった。村人の誰一人として貧富の差の概念を詳らかに知らないが、それは如何でもいいことだった。そんなことよりも家族の団欒があれば十分だと、思えた。
雪は一週間ほど降り続け、当然やんだ。頃合を見計らい、一家総出で雪下ろしをすることになった。意地悪汚いくらい、村一帯は雪の白に包まれていた。一週間前の村の景色が全く様変わりして、まるで異界へやって来たみたいな気分だ。
毎年のことなのだが、こうも急に変化すると驚いてしまう。笹葺き屋根に積もった雪をかき降ろしながら、ウェルシペは深い溜息を吐いた。肺から空気のあらん限りを搾り出すような感じだ。彼女は肉体労働がそんなに得意ではない。いい加減、雪かきに疲労感を覚えずにはおれない。
彼女の身体そのものは頑健で病知らずだが、それと体力の豊かさに相関関係がない。疲れるものは疲れるのだ。健全な肉体とは二通りの意味を持つ。筋骨逞しいか、病魔に抗う力に秀でているか。
辺りは寒さに満ちているのに、額には薄っすら汗が滲んだ。ツンと鼻をつくのは自分が発するアンモニアの臭い。髪留めで結んだ長い黒髪が、うなじや額に貼りつき、ちょっとだけうざったい。長く水浴びもしていないところ為か、突き刺すような痒みもあった。冬の間は凍えるので水浴びの機会は減る。明日はもっと痒くなるだろう。明後日はもっともっと。
「姉ちゃん」と呼ばれた。「手が止まってる」悪戯っ子の笑みを湛えて、コンルが傍らに立っていた。
「ごめんよ」と謝ると、彼は優しく言う。
「いいよ。姉ちゃんは休みなよ」
「そう云うわけにも、いかないかなぁ。はは――だって、私はお前のお姉ちゃんだからねぇ」
コンルの頭を撫でる。
可愛い弟だ。でも、二人は同い年、とっくに彼の方が身長が高いので、頭を撫でるのはちょっと変な気分になる。当のコンルは如何思っているのだろう? くしゃっとした照れ笑いからはイマイチ、彼の内面は読み取れない。
姉の威厳を護持せんと、雪かき用の民具を持ち直す。まだまだ大丈夫とアピールするように高々と持ち上げた瞬間――ウェルシペは下半身のバランスを崩して、足を滑らせた。真っ逆さまに転がりながら、屋根から下へと落ちて行く。深雪の絨毯がクッションになってくれたが、臀部が深く雪の中に突き刺さってしまった。姉の威厳は護持できるどころか、文字通り、転がるように失墜しただろう。
「大丈夫?」とコンル。ちょっと苦しい。もがく。上半身の力を使って下腿を持ち上げようとするも、上手くゆかない。新雪は柔らか過ぎて、掌がめり込んでしまうばかりだ。独りでの脱出は困難そうだった。
「手、貸そうか?」見かねたコンルが屋根から降りて来て、言った。
「お願い……」万歳するように諸手を突き出す。降参だ。姉の威厳はもういい。
コンルは姉を引き上げようとするが、足場が雪では力が存分に入らず、姉を持ち上げられない。決して彼が軟弱なわけではない。きちんと父と狩りに出掛けて獲物を仕留めて帰って来るのだから。
「おいおい、何やってんだ?」チセの裏手で雪かきをしていた父がひょっこり顔を出す。
「あはは。父さん、救けて」はにかんだようにウェルシペは笑った。
一家の長たる彼に、醜態を晒している様を見られて、やや恥ずかしさを感じないでもない。姉の威厳も、長女の尊厳も奈落の底へと急転直下一直線の模様。
取り立てて厳格でもないが、父性を感じさせる彼女の父は困ったように苦笑して、力を溜めるように屈むと、一気にウェルシペの両手を引いた。流石は頼れる家長だった。ぼんと跳ねるように雪から臀部が解放された。解放されたまでは良かったが、今度は勢い余って、前につんのめった。あっと言う間に視界一杯に拡がる白。追ってやって来る冷たい感触。
「むぐ……父さん……」
勢いがつき過ぎたのなら、ウェルシペを引っ張った張本人である父も一緒に転倒してもいいはずだった。そうならなかったのは、彼が既に横に身を捩じらせていたからに他ならない。つまり、ウェルシペは再び冷たい雪に、今度は顔を埋める格好になった。鼻っ面が冷たい。冷えに耐えかね、鼻水が出た。ズズズと啜ったら、雪まで吸い込んで気持ち悪くなった。
後頭部の上の方から、馬鹿笑いする父とコンルの声がした。正直、イラッとした。雪から顔を抜いて、顔面に張り付いた雪ん粉をテキトーに払い落とす。むっとしながら、男族二人を見上げる。見上げた父の顔は笑っていなかった。
さっきまで馬鹿笑いしていたはずなのに、彼の顔はそんなことがあった等とは感じさせない厳しさに彩られていた。正に、真剣そのものだった。こと実、笑い声はとっくに空気を震わせてはいなかった。
「父さん?」
反応がない。父の傍らで同じく笑っていたはずのコンルを見た。彼も、もう笑っていない。父親ほどではないが、厳しい顔をしている。何ごとだろうか、とウェルシペは首をかしげつつ、立ち上がった。
家族二人が全く同じ方向へと視線を傾けていることにウェルシペは気付いた。彼らに倣って、顔を動かすと丁度、同じ方角から馬の嘶きが聞こえてきた。続いて馬蹄が石にぶつかって発する金属の音。遅れて視界に映り込んだのは大和の姿だった。
革製の甲冑に身を包み、腰に湾曲した刃物を佩いた武人の一団。数は七名。先頭の二人だけが馬に乗り、残りの五名は藁で編上げた長靴で雪を蹴って歩いていた。鎧ではなく簡素な着込みを身につけ、頭には雪避けの笠を被っていた。騎乗していようがいまいが、一概に刃物を携えている姿は大和に違いないのだった。漆塗りの鞘に収まった独特な形状の剣は大和でなくば、絶対に佩かない。
「……そんな……」ウェルシペは息を呑んだ。ごくりと重々しい響を咽が鳴らした。痰と唾が咽の奥の方で絡まった。「大和は来ないんじゃなかったの?」言おうとした言葉は声にならず、口腔の前で空気に溶けて霧散してしまった。