第七十話 ドボルゲイツ
「教皇! どうやってここに……っていうかなんで来た!?」
「送言の魔晶石を渋っていたフォトン司教が連絡してきたんじゃ。ただ事ではないと思うじゃろ? 安心せい。連絡のあった三人は回収済みじゃ」
歪み渦を巻いた空間から現れたのは教皇ドボルゲイツだった。エクレールはドボルゲイツがここに来た方法に驚くよりも、自身とクロの戦いに巻き込みかねないことに焦りを覚える。
「三人を回収したならここはいい! 逃げてくれ。守りながら戦う余裕はないんだ」
「老いたとはいえ、まだまだ戦えるぞい? それで、フォトン司教がそこまで言う相手とは…………これは、どういうことじゃ?」
ドボルゲイツはクロのほうへと顔を向けた途端、疑問を口にした。顎を手でさすり、考え込むようにしながらクロを凝視している。
「……年は取っとる。髪と目の色も変わっとるな。しかし、顔は昔のままじゃ。忘れるはずもない。なぜ、あなたが……勇者様が魔族に……」
「ゆうしゃ? 教皇、何言ってんだ? クロが勇者だって?」
ドボルゲイツはエクレールの質問に答えなかった。視線をクロに向けたままだ。
一方、クロのほうは一度周囲を見ると軽くため息をついていた。
「……ゲイツ。結界を解け」
「さすがですな。派手な登場でごまかしたつもりでしたが……あなたが相手だと知っていれば、もっと違う魔法にしたんですがの」
「……」
「ああ、すみませぬ。結界でしたな。しかし、せっかくの再開、もう少しお話しを聞かせてもらっても?」
エクレールは、ただ聞くことに徹していた。
話を聞いてわかったことは、ドボルゲイツがいつの間にか結界を張っていたこと。その結界でクロは逃走できず、この場にとどまっていることぐらいだ。
二人の関係性もなんとなくは分かる。しかし、エクレール自身も混乱していることもあり、確定した情報として扱っていいのかわからずにいた。
会話を聞き逃さぬようにしながらも、警戒は怠らない。いつでも動けるように体勢は整えている。ただ、二人はそんなエクレールを気にせずに会話を続けていた。
「そうですな。生きていたことも驚いていますが、やはりまず聞きたいのはその見た目、なぜ魔族の姿に?」
「……」
「考えられるのは魔王を倒したあとに何かあったということ。しかし、生きているのなら女神様のお言葉、石板にはなぜ勇者様が死んだと記されたのか……」
「ゲイツ、それ以上考えるな。思考を止めろ。今のお前では耐えられない」
エクレールにはクロの言葉の意味が分からなかった。
考えるなというのは、詮索されたくないのだと無理やり納得することもできる。しかし、耐えられないとは何のことなのかわからない。それにドボルゲイツの言っていた石板の内容もエクレールは気になっていた。
石板はセルレンシアの宮殿地下にある。高さは人の背丈ほど、幅は寝転がった人が三人並べればちょうどいいぐらいの大きな石の板だ。
古くからあるものらしく、破損個所も見られ、一部の人間しか入れないよう警備されている。そして、その石板の効果こそが女神カルミナの言葉が記されるというものだった。
女神カルミナの言葉ではクロは、先代の勇者は死んでいるはずだ。なのに生きてる。単純な間違いだとは思わない。人ではなく、女神なのだ。何かしら理由があるはず。そして、その理由こそクロが人間から魔族になった原因の可能性もあるだろう。
エクレールは聖カルミナ教会に属しているとはいえ、あまり女神について詳しくない。伝説や伝承についても伝え聞いたことはあるが、自ら文献を調べるまで熱心ではなかった。
女神について情報が少ないエクレールと違い、ドボルゲイツは教皇ということもあり詳しいはず。何か思いついていてもおかしくはない。そう思ったエクレールはクロを警戒しながらもドボルゲイツのようすを窺う。
ドボルゲイツは片手で口元を隠しながら考え込んでいる。視線こそクロのほうを向いているが、警戒してるとは思えない。思考に集中してしまっているようだ。
一方、クロは再び周りを見るとかぶりを振っていた。結界が解かれていないのだろう。どのような効果の結界かはわからないが、厄介なもののようだ。
「やはり、おまえは言っても聞かないか……」
クロが呟き、そして消えた。
エクレールは慌てず動き出す。警戒していたため、クロが呟くと同時に独自魔法を発動させていたのである。
クロは一瞬にして横へ大きく移動していた。視界から外れたあと、死角をついて攻撃をしようとしているのだろう。その体からは微かに紫紺の光が見える。
クロがドボルゲイツに迫っていく。
高速化したエクレールはドボルゲイツとクロの間に入り、剣を掲げる。
繰り出されていたのは手刀だ。意外なことに手刀を見る余裕すらある。それは以前見たクロの速度からすると考えられないことだった。
クロの速度が遅くなっている。一瞬、そんな考えがエクレールの頭によぎった。しかし、深く考える間もなく、手刀と剣が交わっていく。
