退院の兆し
それから数日、もとの世界に戻れる訳でもないまま、私はベッドに転がされて静かに日々を過ごした。たまにお医者様がいらしては、あれこれと質問を投げ掛けられて、白や薄紅の硬い豆を飲まされる。
それから検査と称して、訳の分からない棺に転がされたり、生身の体で歩行が出来ない私の訓練に駆り出されたりする。
そして一日に数度食事が運ばれてくる。
初めこそとろとろの柔らかい食事で、味覚になんの刺激も無いものばかりだったが、三日も経つ頃には食事が楽しみのひとつになった。だんだんと食感や味覚にバリエーションが加えられて、そのどれもこれもがとてつもなく美味なのである。
味ってこんなもののことを言うのね。
クエストが進んでパーティに加えられた後、私の世界でも食事のイベントがあったけれど、所詮それはデータである。にこやかに「美味ですね」なんて言ったりしていたが、こう実感してしまうと感覚はまるで違うものだ。
彦根さんも一日に一度は私の前に現れた。実里との思い出話や、実里の母親について語っては、最後に頭をひと撫でして去っていく。
そうした時間の中で、彦根さんという人物が少しずつ分かってきた気がする。
私は彦根さんの初恋の方との間に生まれた子供だそうだ。その方は奥様では無いらしい。奥様は別にいて、その方との間には息子が一人。実里よりも一歳歳下の、異母兄弟がいるわけだ。私の母に当たる方は、私を産んでまもなく持病で他界されたらしい。奥様との間に子供が出来たことが発覚し、結婚する事になった彦根さんは、私をやむなく孤児院へ入れたと言うわけだ。
ちなみに彦根さんは、実里が十五歳を少し過ぎた頃から単身赴任なるものをしているそうで、奥様や息子と会うのは数ヶ月に一度だと言っていた。
わけの分からない言葉も、聞き返せば丁寧に説明してくれるので、この数日で私の知識はずいぶんと広がったのではないだろうか。
しかし、彦根さん。ふんわりと優しい顔して、意外と不義の方ではないか?つまり私は不貞の子というか、庶子というか......。
あ、でも私。別に今に始まったことじゃないわね。ただの孤児か、実は王族の継承権を正当に掴んでいた孤児かの違いだったわ。
我ながらしょうもない生い立ちである。
夜が来ると、この建物は全体的に暗くなる。消灯時間と言って、いわゆる休息の時間のようだ。しかしこれには少しばかり困ってしまっていた。夜中に数回看護師様が部屋へと訪れるのだが、寝転がったまま天井を見つめ続ける私を看護師様は気味悪がっている気がする。
私には眠るという感覚が無い。なぜなら二十四時間三百六十五日フル稼働のNPCだからである。
こんな自体に陥るよりも前、NPCとしての生活をしていた時に、定期メンテナンスなるものはあったのだが、世界が暗くなると同時に私の時は止まっていたので、体感は瞬き程度のものだった。眠れと言われてもこればかりは非常に難しい。
現在この問題は非常に深刻で、眠れと言われても眠れずに朝を迎え、数日に一度肉体が限界を迎えた時に、時間を問わず意識が落ちるのを繰り返している。
どうやらこの世界で私を取り巻いている人物達は、私のようにNPCなわけでも、恐らくAIでも無い。私のわかりやすい説明で言うところ、プレイヤー様達だ。つまり生身の感情をもった生命体である。私のこの悩みを伝えた所で、怪訝な顔をされて困るのは私なのだ。
「どうしろっていうのよ」
窓の外の見慣れぬ風景を眺めながら、私は小さくぼやいてみた。窓の景色一つでも、全く持って世界が違う。この窓から見える建物はどれもこれもまるで城ではないか。妙に縦長いのが腑に落ちないが、それほどに立派なのである。
はぁ、とため息をついたところで、白い部屋のドアががちゃりと音を立てて開いた。
「彦根さん」
ドアを開けた人物は彦根さんだったようだ。彦根さんはいつものように椅子に腰掛けると、今日はいくらかご機嫌が良さそうに私の頭を撫でた。
「実里、いい知らせだぞ。明後日になったら退院だ」
「退院、ですか?私はここに置いては頂けないのですか?」
退院?退院ですって?それって除名って事だよね?破門とか、そうゆう感じのあれだよね?修道院での退院と言うのは、非常に見聞が悪いものである。芽吹きの街からやって来たプレイヤー様のビギナークエストでは、修道院や自分の生い立ちに病み切った修道女が闇落ちして、あれやこれやと悪さを働いた挙句最終的に退院措置が取られるクエストがある。
大雑把に言うと、身ぐるみ剥いでぽい!である。
私は体から血の気が引くのを感じた。
そんな私の反応に、彦根さんは慌てたように言葉を続ける。
「実里、実里はこんな状態だし、俺が正式に引き取ることに決めたんだ。もう安心していいんだよ」
「彦根さんの元へ?」
「そうだ。だから明後日になったら、俺の家に行こう。実里の部屋も用意はすぐに出来る。だから安心して退院していいんだよ」
彦根さんがご機嫌なのは何故なのだろう。庶子に対してこれほどの厚遇をする理由はなんだ?王位を継いで欲しいのか?ここでも?
でもまさか、記憶障害の熨斗がついた私なんて、それほどの役に立つわけがない。この世界の常識が何も備わっていないのだから。
「ご迷惑は掛けられません」
私は彦根さんにそう言った。退院なんて、そんなの困る。なんとかここに置いてもらえないものか。私の世界には病院なんてものは無かったが、修道院では宿として騎士様を迎え入れるし、望むものには神への奉仕をする事で衣食住を与えられる。ここは修道院みたいなものだという見解なのだが。私の感覚では神の加護が私の望みを受け入れて、罪のない私を導いて......欲しいんだけど。駄目なのかな。
ああ、なんか目が乾くな。開けてるのがなんか辛い。ちょっと閉じたい。
私が顔を伏せて目を閉じると、何故やら感極まった彦根さんが、私を突然抱きしめた。
「な?!」
「実里は俺の娘だ。もう寂しい思いも、怖い思いもさせない。もっと早くこうすべきだったんだ。俺の所に来てくれ。もう安心だから」
あの......私別に寂しいわけでも、怖いわけでもなくですね。
あぁ、でもなんか面倒くさくなってきたな。
私の身を寄せる所が病院だろうと、彦根さんの家だろうと、どの道私アウェイじゃない。
そう思うと、なんだかこのまま乗ってしまおうかと言う気分になってきた。
私は彦根さんに細く不健康な腕を回して、こっそり自分の目を擦りながら、とりあえずぐすんと鼻を啜ってみた。
彦根さんの家、美味しい食事出てくるかしら......。