夢で逢いましょう
シャンプーの泡が入道雲のようにムクムクと広がっていく。
薬局にあったテスターと、実際に買ったシャンプーの匂いは微妙に異なっていた。シャンプーを洗い流しながら、バヤと話したことを反芻する。
「〈元彼女〉と、別れたんだ」
バヤは角煮を食べながら聞いていた。
「へぇ、そうなんだ。それは残念だったな」
あっさりと言い残すとバヤはトイレに向かった。
なにもこのタイミングでトイレに行かなくても良いのに。
そう思っても、尿意を我慢しているのは同じだったので何も言わなかった。バヤと入れ違いでトイレに向かう。用を済ませ、手を洗っている最中に鏡を見ると、顔を真っ赤にした男と目を合わせた。こんなに酔ってるのはいつぶりだろう。
「何だよ、慰めてくれる訳じゃないのかよ」
トイレから戻った祐介は2人分の水を持ってきた。
「だって慰めたって意味ないだろ?時間を戻せるわけじゃないんだし」
「まあ、たしかにそうだけど...」
言ってることは間違えてない。だからこそ上手く飲み込めない。祐介は煮え切らない気持ちだった。
「なんでもない、ただの別れだ。よくある話、よくある話。また良い人に会えるよ。生きてさえいれば」
バヤは水を流し込んだ。
「そんな簡単に言うなよ」
祐介はバヤの軽口にため息を吐いた。どうしてそんな簡単に割り切れてしまうんだろう。
バヤは水の入ったグラスを回し、氷をカラカラと鳴らした。
「もし、その人が運命の人なら必ずまた出会えるよ。今なのか、来世なのか分からないけど。もしかしたら人の形じゃないかもしんない。どういう形で、いつなのかも分からないけど、もう一度と、本気で望むなら絶対に会えると俺は思うけどな」
バヤが水を口にしながら語り続ける。
「次に会う時までの休憩みたいなもんだろ。今のうちに孤独を楽しみなよ。どうせ孤独なんて長続きしないんだから」
祐介はその話を黙って聞いた。
「…っていうのを本で読んだことがあってな。本気にすんな、ただの受け売り」
バヤは快活に笑った。
「人を馬鹿にしやがって…」
祐介は強めにバヤの肩を殴った。
「でもバヤも本とか読むんだな、知らなかったよ」
「立ち読みだけどな。あと本当は受け売りでもなく、俺の言葉だから。って言ってもどうせ信じないだろ?」
「信じない」
「真相は闇のなかに」
バヤがわざとらしく人差し指を口に当てる。
「もう誰の言葉でも良いよ」
祐介は呆れて口角をあげた。バヤには感謝している。ずいぶん肩の荷が降りたように感じる。肝心なところで誤魔化したり、はぐらかしてしまうのがバヤの悪いところだと思っていなのに、そんなとこにも救われた。
きっと重く受け止め過ぎるのは良くないのだ。
シャワーの水が肌をつたって排水溝に吸い込まれていく。どこかの部屋でお湯が使われたのか、シャワーの水圧が弱くなった。
バヤと交わした約束のこと忘れたな。祐介はふいに思い出した。一番悩んでるものと向き合うってそんな簡単なことだろうか。
「そんな簡単なこと、」
何度も口にした言葉だった。もう一生分使ったはずなのに、同じ言葉がまた喉から出てくる。
体にまとわりついた泡を洗い落とした。昨日までの自分が流れ落ちて生まれ変わったような気分になる。
祐介はベッドに潜り込んだ。
常夜灯のオレンジに誘発されて少しずつ睡魔が近づいてくる。とろりとした感覚。今が夢か現実か分からない。もし、今が夢だとするなら、なんだって出来るような気がする。
言い訳ばかりしてきて手を出さなかったものは、意外と手の届くところにあるのかもしれない。
「簡単なことなのかもしれない」
気がついたときには薄暗い廊下に立っていた。203号と書かれたプレートが点滅していた。祐介は203号のドアノブを回した。ゆっくりとドアを開く。そこには精算機ともう一枚のドアがある。宝箱のように厳重に閉められているセキュリティーのドア。向こうから物音が聞こえる。
息を殺しほんの少しだけドアを引いて覗きこむと、下着姿が見えた。白にかぎりなく近い肌色の曲線には見覚えがあった。
〈元彼女〉が、泣いている。
これが夢であることを祐介は分かっていた。
「どうしたの?」
〈元彼女〉はハッとした顔で祐介を見た。
「なんでここにいるの?」
〈元彼女〉のうるんだ目に、安っぽい光りを放つ照明が当たってキラリと光る。
「助けに来たんだよ」
「でも、わたし、」
「大丈夫、わかってるから」
〈元彼女〉の手を引き立ち上がらせる。
我慢できなくて、そのまま抱き寄せた。久しぶりの温もり、柔らかい素肌、あまい髪の匂い。
本当はこれが現実ではなのはないだろか。夢にしては妙に生々しすぎる。
「ごめんね、本当にごめんね、」
〈元彼女〉は肩を震わせながら涙を落とした。
止まらない涙が祐介のTシャツの胸の辺りを少しずつ濡らす。Tシャツが肌にくっついて気持ちが悪かったが、嬉しくもあった。
「とりあえず、ここから出よう」
どれだけ周りを見渡しても着ていた服が見あたらない。仕方なく乱雑に置かれていたバスローブを着せた。
このあとのことなんて、どうでもいい。なによりもまず、この場所から逃がしてあげたかった。
祐介は手を引いて〈元彼女〉を連れ出そうとした。白くて柔らかい手の感触、どうしても見てしまう心臓に一番近いところにある柔らかい弱点に欲情しそうになる。
顔を覗かせている欲望を押し殺すように〈元彼女〉をドアの方へ誘導する。
流水音がしてトイレから1人の男が出てきた。その男は祐介を一瞥すると何もなかったように〈元彼女〉を抱きしめて頬に口づけをした。
祐介が怒鳴り声をあげようとしても声が音にならない。するりと手が離れていく。男がそれを嘲笑う。
男は〈元彼女〉の手を引き、ベッドに押し倒した。祐介が必死に彼女の手を引っ張ろうとしても、上手く掴めない。
居ても立っても居られず、祐介は男に殴りかかった。殴ったときのじんとした鈍い痛みがこない。
祐介の拳は男の手のひらで受け止められていた。男は祐介の手を捻った。壊れそうなほど痛いはずなのに声が出てこない。
男はもう片手で〈元彼女〉のホックを外した。見覚えのある乳房が露わになる。女性の泣き叫ぶ声が響き渡る。祐介は何も出来ない。男は彼女の口のなかに舌を滑り込ませた。祐介がいくら暴れまわっても男には無力だった。舌どうしが粘膜を奪い合う音がいっそう激しくなった。声を出そうとしても出てこないことが祐介の激昂を加速させた。出ないと分かっていても何度も声をあげて男と〈元彼女〉を引き離そうとする。
「やめろよ!!!」
祐介は自分の叫び声にびっくりして目を覚ました。目覚まし時計がけたたましく鳴っている。夢で良かったという安心感と、夢じゃなかったらという屈辱が同時に押し寄せる。
背中にじっとりと汗をかいていた。