エクレールの掲げた剣は銘もこそないが魔剣であり、通常の剣と比べれば頑丈である。当然、人の手より硬い。そのはずだった。
魔剣が折れ、砕け散る。
手刀そのものは体に受けなかったため、身体に怪我はない。しかし、精神的に受けた衝撃は大きかった。
「魔剣だぞ!? さすがにおかしいだろ!」
クロからの言葉はない。言葉の代わりに蹴りが迫ってくる。
あの手刀を見たあとだ。受ける気はない。流すのも危険だと判断し、後ろに跳ぶことで躱す。
跳んだ先にいるのはドボルゲイツだ。ようやくこちらに顔を向けているところであり、今のやり取りについてこれるとは思えなかった。この速さの戦闘に入ってくるのは不可能だろう。危険から避けるため、着地ついでに蹴り飛ばし、クロから大きく距離を離しておく。
「余計なことを」
声はすぐ傍から聞こえてきた。しかし、前方に姿はない。
エクレールは直感に従い、前へ全力で跳び転がる。
直後聞こえてきたのは空気を切り裂く音だ。躱したというのに風を感じ、頬が薄く切れる。当たっていた場合のことは想像したくもない。
前転するさいに左手で目一杯の土を掴む。
立ち上がると同時に、見ることもせず土を背後へとばらまく。さらに前へと体を捻りながら跳び、クロへと向き直る。
クロは土を手で払っていた。確認すらしなかったが、やはりすぐに追ってきていたようだ。
距離が開き、一拍、微かな間ができる。
その短い時間の中でクロは余裕をもって体勢を整え、エクレールは独自魔法を限定使用から本来の使い方、全力での使用に切り替えた。
雷鳴が轟き、エクレールの姿は光となる。
常人に見えるのは動いたあとの残光だけだろう。纏っている雷も、砕けた剣から伸びる雷の刃も見ることはできないはずだ。常人であるならば。
瞬く間もなく、二人は接触する。
クロは紫紺の光を強く輝かせていた。二人の最初の距離は二十歩程度。その近さで光の速さのエクレールに対して魔法を発動させただけでも驚きである。しかし、さらに信じられないことがエクレールの目に映っていた。
雷の刃が手刀で止められていたのだ。その手は紫紺に輝き、どんなに力を込めてもピクリとも動かない。接触までの助走距離はエクレールのほうが長く、その勢いのまま剣を振るっていたのにもかかわらずだ。
エクレールの独自魔法はただ速いだけではない。限定使用ならともかく完全な状態であるならば、纏う雷は近づくだけで感電し、発火しては焼け死ぬ。だがクロには雷が届いていない。雷はクロへ届く寸前で止まっており、その身に到達することができていなかった。
速度に対応され、纏う雷も届かない。そして本命である雷の刃も止められてしまっている。
限界を超えた速度の中で、エクレールは雷の刃にさらに魔力を込めた。強引に焼き切ろうとしたのだ。しかし、その瞬間に手ごたえがなくなる。
雷の刃があらぬ方向へと流れていく。
エクレールの斬撃は、刹那にも満たない時間の中で見切られ、受け流されていた。
クロの拳が迫る。肩口から振り下ろされてくる軌道は、腹部または腿を狙っているように感じた。
見えてはいる。しかし、加速状態のエクレールはその速度ゆえに直進しかできない。さらに攻撃を流されて体勢も悪く、クロの拳を対処する時間はなかった。
拳を受けることを覚悟したとき、突如、空間が揺れる。同時にクロの紫紺の光が鈍り、その速度が一気に落ちた。
クロの動きは止まったわけではない。このまま何もしなければ拳は当たるだろう。ただ、遅くなったおかげで体を捻る余裕はできていた。
エクレールは転ぶのを覚悟で体を捻り、拳を避ける。この速度で地面に転がれば被害は大きい。下手をしなくても骨は数本折れるだろう。それでもクロの拳を受けるよりはマシだとエクレールは直感で判断したのである。
数多の雷鳴を束ねたような轟音が響く中、エクレールは地面へと飛び込んでいく。かくして地面へと衝突するが、予想に反して衝撃は来ない。訪れたのは高級なベッドに飛び込んだような、柔らかくも弾むような感触だった。
エクレールは何が起きているか理解できていない。それでも弾んださいに反射的に回転し、地に足をつけることに成功していた。そして、そのまま地面を削るようにして滑り、大きく距離が離れたところでようやく停止する。
視線をクロへと向けると、地形が変わっていることに驚く。地面は大きく陥没し、蜘蛛の巣状の亀裂が入っていた。クロの姿は中心に見えたが、視線はこちらに向いていない。
エクレールは直感が正しかったことを知り、大きく息を吐いた。直撃していたら死んでいてもおかしくない。生き残ったとしても再起不能だろう。そのときの怪我の度合いなどは考えたくもなかった。
かぶりを振り、気持ちを切り替える。次いでクロを見るがいまだに動いていない。動かずにいるクロが気になり、その視線の先を辿ってみる。するとそこに見えたのは、杖を構え、口から血を流したドボルゲイツの姿であった。
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