大切な気持ちを言葉に③
相手との我慢比べが続く中、時折俊介の状況を確認すると、彼は明らかに勝負を捨てて相手側に時間を使わせている。
一体何故彼が故意に時間を引き延ばしているのか、自分の手を考えながらでは理解できなかった。
いよいよ僕のほうも持ち時間が少なくなり、我慢の限界が来て、焦りが出てきた。
状況を変えるため、攻めに転じるしかない。
そう思ったとき不思議な事に、森村直美が棋道部の応援曲だと言って河原で聞かせてくれたあの「四つのロマンス」のメロディーが聞えてきた。
森村直美は部活でここには来ていないので空耳なのだろうが、僕の耳にはハッキリと彼女の吹くオーボエの調が届く。
不思議なことに、その調を聞いていると、焦っていた気持ちが嘘のように落ち着いてきた。
一旦落ち着くと、今迄見えていなかった事が鮮明に見えてくる。
それは、隣の俊介の時間の使い方だった。
ズット気になっていた。
何故不利な状況の打開に、一か八かの勝負を掛けないのか。
攻撃的な将棋を得意とする俊介なら、そうするはず。
それなのに今は、まるで負けることを前提の上で時間を掛けているように思っていたが、その理由が分かった。
”俊介が時間を引き延ばしているのは、隣の武田君にプレッシャーをかけさせたくないのだ!”
戦局を打開するために打つ一か八かの攻めは、失敗すれば直ぐに負ける。
もし俊介が一番先に負けてしまうと武田君は、どうしても勝たなければいけない状況になる。
それでは今の武田君には、勝ち目が無くなる。
俊介が不利な状況を我慢して時間を使っているということは、武田君は今屹度良い勝負をしているからこそだろう。
更に粘る理由はもう一つ。
いくら武田君が勝っても、僕が負けたのでは全く意味がない。
……と言うことは俊介から見た僕の勝負は、僕が不利ではないと言う事。
そう思うと、まだまだ自分のペースを崩さずに頑張ろうと、攻めるのを止めた。
オーボエの優しい音色に心を落ち着かせ、第三者的に相手の顔を観察すると、額の生え際に薄っすらと汗が確認できた。
僕も限界だが、相手も限界だ。
しかし僕には気持ちの余裕があり、相手はさっきまでの僕と同様に余裕がない。
そう考えると、急に相手のこれからの手が読めてきた。
おそらくお互いに時間のない中、相手は先ず揺さぶりを掛けてから攻撃に転じてくる。
僕には相手が揺さぶりを掛けてくる場所や、そのあとの攻撃を掛けてくる場所や手などが手に取るように分かり、そして常にその裏を突いた。
一番右の武田君が投了したらしい。
僕は俊介の左手を見る。
俊介の握られた拳から親指が立てられていたことで、武田君の勝利が分かった。
負けた場合は小指を立てて知らせる事になっていて、左右両方の対局を見ることのできる中央の俊介が考えたサインだった。




