水面に揺れる
「……さっぶ!」
パーカー1枚のこの男は、両腕を擦りながら笑っていた。
「そんな格好してるからだよ、ばか晴人」
「いや、こんな寒いと思ってなかったんだよ! つーかばかは余計だろ、ばかは!」
ほんと、うるさい奴だなぁ。まあ、そんなとこに助けられてたりもするんだけどね。
「なぁー、明音」
「なぁに」
「なんで急に海? しかもこんな夜中に」
そう、私たちは海に来ている。わざわざ最終電車に乗って、2人で。
「んー? なんでだろうねー」
「なんだそれ、訳わかんねぇ……」
誰もいない黒い海が、眼前に拡がって、細やかな波音が私の心を攫ってく。
薄手のトレンチコートが揺れて、髪が乱れる。やっぱりまだ寒いなぁ。
「明音っ」
また名前を呼ばれる。それと同時に、腕が掴まれた。
「っ……!」
「……やっぱり、泣いてんじゃん」
思わず振り返ると、涙が揺れて足元へ落ちる。こんな奴に、見透かされるなんて。
「なぁ、もうやめろよ」
いつになく真剣な顔で、私を見据える。その瞳は、少しだけ潤んでいた。
「亮輔、もう彼女いるんだよな? お前、それ知ってたんだよな?」
私はコクリと頷いた。
亮輔は、私の好きな人。彼氏だった人。だけど、今は……。
「……はぁ。お前さ、都合のいい時に呼び出されて、ヤるだけヤッてはい、さよなら。そんな関係いつまで続ける気だよ」
そう、亮輔にとって、私は都合のいい女。身体だけの関係。それでもいいと思っていた。けど。
「明音、お前それでいいの? セフレのままでいいのかよ」
「いいわけないじゃん!」
晴人に言われなくたって分かってる。こんなのダメだって。でも、どうしても、私は亮輔から逃れられない。
「いいわけない……! けどっ……仕方ないじゃん! 私は、わたしはっ……! 亮輔が好きなんだもんっ!」
言いながら、更に涙が溢れてくる。喉の焼けるような感覚と、目頭の熱が強くなる。嗚咽を堪えようとした時、ぐっと引き寄せられる。私は晴人の胸の中へ倒れ込んだ。
「は、ると……?」
「俺じゃ、ダメなのかよ……っ」
背中に回った腕に力が篭もる。消えそうに掠れた声の晴人は、泣いているんだと分かった。
「もう、お前の悲しい顔見たくないんだよっ……! お前のそんな話、聞きたくねぇんだよ……」
そう言うと晴人は、私の頬に手を添えた。
「明音、俺にしろよ……」
その瞳の奥に吸い込まれそうで、私は、顔を逸らすことは出来なかった。
パーカー1枚で降りた砂浜は、びっくりするほど寒かった。3月も後半だというのに、夜はまだまだ冷える。
「そんな格好してるからだよ、ばか晴人」
笑ってみせてはいるけど、こいつ、明音は今にも泣きそうだった。どうせまた、泣かされたんだろうな。
こいつの愚痴やらなんやらを聞くのは、もう何回目だろう。数え切れないほど、元カレに泣かされて。波打ち際まで歩いていく彼女は、そのまま帰ってこないような気がして……。
「明音っ」
思わず腕を掴む。振り返った明音の瞳からは、涙が溢れていた。
「……やっぱり、泣いてんじゃん」
咄嗟に涙を拭う彼女に、俺は言った。
「なぁ、もうやめろよ」
明音は、ずっと亮輔が好きだった。ただ一途に、ひたむきに、亮輔の1番になろうとしていた。俺は、そんな明音が好きだった。なのに、それなのに。
いつまで明音は、縛られているつもりなのだろうか。
「お前、それでいいの? セフレのままでいいのかよ?」
「いいわけないじゃん!」
明音の声は鋭く、俺に突き刺さる。
「いいわけない……! けどっ……仕方ないじゃん! 私は、わたしはっ……! 亮輔が好きなんだもんっ!」
そう言って、涙を堪えようとする明音。彼女をぐっと引き寄せると、思いきり抱きしめた。
「は、ると……?」
「俺じゃ、ダメなのかよ……っ」
背中に回った腕に力が篭もる。消えそうに掠れた声に、明音が戸惑っているのが分かった。だけど、もう止まれない。
「もう、お前の悲しい顔見たくないんだよっ……! お前のそんな話、聞きたくねぇんだよ……」
そう言って、彼女の頬に手を添える。
「明音、俺にしろよ……」
彼女の唇に、そっと唇を重ねた。
始発に向けて駅へと歩き出す。
あの後、泣き疲れて浜辺で寝こけた私たち。案の定、風邪を引いた。鼻をすすりながら、ぼーっとしながらでも、繋いだ手は離さなかった。
「もう、やめるから」
無言の帰り道で、ぽつり、呟いた。
「……あ、そ」
晴人は、興味無さそうに返事をする。下手に何か言われるよりも全然いい。
「ありがとう、晴人」
その後みた海の色は、朝焼けのせいでとても眩しく輝いていた。