真夏のサウンドオフ⑨
「棋道部用?」
将棋の試合中に合う応援歌なんて全く想像もつかなかったが、渡された譜面台を広げ彼女はそこに自分で書いたノートを広げた。
題名に「四つのロマンス」と書かれている以外は変なオタマジャクシが上に行ったり下に行ったりして僕には何が何だか分からなかった。
笛のセッティングが終わって「いくよ」とパッチリした横目で僕を見た後、彼女が演奏が始める。
それはいつかここで聞いた曲に似ていたが、それよりも更に優しく心地の良い、落ち着いた曲で、音楽を聴きながら勉強をする事ができない僕でも、この曲なら出来そうだと思い目をつむって静かに聞いていた。
いつ終わったのか分からないくらい静かに曲が終わり、彼女から「どうだった?」と言われるまで穏やかな流れに身を任せていた。
「うん。良かった」
もっと他に気の利いた感想なんかが言えれば良かったと思ったが、音楽的な知識の無い僕は素直に聞いた感想を「良かった」とだけしか答えられなかった。
「ありがとう」
彼女はそう言った後、直ぐにオーボエを仕舞いはじめ、僕も譜面台を片付けた。
楽譜の書かれたノートを持ったとき、その唯一分かる題名にもう一度目が留まった
『四つのロマンス』
なぜか曲と共に、この題名が好きになった。
少しの時間だったが、いつの間にか西の空には微かに紫色の夕焼けが残るだけで、辺りはもう薄暗くなっていた。
バス停の所まできて道の先を見ると向こうに走り去って行く自転車が一台見えるだけで車の往来も少なくなっていた。
なぜか、遠くに離れて行くその自転車を、森村直美が目で追っていた気がした。
それも、僕が気がつくよりもずっと前から……。
家の前で荷物を渡して別れた。
彼女は荷物を肩に掛けると手を振りながら
「迎えに来てくれてありがとう!」
と言った。
それについて。僕は否定もせず肯定もしないで手を振った。
森村直美は自分の家に入る前に、もう一度僕の方を振り向いて、大きく手を振ると玄関の中に消えた。
僕は彼女が家に入るのを見届けてから家の中に入った。
部屋に戻り机に着くと不思議な事に、もう野村と森村直美の顔に悩まされることはなかった。その代わり、さっき土手で聞いたあの四つのロマンスという曲が頭の中を穏やかに流れていて、いつのまにかやり始めた勉強は思ったよりいいペースで進んでいた。
 




